第28話:贖罪の夜_3
涼が息を呑む。千賀の言葉は、淡々としているのに重みがある。
「儀式から逃げた娘は、村中の大人子どもに捕まえられた。そいで、巫女役にされた。毎晩、穴に沈められる娘たちに【祈り】を捧げ、胎主の再生を願えって……じゃが、その巫女は耐えきれずに発狂した。ある晩、自分の舌を噛み切り、血だらけのまま森へ走っていったんじゃ……」
一条が低く呟く。
「つまり、それが【祈祷婆】の始まりだと?」
千賀は無言で頷いた。
「森の呪いと村人の怨嗟が、あの娘を喰うたんよ。巫女は死にきれず、森と一つになって【祈りだけを続ける化け物】になった……。今も、森の奥で誰かを巫女に選び続けとる」
「私が……もし、この村で生まれていたら……」
千賀はゆっくり美咲の顔を見た。
「外からでもここに呼ばれたお前さんなら、生まれてすぐ……いんや、生まれる前から選ばれとったろうな。【胎主】に最も近い器として。……似た顔を知っとる。母親はこの村の出身か?」
「……聞いたことはありません。でも、多分そう、です」
その瞬間、涼は無意識に美咲の肩を抱き寄せていた。千賀の声は、もう昔話ではなく、目の前に迫る現実を告げていた。
「もうすぐ【祈祷婆】が動く。これからあの婆とケリをつけに行かにゃならんのよ……それが、わしの償いじゃけえ」
もう、今が何時なのかはわからない。スマホは電波も届かず、とっくに画面に表示する時間は、通常ではありえない時間になっていた。とっくに使い物にならなくなっていた文明の利器を、ここが異常な空間であることを再度確認するために見つめる。外へ声は届かない。外の声は聞こえない。
神伏村を覆う闇は、まるで呼吸を潜めた生き物のように重く、湿っていた。月は雲に隠れ、星もなく、ただ森の奥だけがわずかにざわめいている。葉擦れの音が一定のリズムで響くたび、千賀の持っていたランプの火が揺らめき、古い廃屋の壁に不気味な影を踊らせた。
涼はランプの光に目を凝らし、美咲は黙って千賀の横顔を見つめていた。千賀は背筋を伸ばし、細い肩に小さな荷物をかけている。その眼差しは、これまで見せたどの表情よりも強く、しかしどこかで覚悟を決めきった人間特有の諦観を帯びていた。
「千賀さん……本当に、行くつもりなんですか?」
美咲が震える声で問いかける。
千賀は焚き火に視線を落とし、短く息を吐いた。
「行かにゃならんのよ」
「でも、さっき言ってたじゃないですか。祈祷婆は……異形になった巫女は、あなたを選んだわけじゃない。あなたが償う必要なんて――」
美咲は食い下がるように言ったが、その声まだ震えていた。
「必要があるんじゃよ」
千賀は静かに答えた。
「わしは……あの娘を巫女に【選んだ】側じゃけえ。祈祷婆になる前の、あの子を泣きながら森へ連れていったのは、この手じゃ。あの子が逃げ出そうとした夜、わしは捕まえて差し出した……。その時、わしも同じ化け物になっとったんじゃ」
沈黙が落ちた。涼は言葉を探すが、喉の奥が詰まって声にならない。
「だから、わしはあの婆に会いに行く。もう一度顔を見て、すまんと言わにゃならん。それが……償いなんじゃ」
焚き火のぱちぱちという音だけが室内に響く。一条が険しい顔をした。
「だが、あれはもう人間じゃない。謝罪など届くはずもない」
「それでもええ。届かんでも、行かにゃならん。わしのためでもあり、あの娘のためでもあるけえ。……だってなぁ、あの子はわしじゃった。わしがあの子かもしれんかった。ただ姉だったというだけで、わしは逃れたんじゃ。双子の妹を差し出して生き残ったわしに、もう生きる価値はないで」
千賀は荷物を握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。その小さな背中は、年老いた村の女ではなく、長い間背負い続けた罪と向き合う一人の人間のように見えた。
「待ってください!」
美咲が思わず立ち上がる。
「一人で行くなんて危険です!」
千賀はその言葉に振り返り、かすかに微笑んだ。
「美咲、お前さんは生きにゃならん人じゃ。わしみたいな老いぼれとは違う。あんたが死んだら……この村はほんまに終わる」
涼が口を開いた。
「なら、俺が一緒に行きます」
「駄目じゃ」
千賀は即座に遮った。
「お前さんは、美咲を守らにゃならん。あの子を絶対に、古城には連れていくな。森はお前さんらを【次の贄】にするつもりじゃけえ。これは残しておこうな。わしにもう光はいらん。……煽れ~、親切なんが、アンタらの名前を教えてくれたよ。忘れるでねぇ。それもまだ、おることをなぁ」
千賀はそう言い残すと、背中を向けた。ランプの明かりが彼女の姿を照らすのは一瞬だけ。闇の中に溶け込むように、千賀は静かに廃屋を出ていった。美咲はその小さな背中を追いかけようと一歩踏み出したが、涼が肩を掴んで止めた。
「……行かせよう」
涼の声は低く、苦しげだった。
「止めても、千賀さんはきっと戻らない」
美咲は唇をかみ、目に涙をためたまま座り込む。一条は腕を組んだまま、重くつぶやいた。
「森が騒いでいる気がする。……祈祷婆が呼んでいるんだろう……千賀タエを」
森の奥から、湿った風がふっと吹き込む。生臭い土と枯葉の匂いが混じったその風は、これから起こる惨劇を予感させるようだった。




