第43話:囚われの身_3
――古びた石造りの【供物の間】は、かつて儀式の中心だったことを物語るように、禍々しい気配で満ちていた。部屋の中央には、鎖で四肢を拘束された圭介が膝を折るように座らされている。その周囲には、黒い血のような液体で描かれた儀式陣が広がり、まるで生き物のようにコポコポと蠢いていた。
「圭介……!!」
涼は再び駆け出しかけたが、一条が力強く肩を押さえた。
「待てと言っただろう、涼君」
一条の声は厳しかった。
「踏み込めば、圭介がどうなるのかもわからない! あの儀式陣が胎主への【供物】を作り上げるための呪術だとしたら、死ぬか異形になってもおかしくないんだぞ!」
「でも、このままだと……!」
涼が声を荒げる。それでも一条は冷静に周囲を観察し、あくまでも落ち着いた声で呟いた。
「……そうか、圭介君の肌が黒くなってきて……なるほど……」
「一条さん?」
「異形になると仮定して、まだ変異は完全じゃない。見ろ、圭介君の皮膚は黒ずんできている。あれが異形になる前兆だとしたら、完全に変わる前に呪術を断ち切れば良い。まだ呼吸も人間のものだし、見た目も人間だ。間に合う可能性は十分ある」
「どうしたら、いいですか?」
「この儀式陣は【呪詛の結び】とやらで構成されている。外周に描かれた三つの結び目を切れば、変異の進行を止められるはずだ」
一条は短剣と、床に書かれた儀式陣と同じものが描かれた古いを懐から取り出した。
「ただし――一度でも結び目を誤って切れば、逆に陣が暴走し、この部屋ごと呪いが爆発する」
「……やりますよ、絶対」
涼が強く言った。
「圭介を助けるためなら、何だってやるさ」
一条は涼をじっと見た後、頷いた。
「わかった。だが手順は正確に守らなければならない。私が指示を出すから、その通りに動くんだ」
「お願いします」
一条は床に膝をつき、黒い儀式陣の縁を指差した。
「まず、左奥の結び目だ。そこにこの剣の刃を入れる。ゆっくり、慎重に……おそらく黒い液が逆流するように動き出すが、驚くんじゃない」
涼は頷き、慎重に短剣を握りしめた。床に描かれた黒い紋様は、まるで生き物の血管のように蠢き、涼が刃を近づけると脈打つように鼓動を強めた。
「……うっ」
その動きに、美咲が思わず顔を背けた。
「大丈夫だ涼君。一定のリズムを意識して」
一条が落ち着いた声で指示を出す。言われた通り涼が刃を滑らせると、紋様が小さく悲鳴をあげるようにゴポゴポ……と不気味な音を発した。黒い液体が刃先を避けるように退き、やがて一つ目の結び目が解けていく。
……心なしか、部屋の空気が最初よりも軽くなった気がした。
「よし、一つ目は成功だ。次は右奥だ。ここはさっきより反応が強いはずだ、気を引き締めろ」
涼が頷き、二つ目に取りかかろうとした、その時――。
ギチ、ギチギチ……ギギィィィ……
不気味な音が通路の奥から響いた。
「な、何……?」
美咲が振り向く。一条が即座に鉄の棒を構え、目を細めた。
「……また血泣き人形のおでましだ」
通路の闇の向こうから、赤黒い体液にまみれた異形が這い出してきた。それは人形のような子供の姿をしていたが、関節は不自然に折れ曲がり、顔には複数の目が溶けたように散らばっていた。体中から血を流し、それが床に落ちるたびにギィ……ギィ……と赤子の泣き声のような音が響く。
「北条さんの時に見たのとは違うんだな。種類があるのは知っていたが、新しい個体に出会って、こんなに嬉しくないことはないね」
「くそっ、こんな時に……!」
涼が短剣を構えた。
「涼君、君は儀式陣から離れるな!」
一条は、血泣き人形と一定の距離を保ちながらそう言った。
「君の役目は、圭介君を助けることだ。ここは私が食い止める!」
「でも! 一条さん一人じゃ――!」
美咲が叫んだ。
「美咲ちゃん、君は涼君を補助してくれ。圭介君のためにも、成功のためにも儀式陣を守るんだ!」
一条は有無を言わせぬ声で命じると、血泣き人形に向かって突進した。だが相手の動きは驚くほど素早く、関節を反転させながら壁を蹴り登り、天井を這うようにして一条の背後を狙った。
「甘いな」
一条は振り向きざまに鉄の棒を力いっぱい振り抜き、血泣き人形を壁へ叩きつける。人形はそのままンギギ……と気持ちの悪い声を上げて、床へずり落ちていった。だが異形は即座に体勢を立て直し、裂けた肉から赤黒い手のような触手を伸ばして一条を絡め取ろうとした。一条は触手を払いのけながら後退し、口元を歪めた。
「……このまま時間稼ぎはできる。涼君、早く終わらせるんだ!」
涼は必死に二つ目の結び目を切り進めていた。黒い液体が彼の手首に飛び散り、まるで生きたヒルのように肌の表面を這い回る。
「うっ……くそ!」
涼は手首を振り払おうとしたが、液体は逆に皮膚に食い込むようにまとわりついた。
「涼君、集中しろ!」
一条が声を上げた。
「結び目さえ解ければ、その液体はすぐに落ちる!」
「そんなのわかってます……!」
涼は深く息を吸い、刃を強く押し当てた。黒い液体が断末魔のように跳ね、結び目が解ける。そして、一つ目の結び目をほどいた時と同じように、また一段、部屋の空気が軽くなったような気がした。
「はぁ、はぁ……あと一つだ……!」




