第30話:贖罪の夜_5
異形は次の獲物を狙うように、根を地面に這わせながらジリジリと近づいてきた。まるで『人間経った一人では、とてもじゃないがお腹いっぱいにはならない』とでも言いたげに。
涼は立ち上がり、窓枠の片を握り直す。
「どうしますか一条さん……このままじゃ、次は俺たちが……」
「わかってる、しかし、これはどうにも」
ズズズッ――!
異形の根が土を割り、獲物を求めるように伸びてくる。不自然なほどに暗い森は月光もなく真の闇で、その中で根の動きだけが不気味な生き物のようにうねっていた。だが、その動きは、初めに見た時よりも格段に鈍っていた。人間を取り込んだ後は、そちらにエネルギーが使われるのかもしれない。
「こっちだ! 走れ!」
一条が叫ぶ。
「で、でも! 圭介さんが!」
美咲の視線の先、ぐったりと壁に寄り掛かった圭介は、この騒動にもびくともしなかったが、一度だけ目を開けて「置いて、いけ」と呟くと、また目を閉じた。
「そんなこと……そんなこと出来るかよ!」
今度は涼が叫ぶ。やっと助けることができた死にかけの仲間を、今さら一人でこんな地獄に置いていけるわけがない。
「仕方ない、彼を尊重する! いくぞ!」
「嫌だ! 圭介を置いてはいけない!」
「連れていく余裕がないんだ!」
と、その時、一条は自分のズボンのポケットが、温かいことに気が付いた。
「何で私は忘れてたんだ! これを持たせておけば……!」
一条は祠から拝借した赤く光る石を、圭介の手に握らせた。
「これなら、しばらくは……! 頼む、圭介君を守ってくれ……行くぞ!」
一条が根の隙間を抜けて走る。それに続いて涼が美咲の手を引き、ともに駆け出した。、背後では異形の声が響いている。
ただ走り続けて、村の近くへ来た時、大きな木の看板を見つけた。掠れているが、力強い文字で【集会所】と書かれている。
「あそこへ行くか!?」
「いえ! 待ってください!」
涼の声に一条は止まる。三人は息を殺して、ただの期の後ろへ隠れた。
「うわぁぁぁッ! 来るな、来るなあああッ!」
「あれは……調査団の一人、か?」
岡村と元は一緒にいたのだろう。逃げ遅れたのか、それとも単純にはぐれたのか、岡村を取り込んだ異形と同じような姿の異形に捕まっていた。根に足を絡め取られ、宙に引きずり上げられる。その体はまるで巨大な蜘蛛の巣に捕らわれた獲物のように震え、やがて幹へ向けてゆっくりと引き寄せられた。
「助けなきゃ!」
美咲が叫ぶが、涼が強く手を握り止める。
「無理だ、対抗策がない……」
しかし、視界の端に映る男性の姿は残酷だった。根が彼の胴体を締め上げると、岡村の時と同じように骨の砕ける音が響き、彼は血反吐を吐きながら絶叫した。
「やめろ、やめてくれ……」
涼は懇願するような言葉を口にした。だが、それを聞く者は誰もいない。目を背け、覚悟を決めてもう一度彼を見直した時には、もう既に彼は幹の苔に呑まれつつあった。成す術なく取り込まれていく最後に彼が見せたのは、恐怖と絶望に染まった眼だけだった。
「……もう助からない」
一条が歯を食いしばる。
「逃げろ、今は生き延びることを考えろ!」
「でも、古城へ行くのは千賀さんが……」
「しかし行くしかないんだ! あそこなら、この異形に対抗するすべがあるはずだ、なんたって、生みの親みたいなものだからな」
胸の痛みに顔を歪ませながら、涼たちは再び森の奥へと走り出す。だが、異形は巨大な根を幾本も地面から突き出し、道を塞ぐように絡みつかせてくる。
「や、やだこれっ……かっ、囲まれてる……!」
そこら中から聞こえるザワザワ――ズルズル――という異形の動く音に、美咲の声が震えた。
「たっ、助けてくれ!!」
その時、別の調査員が走ってくる姿が見えた。だが、すぐに転んでしまう。
「あっ、足が、根に引っかかって――」
次の瞬間、異形の根が蛇のように彼の身体に絡みついた。
「た、助けてくれえぇぇッ!」
彼は必死に地面を掴むが、根はそれを容赦なく引きずり、湿った土に爪痕を残しながら幹へと運んでいく。
「くそっ、離せぇぇッ!」
涼は男性に駆け寄ろうとするが、一条が腕を掴んで引き止めた。
「今までのを見てきただろ! ああなったらもう間に合わない!!」
幹の前に運ばれた男性は、根に身体を裂かれながら取り込まれていく。その苦痛に歪んだ顔が異形の樹皮に吸い込まれ、やがて静かに動かなくなった。
「くそ……くそおおおッ!」
涼が叫び、目の前にあった木の幹を叩きつける。その行為が森の逆鱗に触れたのか、逆に根が怒りを示すように一斉に動き出した。
「退くぞ、涼君!」
一条が力強く叫ぶ。
「これ以上は私たちが全滅する!」
涼は悔しさに歯を食いしばりながらも、美咲の手を引き、森の奥へと再び走り出した。
異形たちはその場でジリジリと根を伸ばし、幹に取り込んだ人々の顔が次々と苔の下から浮かび上がらせた。岡村に、調査員の男性たち。もう息絶えたはずなのに、彼らの口が苦痛に歪んだまま、何かを訴えるようにパクパクと動いていた。
――マダ終ワラナい、モット喰ウ。喰ワセロ。喰ワセロ。モット、モット。
異形は森全体を支配するかのように根を這わせ、ゆっくりと涼たちの後を追い始めた。




