第9話:そこで蠢くモノ_1
村の中央広場に立つ五人の間を、ヒュウゥ――と冷たい風が吹き抜けた。空気は重く、まるで見えない大きな手に、頭から押さえつけられているようだ。長い沈黙の中で、井戸の中から時折コト……ンと、相変わらず何かが底へ転がる音が聞こえてくる。
「……まだ、いる、よな」
圭介が声を潜め辺りを見回す。途切れ途切れ苦しそうに言葉を放つ、そんな彼の額には汗が滲んでいた。
「確かに、気配はある」
涼は低い声で答えた。その視線は井戸ではなく、周囲の家々の暗がりへ向けられていた。
「涼さん……や、やっぱり、もう帰りませんか?」
美咲が涼の袖を掴み、不安そうに顔を上げる。彼女の声は震え、今にも泣き出しそうだ。
だが涼は答えず、耳を澄ませていた。
――ザリ――ザリ――
地面を何かが擦る音が、またしても背後から響いた。
「後ろだ!」
修平が叫び、全員が一斉に振り返る。
――そこに立っていたモノを見て、全員が凍りついた。
それは人の形をしているようで、しかし明らかに人間ではなかった。身体を纏うはずの皮膚という皮膚が剥がれ落ち、空気に晒された赤黒い筋肉がむき出しになっている。骨は不自然に曲がり所々肉を突き抜け、釘付けになってしまうほど四肢は異様に長い。
そして――その顔には、顔であるはずのものには、黒く淀んだ穴はあるのに眼球がなかった。
「な……何だよ、あれ……!」
圭介が声を震わせる。
明らかな異形はゆっくりと首を傾け、口だけを大きく広げた。そこから低く、湿った呼吸音が漏れ出す。
「涼さん、あれ……人間、ですか……?」
美咲が後ずさりながら呟く。
「……人間だった【何か】だろうな」
涼は冷静に答えるが、手は握っていても震えているのがわかるほどだった。
異形は一歩踏み出した。その動きはぎこちなく、それでいて異様に速い。ザリ……ザリ……という音は、むき出しの骨が地面を擦る音だった。
「く、来るぞ! 逃げろ!」
修平が声を上げ、全員が散開した。異形は一直線に美咲へと向かってきた。
「いやぁっ!」
美咲が悲鳴を上げ、後ろへ飛び退く。そこから走り出そうとするも、足がもつれ転びそうになる。
「美咲!」
涼が即座に駆け寄り、腕を掴んで引き寄せた。異形の爪が空を切り、代わりに涼の肩をかすめる。服が裂け、薄っすらと血が滲んだ。
「涼さん!」
美咲が叫ぶ。
「大丈夫だ、良いから走れ!」
涼が美咲を押しやり、異形と向き合う。圭介がその横に飛び出し、拾ってきた鉄パイプを振り下ろした。
「うおおぉぉぉっ!」
パイプは見事異形の肩に命中し、骨が砕ける鈍い音がした。
だが異形は全く怯まない。むしろその口を更に大きく裂き、圭介へと向き直った。
「効いてねぇのかよ、マジかよ……!」
彼は鉄パイプを再度構え、そのまま後ずさっている。
その瞬間、異形の顔が圭介に向けられた。
「――ジジジ……」
耳障りな音と共に、異形の頭部から淡い光が瞬いた。
「……おい、何だこれ……」
修平が困惑したように呟く。言い終わると同時に、圭介が目を見開き、動きを止めた。そして彼の瞳に、一瞬、村の入口にいた時の光景がよぎった。
「圭介!? 何やってるのよ! そこから動いて!」
悠里が叫ぶ。
「ま、待て……俺……今……村へ入る前に戻った気が……」
圭介が混乱した声を漏らす。
「何、言ってるんだ?」
「俺、今、村に……ここ、え? あれ?」
「圭介!?」
「ニオイ……あの、家は……お札、人形……」
「ま、まさか……時間を巻き戻してる……?」
涼が険しい表情をした。
「ダメだ! 目を合わせるな! 多分アイツの能力だ!」
しかし言い終わる前に、異形が再び圭介に向かって跳躍した。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
涼が横から体当たりし、圭介を突き飛ばした。異形の爪は涼の頬をかすめ、先ほどよりも深い傷に小さな血飛沫が舞った。
「涼さん!」
美咲が叫ぶ。
「俺はいい! お前らは井戸の反対側へ回れ! 戻るんだ! 身を隠せる場所まで!」
涼は叫びながら、異形の注意を引くように走り出した。
「こっちだ! こっちへ来い!」
「お、おい待てよ! 一人でやる気か!?」
異形を引き連れた涼を圭介が追いかけようとするが、強い力で悠里が彼の腕を掴んだ。
「今行ったら全員死んじゃう! 涼を信じて! アナタまで行かないで!」
「でも!」
「悠里の言う通りだ! ここは涼に任せて、俺たちは行くぞ! 美咲も!」
「は、はい!」
誰もが後ろ髪惹かれる思いで、涼を一人にした。彼は走りながらも、野球のバッドほどの長さと太さのある木の枝を拾い、逃げた仲間を守ろうと異形と対峙する。呼吸は荒いが、その瞳は獲物を狙う獣のように鋭かった。
「くそっ……!」
異形が再び大きく口を開いた。ジジジ……という音が響くと同時に、周囲の空気が歪む。そしてまた、皮膚の下を走るような低い音が鳴ると、地面に落ちた落ち葉が逆流するように舞い上がり、時間そのものが引き戻される感覚が五人を襲った。
「くそっ……!」
涼が歯を食いしばる。
次の瞬間、異形が涼へ飛びかかる。爪が迫り、彼の身体が地面に叩きつけられる直前――
「涼さん!」
美咲の絶叫が広場に響いた。
そして――またあの光とともに、視界が赤黒い飛沫に覆われた。