第20話:森に潜む声_1
祠を後にした瞬間、背後から張りつくような視線を感じた。涼は一度だけ振り返ったが、そこにあったのは歪んだ木々と、苔むした祠の屋根だけだった。きっと、気のせいだろう。……だが、その沈黙が逆に不気味さを強めていた。
「涼さん……この先、ちゃんと進めるんでしょうか……?」
美咲の声は震えていた。声を潜めているつもりでも、その恐怖は隠しきれない。文字通り取れば、それは「この先に道があるかどうか」だが、彼女の問う意味は違う。「生きて帰れるかどうか」が正解だ。
「……圭介が生きてるなら、放っておけない」
涼の表情は固い。だが、美咲にはその決意の裏に、不安が隠れているのがわかった。涼自身、圭介がまだ生きているという確信を持っているわけではないのだ。あの異形にあの圭介の姿。ほぼ絶望的だ。しかし、修平に続いて圭介まで命を失うわけにもいかず『どうか生きていますように』と、ここでは意味のなさそうな神に祈った。
二人が森へ足を踏み入れると、空気は明らかに変わった。湿度が急に増し、ねっとりとした空気が重たくのしかかる。時々聞こえるのは、虫の鳴き声だろうか、それとも、違うものなのだろうか。ここでは茶飯事になった、甘くて思わず口を覆ってしまうようなニオイ。足元の土も水分を増し、足元がすくわれそうになる。
「このニオイ……異形が出てくる前は、いつも同じようなニオイがしているな。ここは……より濃くなっている気がする」
涼が低く呟く。彼の言葉を聞いて、美咲は震える声で答えた。
「……やっぱり、戻ったほうが良いのでしょうか。祠にいれば、安全なんじゃないかなって……さっきの、あそこなら……」
「いや、戻れない。……戻ったところで、安全だなんて保証は一つもないんだ。それなら、進んで仲間を探したほうが良い」
涼は言葉を切り、拳を強く握りしめた。それはまるで、自分に言い聞かせるようでもあった。
二人はポツリポツリと、さっきいなくなった、作業員風の男の話をし始めた。村周辺では工事はしていなかった。それなら、なぜあんな場所に。解けない謎を考えている時、ふと声のような風の音が聞こえた。それはまるで実体を持つように、ハッキリとした音へと変貌する。
『……涼……こっちよ……助けて……』
涼の足が止まった。その声は、悠里のものだった。
「……悠里……?」
無意識に名を呼んだ涼に、美咲がすぐに反応した。
「あれは……多分さっきも聞こえた……悠里さんじゃないです、悠里さんじゃない!」
「わかってる……わかってるよ。でも……今の声は、まるで本人の心の声みたいだ。振り絞るような、掠れた」
涼は苦しげに顔を歪めた。その声は確かに悠里のものだった。記憶の奥底で、悠里が笑顔で話す瞬間と寸分違わない響きだった。
「私たちを誘い込むために、きっと真似をしてるんですよね。だって、放っておけるわけないですもん」
「確かめたくなる。本人なんじゃと、追いかけた先にいるんじゃないか、って」
涼がそう言ったその時、別の声が森に響いた。
『……やめろ……来るな、涼……助けて……来る、な……助け、ろ……』
今度は圭介の声だった。美咲は驚いて涼の顔を見つめる。
「圭介さん……?」
その声は弱々しく、途切れがちだった。どちらも含まれていたが、助けを求めるというより、必死に「来るな」と警告しているように聞こえた。 だが涼は、眉をひそめて低く呟く。
「……変だ。これも、悠里の真似と同じ?」
「かもしれません。でも、そうじゃないかもしれない……連れていかれたのは、二人ともそうですし」
「心が、抉られるな」
「罠、なんでしょうか」
「……それでも、行くしかない」
涼は一瞬、美咲の目を見た。その目に宿る恐怖を見てもなお、彼の決意は変わらなかった。
二人が更に森を進むと、突然、周囲の音が止んだ。さっきまで鳴いていた虫らしき声も、時々擦れる葉の音も、全てが消える。
「……静かすぎる」
涼が小声で言う。次の瞬間、美咲が恐怖に目を見開いた。
「もうやだ……」
彼女が指差した先、木々の幹の裂け目に、何かが光った。よく見ると、それはギョロリとした眼球だった。血走った眼が、木の幹にめり込むようにしてはまっており、瞬きもせず二人を見つめている。
一つ、二つ――いや、よく見れば周囲の木々全てに、それがあった。幹の割れ目や枝の付け根に、無数の眼がギッシリと埋め込まれている。どれもこれも、ただジッ――と二人を見つめていた。
「……見張られてる……」
涼が低く呟くと、木々の眼が一斉に瞬きをした。その瞬きに合わせるように、二人の頭の奥に囁きが響く。
『……こっちだ……涼……助けて……』
悠里と圭介の声が混じる。美咲は両耳を押さえ、必死に目を閉じた。だが涼は、今までの後悔からか耳を塞ぐことができなかった。何度も聞いた声が周囲に反響する。怒りも悲しみも抱えたその声は、涼の思考を簡単に邪魔していた。
「やめて……! 聞いちゃダメです!」
美咲は涼の腕を掴み、彼を現実に引き戻そうとする。涼は頭を振り、何とか声を振り払った。
「……クソ、森そのものが俺たちを誘ってる」




