第52話:胎蔵の間への道行き_4
その崩れ落ちた蜘蛛の残骸の奥――そこに圭介の姿はもうなかった。蜘蛛の四散した腕や脚、身体の一部らしきものは残っているのに、半身が吹き飛んだ子蜘蛛たちも残っているのに、圭介の身体はどこにも見当たらない。
ただ、黒い管だけが脈動を止めたまま残されていた。役目を終えたかのように。
「……嘘だろ……圭介……お前……」
涼は膝をつき、拳を床に叩きつけた。
悠里は崩れ落ち、声にならない声を上げて泣いた。
美咲はただ茫然と、その場に残された跡を見つめていた。
一条は誰にかける言葉も見つからず、必死に冷静さを保っていた。
――気力が全て、持っていかれそうだった。救いたかった圭介は救えなかった。だが、まだ先に進まなければならない。
「俺だけでも……いく」
涼はゆっくりと蜘蛛の残骸を踏みつけながら、奥へと向かった。
ぐちゅり……ぬちゃ……。
胎蔵の間は、歩を進めるたびにぬめった音を返した。一歩進むごとに、床は一面が肉のように赤黒く脈打ち、彼らを迎え入れる。空気は重く湿り、鼻をつく甘ったるい腐敗臭が混じっている。四人が口元を押さえ、吐き気を堪えながら歩みを進める。
その時、壁面がずるり……と蠢いた。ぬめる音とともに赤黒い肉壁が盛り上がり、次第に無数の人の顔が浮かび上がる。
誰かの母親、幼い子ども、男、女、老人――村人か研究員かも判別できない。だが、人の顔だということだけは、嫌でもよくわかった。
口は大きく開かれているが、声は出ない。
しかし――
「……おかあさん……」
「やめて……もう、いやだ……」
「ころして……はやく……ころして……」
「しに、たく、な」
「なんで、どうして……」
声は空気を震わせるのではなく、脳内へ直接響く。それは何十、何百という声が重なり合い、まるで呪詛のように涼たちを包んだ。
美咲は頭を抱え、しゃがみこんでしまう。耳を塞いでも、その声は止まらない。
一条は蒼白な顔で呟く。
「……これは……死者の残滓だ。ここに縫いとめられた意思そのもの……」
涼は顔をしかめ、歯を食いしばるが――突如、その中の一つがはっきりとした声で呼びかけてきた。
「――オマエガ……ツグナエ……」
その瞬間、壁の顔のひとつが目を見開き、涼を凝視した。血走った瞳が生き物のように動く。
涼は一歩後ずさり、思わず呼吸が荒くなる。
壁の一部が、ぶちり……と音を立てて裂けた。
裂け目から奥が覗き、肉壁が膜のように透明化していく。そこに広がっていたのは、まるで母胎を模した部屋と呼ぶべき光景だった。
数十人もの女性が、腹部を透明な管や黒い管で貫かれ、巨大な臓器状の塊へと繋がれている。
皮膚は青白く、唇は紫色に変色し、だが彼女たちはまだ辛うじて生きているらしかった。
誰もが目を見開き、瞳孔を震わせ、口だけを微かに動かしていた。
「……にげて……」
一人の女性が涼たちに視線を向け、血走った目でそう呟いた――ように見えた。
美咲は震える声をあげ、口を押さえた。
次の瞬間、その女性の身体がぐにゅり……と大きく膨れ上がる。
腹部が不自然に盛り上がり、皮膚の下で蠢く何かが内側から押し破ろうとしていた。
ずるり……ずちゅっ……。
耐えきれず裂けた腹部から、胎児とも異形ともつかぬ何かが粘液と血を撒き散らして這い出した。
それは手足をばたつかせながら床を這い、すぐさま肉壁に吸い込まれて……消えた。
一条は吐き気を堪えるように口元を押さえ、目を背けた。
涼は拳を握り、歯ぎしりした。
――すると突然、空気が変わった。
肉壁が元に戻ったかと思うと、またぼんやりと透け、そこに白い無機質な部屋が映し出された。
それは過去の幻影――おそらく、研究施設の内部だった。
白衣を着た研究員たちが、淡々とした声で会話している。
「接続実験、成功率は飛躍的に上がっています」
「やはり家系が重要のようです。神伏村の因子が、胎主との親和性を高めている」
手術台には、圭介そっくりの少年が固定されていた。
まだ幼い顔に恐怖と痛みが浮かび、半分以上の皮膚が黒い管に覆われている。
「りょう……たすけて……」
その声だけは、幻影越しでありながらもはっきりと涼の耳に届いた。
涼は思わず前へ一歩踏み出したが、幻影はすぐに霧散する。
「圭介は……関係ないだろ……?」
思わず涼は呟く。彼からこの神伏村に関わっていたという話は、今案で一度も聞いたことはない。関係あるのは美咲だけだ。
となると、あれはこの城が見せた、嫌がらせのようなものなのだろうか。
「ねぇ、あれ……圭介だったよね? 圭介、圭介!!」
涼たちが止める間もなく、今まで大人しくついてきていた悠里が走り出した。もう悠里の目には、圭介以外存在していないのかもしれない。彼女はさらに奥の部屋へと消えていった。
追いかけるかどうかの判断が付く前に、 壁に浮かぶ無数の顔が、次第に形を変え始めた。
単なる呻き声ではない。どこか必死で、慈悲深ささえ感じられるような声。
その視線が、美咲と一条、そして涼をまっすぐ見つめるように動き出す。
「……みて……わたしたちを……」
耳鳴りが強まり、視界が揺れた。




