第24話:外からナカへ_1
黒い穴へ足を踏み入れた瞬間、涼と美咲は肌を刺すような冷たさに襲われた。外の森のただ湿った空気とは違い、ここは生暖かい胎内のような湿度と、それとはアンバランスな冷気に包まれていた。その噛み合わない状態が脳みそを混乱させる。自分たちに、正しい判断をさせないための罠のように。
足元は土ではなく、ぬめりを帯びた肉のような感触だった。踏むたびに弾力のある地面が靴底を跳ね返し、ねっとりとした粘液のようなものがまとわりついている。
「……うわっ……これ、本当に穴の中なんですか……?」
美咲が嫌そうに呟いた。無理もない。外から見たこの穴を、二人は洞窟のようなものだと思っていた。洞窟と言えば、浸み出してくるのは水で、壁も地面も土や岩でできている。それなのに、中は赤黒い筋肉と血管が入り混じったような組織でできており、脈打つように微かに動いていた。――それはまるで、生き物の体内に入り込んだかのようだった。
「言いたいことはわかる。普通じゃない」
「です、よね」
「慎重にいこう」
「はい!」
短い言葉を交わしながら、慎重に奥へ進むと、壁の脈動が徐々に大きくなり、表面を覆うぬめりはより強くなっていった。赤黒い管が天井から垂れ下がり、時折その中を何かが脈動しながら流れているのが見える。まるで血液のような液体が滴り落ち、地面に小さな水たまりをいくつも作っていた。
中へ入ったことを、少しだけ後悔しかけたその時――
「……りょ……た……すけ、て……」
弱々しい声が再び響いた。芽生え始めた後悔を吹き飛ばして、涼はハッと顔を上げる。
「圭介!!」
声の方向へ駆け出す。美咲も必死に後を追った。
やがて、奥に小さな広間が現れた。壁一面に肉塊が張り付き、中央には巨大な繭のようなものがあった。その中から、微かな呼吸音が聞こえる。涼は鉈を握りしめたまま、慎重に繭へ近づいた。繭の表面は半透明で、血管のような網の奥内側に、確かに人間の形が薄っすらと見える。
「……圭介……?」
涼は震える手で繭に触れた。中に閉じ込められていたのは、間違いなく圭介本人だった。全身が管のようなものに絡め取られ、顔は青白く、意識が朦朧としているようだった。
「……りょ……ごめ……おれ……たすけ……て……」
「圭介、今助ける!」
涼が鉈を振り上げ、繭を切り裂こうとしたその瞬間――
「……ヤメロ……!! 【母】ガクル……!」
圭介が突然目を見開き、しゃがれた声で叫んだ。圭介の口から間違いなく発せられたのに、その声は彼の声とはとても似つかないものだ。その声が鳴りやむと同時に、足元の地面が激しく脈動し始める。――広間の奥、壁の肉塊が大きく裂けた。その裂け目から、眉を守るように異形が姿を現す。
――ソレは四つ足で、黒犬よりも遥かに大きい。人間の胴体と犬の頭を無理矢理つなぎ合わせたような歪な身体をしており、荒々しい縫い目は今にもちぎれてしまいそうだった。背中には何本もの管が繋がり、まるでこの巣と一体化しているよういも見える。その赤い瞳は、黒い犬と同じく残穢を宿していた。
「涼さん……あれ……もう完全に、人間じゃない……」
「なっ……」
「……え、あ、や、やだ……まだ人間の顔が……」
「そん、な」
異形の胸部、肉に埋もれるように人間の顔があった。それは苦痛に歪み、無言で助けを求めているように見える。
「もしかして、これも村の……?」
涼の問いに応えるかの如く、異形が咆哮し、四肢を突き出して突進してきた。
「いきなりか……!」
涼はとっさに美咲を押しのけ、自ら異形の突進を受け止めた。鉈で横薙ぎに切りつけるが、分厚い筋肉に阻まれ、刃は浅くしか入らない。浅くでも涼が切ったのは、間違いなく人の肌だった。自分と同じ、赤い血が傷口から滲んでいる。
「やめて!」
思わず駆け寄った美咲だが、ここに武器になりそうなものは何もなかった。ただ勢いで異形と涼の間に立つも、異形は怯むどころか叫びながら美咲を薙ぎ払うように腕を振り、美咲の身体が壁に叩きつけられた。
「美咲っ!!」
涼は怒りに任せ、異形の足元へ滑り込むように回り込み、後ろ足の筋を狙って鉈を力の限り振り下ろした。勢いのおかげもあり鈍い感触と共に肉が裂け、異形がよたよたとバランスを崩す。だが、異形は倒れず、代わりに背中の管が蠢き、鋭い槍のように伸びて涼を襲う。涼は必死に転がり避けたが、一本が背中をかすめ、激痛が走った。
「ぐっ……!」
その時、繭の中の圭介が必死に叫んだ。
「りょ……背中、の、管だ……そこが、コイツの……」
涼は歯を食いしばり、鉈を握り直した。
「……わかった!」
異形が再び突進してくる。涼はギリギリまで待ち、足元に滑り込み、背中へ飛び乗った。異形が暴れるが、涼は必死に背中の管にしがみつき、一番太い管に向かって全力で鉈を振り下ろす。
ギィィィィ――!!
管が切れ、中の液体が飛び散った。異形が苦痛に満ちた咆哮をあげ、地面に激しく身を打ちつけた。涼は怯むことなく、次々に管を切り裂いた。一本、また一本と切るたび、異形の動きが鈍くなり、胸部の人間の顔が苦痛から解放されるように穏やかになっていく。
「これで……終わらせる!」
最後の管を一気に切り落とすと、異形は子どものような大きな泣き声をあげ、力なく崩れ落ちた。液体に濡れるその胸部の人間の顔が、涙を流したように見えた。




