第44話:囚われの身_4
涼が希望を込めて呟いたその瞬間、部屋全体が震えた。 血泣き人形が一条を押し倒し、振り上げた爪が一条の肩に深々と食い込んでいた。
「一条さん!」
「私に構うな! 最後の仕事を終わらせろ……!」
一条は痛みを押し殺しながらも異形の喉元に鉄の棒を突き立てた。
――そして、涼が三つ目に向かおうとした時、圭介の声が響いた。
「涼……やめろ……俺を助けようとするな……」
圭介の瞳は薄く開いていたが、その奥には恐怖があった。
「何を言ってるんだ、圭介!」
「俺は……もうすぐ化け物になる……お前たちまで、巻き込みたくない……」
圭介が苦しげに首を振る。
「嫌だ! お前を見捨てられるわけないだろ!」
涼の声は強く、そして震えていた。――ここまできて、助けられないなんてありえない。圭介の意識の復活に、一条も叫んだ。
「涼君、急げ! 圭介の変異が始まる前に!」
部屋の空気は重く、湿った血の匂いが強くなっていた。二つ目の結び目を解いて軽くなったはずの空気は、三つ目の結び目の暴走を前に逆戻り……どころか、一層酷くなっている。圭介の身体は小刻みに震え、黒い紋様が皮膚の下を這うように広がっていく。――それは異形へと変異する兆候に他ならなかった。
「やめろ、涼……! 俺は! 本当に化け物になるんだぞ……!」
圭介が必死に声を絞り出す。
「黙ってろ!」
涼は怒鳴り、最後の結び目へ刃を向けた。
「お前を絶対に戻す……俺たちはまだ、お前を取り戻せる!」
「涼……ごめん、ごめん……」
「涼さん、気をつけて! 部屋の空気が……軽くなったと思ったのに、また元に戻ってる! 下手したら最初よりも……」
美咲が緊張した声を上げる。一条も血泣き人形の攻撃を受けながら、途切れ途切れに叫んだ。
「最後の結び目を……誤れば……お前ごと陣が暴走する……! 確実に! 刃を入れろ!」
涼は震える手を押さえ込み、黒く脈動する結び目を見据えた。その中心では、黒い液体がまるで瞳のように開閉を繰り返し、今にも涼を飲み込もうとしている。
「……大丈夫だ、できる」
涼は深呼吸し、刃を慎重に動かし始めた。
ギチ……ギチチ……ゴボ……ゴボ……と異様な音を立てながら、黒い液体が涼の腕を絡め取ろうと伸びてくる。チリチリと皮膚を焼くような痛みと、ジワジワと身体の中へ侵食するような痺れ。これに飲まれてしまったら、間違いなく涼も圭介も異形と成り果ててしまう。そうなったら、残された一条と美咲も、同じ道を辿るしかない。ゲームオーバーの不安は、すぐそこに鎮座していた。
「来るな……来るな!!」
黒い液体に怯えながらも位置を確定し、涼は力任せに刃を押し進める。
「涼、焦るな! 一定の角度だ! 忘れるんじゃない!」
一条が振り向きもせず叫ぶ。涼は一条の声に従い、刃をわずかに傾けた。すると液体が苦しむように引き、黒い結び目がポタリと解ける。また部屋が揺れたかと思うと、その振動はすぐに止んで部屋の空気も一変した。
「……やった!」
美咲が希望を込めた声をあげた。
だが――。
黒い液体に反応したのか、ジリジリと一条と距離を取り合っていた血泣き人形が、異常な速度で動いた。
――ギィィィィィィ! イィィィィィ!!
耳を裂くような泣き声とともに、一条を壁に叩きつける。
「ぐっ……!」
その強さに一条が床に倒れ、血を吐いた。
「一条さん!」
美咲が駆け寄ろうとしたが、血泣き人形がその動きを察知し、長い腕を鞭のように振り下ろした。
「来るな、美咲ちゃん!」
一条は必死に体を起こし、鉄の棒を構えた。
「コレはここで止める……! 君たちは圭介君を救え!」
異形の攻撃を一条が受け止めた瞬間、尖った鉄の棒の先端が異形の腕に深々と食い込む。だが血泣き人形は怯まず、肉が裂けても笑うような泣き声をあげた。
「くそっ、何でこんなにしぶとい……!」
一条は必死に押し返した。黒い液体は儀式陣の上から消えていき、圭介を取り巻いていた陣が崩壊すると同時に、彼の身体を絡め取っていた黒い紋様が消え始める。そのまま彼は大きく息を吐き、床に倒れて意識を失った。
「……終わった、のか?」
涼が息を切らしながら振り返る。だが血泣き人形は動きを止めず、今度は儀式陣を壊した怒りで涼たちに向かってきた。
「そっちへ行くぞ!」
「美咲、圭介を頼む!」
涼が叫び、一条と挟む形で血泣き人形に向き直った。ジワジワと距離を詰める中、一条は涼に大きな声で叫んだ。
「弱点は胸だ! 実験体の核がそこにあるらしい。狙えれば、だが。やる価値はある!」
「わかった!」
涼は一気に駆け出し、異形の攻撃をギリギリでかわすと、その胸部に向かって刃を突き刺した。
ギィィィィィィィィィィ!!
血泣き人形は耳障りな悲鳴を上げ、赤黒い体液を撒き散らしながら崩れ落ちた。
――血泣き人形が動かなくなると、部屋に静寂が戻った。涼は大きく息を吐き、刃を床に落とした。
「圭介は……?」
涼の言葉に、美咲が心配そうに圭介を見下ろす。一条が近づき、圭介の脈を確かめた。
「大丈夫だ、生きてる。変異も止まったようだ」
「よかった……」
涼が崩れるように座り込む。一条は痛む腕を押さえながらも、わずかに笑った。
「よく頑張ったな、涼君」
だがその目はまだ鋭いままだった。
「だが、これで終わりじゃない。まだ先に進まなければ」
「……ああ、わかってる」
涼が真剣に頷く。




