第54話:さよなら_1
――【母胎室】へと続く回廊は、ひどく静かだった。
だが、その静寂は死んだ空間のものではない。壁を伝う冷たい湿気は生き物の呼吸のように脈動し、耳を澄ませば、どこかで誰かが押し殺した声で泣いている気がする。
涼は、震える手で錆びついたランタンを掲げた。ガラスは割れて、枠は曲がっている。だが、まだ使うことはできた。
揺れる光が石壁を舐めるように照らすたび、そこにはかつて人が彫ったであろう文字や、古い血痕が浮かび上がる。どこを見ても、文字と血痕はついてくる、呪いのように。
「……この奥へ行くべきなんだろうな」
一条の声に、涼と美咲はジッと前を見た。目の前の扉の上に、古びたプレートが掲げられている。ここに部屋の名前が書いてあったのだろう、だが、今はすっかり掠れて文字は読めない。
足元を濁った水がひたひたと覆っていく。きっとこれは、かつて城の地下で行われていた儀式に使われたとされる導水路だ。涼が靴底で踏みしめるたび、水面に不気味な輪が広がり、天井から垂れ下がる苔むした鎖がそれに合わせて微かに揺れた。
「――あ――れ?」
――突然、涼の視界にノイズのようなものが走った。
ランタンの光が明滅する。
次の瞬間、回廊の奥に『人の列』が見えた。
白装束を纏い、目隠しをされた人々が静かに進んでいく。その中には少女も、老女も、痩せこけた男も混じっている。列を導くのは黒い覆面を被った僧形の者たちだ。
――これは、幻影だ。
先ほど見た、研究の映像と同じ。目の前で起こってはいない。昔の話なのだ。……そう理解しながらも、涼はその場から動けなかった。
動こうとしても、耳元で誰かが小さくすすり泣いている。
『やだ……やだよ……つれていかないで……』
少女の声が、脳に直接響いてくる。
『だれか、だれかたすけて――』
その瞬間、涼の目に『その少女』の視点が流れ込んだ。
白装束の袖から覗く、震える指先。足首に縛りつけられた麻縄。周囲に立つ黒衣の男たちの無機質な眼孔。
少女――いや、生贄として選ばれた村娘の心は、恐怖で張り裂けそうだった。痛いほどに、心臓が鳴っている。
しかし声は決して許されない。彼女の口元には血で汚れた布が噛まされているからだ。
『どうして……わたしが……かみさまなんて、いないのに……』
最後に映ったのは、巨大な石の扉。そこに刻まれた胎児のような紋様が、脈打つように見えた。
――視界が現実に戻った時、涼は無意識に壁に手をついていた。冷や汗が背を伝い吐き気が腹の底からこみ上げてくる。
「……涼君も、見たのかい?」
低く問う一条に、涼は頷くしかなかった。美咲は顔面を蒼白にし、唇を押さえて吐き気を堪えていた。
この場にいた三人全員が、同じ幻影をまた見ていた。これがこの城の意志でないというならば、何の意志だというのだろうか。
必死に吐き気を堪える美咲の目からは、大粒の涙が溢れていた。
少し休憩してから、ゆっくりと足を前へ動かす。奥へ進むにつれ、空気が変わった。
壁に浮かぶ苔が蠢くように動き、耳鳴りのような低い囁きが絶え間なく響き始める。それは人間の言葉ではなかったが、どこかで理解できるような気がする。
『――コイ……コイ……』
――呼ばれている。
涼だけではない。美咲も、そして一条でさえ、引き寄せられるように前へと歩みを進めてしまう。
やがて行く手に、巨大な石扉が現れた。そこには、先ほど幻影で見た胎児の紋様が刻まれている。それが、まるで笑っているかのように光を帯びた。
「ここだ……母胎室」
一条が呟く声は震えていた。
扉が、一人でに軋みを上げて開いた。
内部は広い。黒光りする肉壁のようなもので覆われ、天井からは無数の管が垂れ下がっている。その中央に――
「圭介!」
涼が叫んだ。
――死んだと、思ってたのに。
そこには圭介がいた。
半ば人間の姿を保っているが、背中からは異形の管が突き刺さり、まるで胎児に母胎を繋ぐ臍の緒のように城の壁と直結していた。皮膚は斑状に変色し、片目は赤黒く膨張し、片目は白目をむいている。
口は大きく開かれ、手足はだらんと床に委ねられていた。
駆け寄るつもりだった。が、やめた。
――あれはもう、死んでいるんだ。
そう思い、出しかけた足下げた瞬間、ぐしゃり、と音を立てて【圭介だったモノ】は崩れ落ちた。
辺りには下水のようなにおいが立ち込め、吐き気と不快感が三人を襲う。
「圭介は、死んだんだ。もう、死んだんだ」
美咲の前で、認めることはしたくなかった。だが、こうなってはもう認めるしかない。
「やだ、やだ……」
その場に座り込む美咲が泣くのを、誰も止められない。
「……涼君、あれは……」
「悠里、だ」
先に飛び出していった悠里は、涼たちよりも先に圭介の姿を見たはずだ。床に倒れているのは、間違いなく悠里だ。
彼女は何にも囚われていなかったが、床に倒れたまま動かなかった。
「涼君は、美咲ちゃんのそばについていてくれ。……私がいこう」
涼を制止し、一条が彼の代わりに悠里へと近付く。
そっと悠里の首元に触れる。それから、身体の向きを変えた。
その姿は呼吸を確かめているように見えたが、しばらくして涼を見た一条は、視線を一度外した後、また真っ直ぐに涼の目を見て、横に首を振った。




