第56話:さよなら_3
そして――
壁の奥から、人間の腕が突き破って伸びてきた。
それは皮膚がずるりと剥け、筋肉と骨がむき出しになった痛々しいな腕だった。指先は異様に長く伸び、爪が空中を掻きむしりながら、ゆっくりと美咲へ向かって伸びてきている。
その動きは異様に緩慢で、しかし確実に――まるで獲物をいたぶる捕食者のように、ゆっくりと間合いを詰める。
涼は即座に反応した。美咲の腕を掴み、強く引き寄せる。
「美咲、こっちに来い!」
しかし、美咲は抵抗するでもなく、虚ろな瞳で壁の奥を見続けたまま小さく呟いた。
「……泣いてるの……あの子、私を呼んでる……。だから、だから……いかなきゃ。あの子のところに」
――ずるり。
涼が美咲を引いた瞬間、壁の裂け目が大きく口を開くように広がり、そこから人間の顔がずるりと滑り出た。
それは半ば肉と同化し、片目はすでに肉壁に吸い込まれているが、もう片方の目がぎょろりと動き、美咲を見つめていた。
「……た、す……けて……たすけて……」
「君も……同行してくれた作業員じゃないか」
涼は息を呑む。その男性も、格好から見て作業員の一人だった。
再開発作業員として同行していた男性の顔だ。壁に同化されながらも、まだ意識が残っているらしく、涙と涎が混じった口から、苦しげに呻きが漏れていた。
「大丈夫か!? おい、意識が――」
涼が声をかけるが、すぐにそれは無意味だと悟る。壁が脈打ち、男性の顔が一瞬苦悶に歪むと、ずるりと壁の奥へ吸い込まれ、代わりに真新しい別の顔が押し出されてきた。
「……君も、か」
一条が力なく項垂れた。彼もまた、再開発作業員として同行していたからだ。顔を見ればわかる。違ったのは表情だけだ。目は完全に虚ろで、口は引きつった笑いの形で固まっている。
だが、その虚ろな瞳がぴくりと動き、涼の方を向いた。
「……あつい……あついよ……あつい、あつい、あつい、あつい……」
声が上ずり、まるでレコードの針が跳ねるように同じ言葉を繰り返す。
――どくん――どくん――どくん――
壁が大きく脈打ち、彼らのいた部分が盛り上がった。赤黒い血管が脈打つたびに膨れ、二人の身体全体が壁から押し出されるようにせり出してきた。
彼らは完全に壁の一部となり、肉と石が混ざった不定形な塊に変わりつつある。それでも、両者の目だけは生々しく動き、助けを求めるように涼を見た。
涼は歯を食いしばる。
助けられるならば、全員助け出したい。しかし、今のお自分にその力はない。
「……ここで助けようとしたら、俺たちも同じになる……!」
涼がそう呟くと同時に、壁が大きく蠢いた。
――ぼこり。
浅川と鈴村の身体が急にひきつけを起こすように痙攣し、次の瞬間、上半身がぼろりと裂け、無数の腕が飛び出した。
それは元の人間の腕ではなく、細長くて薄い、指が何本も生えている異形の腕だ。とても、人のものとは思えない。
「たすけて……たすけて……たすけ――」
一人の口がそう叫んだ瞬間、顔がぱっくりと裂け、そこから長い舌のような肉片が涼に向かって伸びた。
一条は即座にナイフを構え、迫り来る舌を切り払う。だが、壁から生えた腕が何本も彼に向かって伸び、空気を切り裂いた。
美咲が動かなかった。
彼女は腕を掴まれたまま、ただ壁を見つめ続けている。瞳は潤み、口がわずかに動いた。
「……泣いてるのよ……あの子、泣いてる……私を呼んでる……」
その言葉と同時に、壁が大きく脈打ち、城全体に低い鼓動が響き渡った。
――どくん――どくん――どくん――
その瞬間、涼ははっきりと理解した――この壁そのものが、胎主の一部だ。
そして――
壁の奥で、巨大な瞳が開いた。
それは肉壁の奥深くに封じられていたはずのものが、今こちらを覗き込んでいる。
巨大な眼球がゆっくりと瞼を開き、その瞳孔がぎょろりと動き、美咲を真っ直ぐに見た。
美咲は震える唇で囁いた。
「……お母さん……?」
美咲のかすかな声が、胎動する壁の鼓動と重なって響いた。
「……お母さん……私、あなたに……会いに来たのよ?」
――どくん。
まるでその言葉に応えるように、壁全体が大きく脈打つ。
先ほどまで埋まっていた作業員たちの身体が、まるで操り人形の糸を引かれるようにぎこちなく動き始めた。半ば崩れた口が無理やりに引き裂かれ、筋肉が肉壁の中で不自然に動き、言葉を絞り出す。
「……ミ……さ……き……」
男の目はすでに死んだ魚のように濁っているが、その瞳だけがかろうじて美咲の姿を追っていた。
「涼君……これは、もう……」
「わかってます。……生きているとは、言えないと思います……」
涼はナイフを強く握り直す。
「……ああ、でも……せめて、これ以上苦しませたくない」
作業員たちは、もはや人間ではなかった。壁と同化し、肉塊に意識だけが残されている。それは生きながらにして地獄を味わう刑に等しい。
せめてこの手で、と、涼が手を書けようとしたとき。―― 美咲が一歩前に出た。
涼が咄嗟に腕を伸ばすが、美咲は振り払うように前へ進む。
「やめろ、美咲!」
「違うの……私、わかるのよ……この人たち、もう私たちに『助け』を求めてない……呼んでるのは【あの子】なの」




