第22話:森に潜む声_3
粘ついた音が耳に残る。脳みそをほじくるような、気色の悪い頭に響く音。
「……涼さん……誰か……いますよね……」
涼はランタンを消し、暗闇に目を凝らした。窓の外で、何かが蠢く影が見えた。次の瞬間、窓枠の隙間から、ギョロリとした眼球がぬっと現れた。それは木に埋め込まれたものと同じ、あの森の監視の眼だ。血走ったその瞳が、小屋の中をジッと見つめている。
美咲は声をあげそうになり、涼に口を押さえられた。涼は小さく首を振り、無言で「声を出すな」と目で合図する。だが、眼球はジワジワと近づき、ガラスにぴたりと張りついた。そして――呆気なくその視線を外し、またどこかへ消えていった。
「……えっ……いなくなったんですか……?」
消えた眼球を追いかけて、涼が家の外を慎重に見て回る。しかし、外の木々にも、眼球のあった形跡は一つもなかった。意味なく落ちていた鉈を拾いあげ、彼は腰のベルトに刺す。
「居なくなったなら好都合だ。今のうちに先へ進もう」
「はい!」
二人は急いで小屋を離れた。
「あの、変なこと言ってたらごめんなさい。なんだかこの森、生きてるみたいじゃないですか? そう、思いません――?」
その言葉に、涼は思わず立ち止まる。言われてみれば、森全体が呼吸をしているような錯覚があった。木々の枝が、まるで意志を持つかのように、ゆっくりと動いているように見える。
――ふと、一本の木の幹に奇妙なものを見つけた。涼は眉をひそめ、慎重に近づいた。
木の根元に、大きな脈打つような膨らみがあった。よく見ると、それは植物ではなく、人間の皮膚に似た質感をしていた。膨らみの表面には血管のような筋が走り、わずかに鼓動している。
「……まさか……何かがこの中に取り込まれてるのか……?」
涼は背筋を冷たい汗が伝うのを感じた。美咲は震えながら、涼の袖を強く握りしめる。
「涼さん……これさっきの紙に書いてあった話と似てません? 『【母胎の神】を崇め、豊穣と子孫繁栄を願った』とか『巫女は【神の子】を胎に宿し、死ぬまでその胎を守り続けることが村の繁栄とされた』ってところです」
「……つまり、この森自体が【母胎】なんだな」
「でも、それだとこの森が巫女ってことになりますよね……? 確かにこの木は人間の皮膚みたいに見えます。でも、こんなことって……」
涼は木の幹にそっと触れた。その瞬間、ドクン、と皮膚のような幹が脈打ち、ぬるりとした液体が滲み出た。それを見た美咲が小さく悲鳴をあげる。
「だ、ダメですよ触ったら! 今までで一番、気味が悪いですもん! 涼さんまで連れていかれたりしたら、私」
「軽率だったな。今まで俺がみんなに声をかけてくる立場だったって言うのに」
「気持ちはわかります。だって、すごく触ってみたくなる、不思議な何かがありますもん、この木には」
染み出してきた液体は、幹を伝って地面へと落ちる。溢れるように出てくるそれは、まるで意思を持っているかのようだった。
「もう、行きませんか? 探しましょう、圭介さんと悠里さんを」
「そうだな」
再び歩き出した二人。森を進むにつれ、異形の存在感が強くなる。あちこちの木の根元に、先ほど見たものと同じような皮膚状の膨らみが広がり、ところどころに人間の手足のようなものが、まるで枝のように埋め込まれていた。それらの多くは動かないが、中には微かにピクリと痙攣するものもあった。
美咲が恐る恐る視線を落とした。
「人、なの?」
美咲が指さした先、木の根の間に、半ば土に埋もれるようにして何かが蠢いていた。近づくと、それは間違いなく男性の顔だった。干からびた皮膚に血走った目がわずかに開き、口がピクピクと動く。
「た……す、け……」
それは人間だった。動いていたのは風のせいではない。――だが、もう下半身は根に絡め取られ、ほとんど【木と融合】している。見える部分の衣類は古めかしく朽ち果て、身体はまるでミイラのようだった。とても、今を生きていた人には見えない。ということは、おそらく昔の村人だろう。
なぜ、こんなところにいるのかはわからない。皆いなくなったはずだ。
美咲は口元を押さえ、涙をにじませた。
「……どうして、こんな……」
涼はその人間の顔を見つめ、声をかける。
「圭介を知らないか……? 最近ここに来た若い男を……!」
干からびた唇が、かすかに動いた。
「……く……ろ、い……ぬ……の……す……ぐ……」
その言葉を最後に、顔は完全に動かなくなった。
「黒い……犬の? それとも黒い布? か?」
涼が呟くと、美咲はハッと顔を上げた。
「黒い犬、ならわかります。昔の神伏村の神の使いです」
「つまり、圭介が囚われてる巣があるとしたら、その黒い犬の近く、ってことか」
涼は決意を固めた目で前を見据えた。
「ごめんなさい、もし戻ってこれたら、絶対助けますから」
美咲の言葉に、男性は何も反応しなかった。
後ろ髪をひかれながらも、二人は先へ進んだ。段々と強くなる獣のニオイ。そして、それに混じった吐瀉物と血のニオイ。これだけ鮮明な知らせがあれば、嫌でもこの後に待ち構える最悪を理解してしまう。
ガサッ。
突然、茂みが揺れた。黒い影が素早く飛び出す。それは、真っ黒な毛並みに覆われた巨大な犬だった。
――犬と言っても、普通のものではない。全身がやせ細り、毛は濡れてグチャグチャに固まり貼りついている。毛に巻き込まれたのか、それとも身体に刺さっているのか、短い木の枝と尖った石が散見していた。片方の目は白く濁り、もう片方はギラギラと光る赤い瞳で、口元からは長く赤い舌が垂れ、そこからねっとりとした唾液が糸を引いている。




