第19話:淡い希望_3
涼は走りながら、脳裏にこびりついた光景を何度も追体験していた。
――圭介が捕まったあの瞬間。
「うわあああっ!!」
悲痛な叫び声を耳にしても、それからもうどうしようもなかった。自分の力は及ばなかった。できたのは、美咲と悠里を逃すことだけ。それができただけ、二人を逃がせただけマシだった、そう思えたらどんなに楽だっただろうか。頭の中に浮かんでも、涼にそれができなかった。なぜならば――その時助けた悠里さえも――
「ダメよ! 早くいって!」
そう言って異形を引き受けた彼女の声。何もできずにただ逃がされた美咲の後悔。……涼の叫びも、ズブズブと彼女の身体を覆った黒い影には届かなかった。彼女は消えていった。一体その時、何を考え何を思ったのだろうか。あの目には、何が映っていたのだろうか。――仄暗い現実に戻ると、美咲の荒い呼吸が背後で続いている。
「涼さん……悠里さん、きっとまだ……」
「頼む、今は何も言わないでくれ」
涼の声は鋭かったが、その震えは隠せなかった。
……彼は知っている。森は、かつて研究施設へ続く小道だったはずなのに、まるで別世界のようだった。ただ自分たちの進む足音と呼吸に衣擦れが、壁に反響されたように耳に届き、息を吸うたびに喉の奥が鉄の味を感じる。草木は不自然なほど高く伸び、それなのに穴が開き破れ枯れている。その葉の隙間から、時折【何か】がこちらを見ているような錯覚に陥る。……この短時間で、この世のものとは思えない、途轍もなく悍ましいものばかり見てきた二人は、その錯覚が偽物だとは思えなかった。
「……この森、やっぱり気配が変ですよね?」
美咲が震える声で呟いた。
「あぁ。……どう考えても、普通じゃない」
涼も同意する。先に進むということは、得策ではないと理解していた。だが、圭介も悠里も放っておけず、言い出した自分が尻尾巻いて逃げるわけにはいかないと、自分で自分を鼓舞していた。今までみんなを引っ張るような発言と、冷静に物事を見て資料をも思い出すのは、ハッキリ言って虚勢に近いものがあった。集落には、恭一がいる。万が一何かあったとしても、彼が人を呼んでくれるはずだ。だから今まで通り、自分にしかできないこと、すなわち前に進むことを優先していた。
森を抜けると、小さな祠が現れた。その古さは、ただの時代遅れではない。長い年月、人々がそこに恐怖と信仰を込め続けたような、重く淀んだ空気が漂っている。
「あれ? 祠、また……?」
「初めに見たものとは違う。これは……」
涼が祠に近づくと、脳裏に奇妙な光景が流れ込んできた。
――裸足の村人たちが、血塗れの子供を抱えて祠の前に立っている。
――無言の中に響くのは、風がもたらす自然の音だけ。
――白い面を被った女が、血のついた鈴を鳴らし、震える声で祈りを捧げる。
『【胎主】よ、どうかお怒りを鎮めたまえ――』
そして、抱えられていた子どもが祠の中へと押し込まれる瞬間、森全体が呻くような低い音を立てた。
「――涼さん? 大丈夫ですか?」
美咲が心配そうに見つめる。涼は軽く首を振り、祠に触れる手を引いた。
「大丈夫だ。ただ……この祠は、ただの祠じゃない。ここには【生きた記憶】が残ってる」
「え? どういうことですか?」
「今……この祠が持つ記憶を、俺は見た」
「⁉︎」
「おそらくここにも何か……」
「詳しいですね」
「散々調べたからな。眉唾物かと思っていたけど、この村での資料と合わせれば……」
祠の裏から、涼は古い木箱を見つけた。躊躇うことなく蓋を開ける。中には湿った和紙の束が収められていた。
『神伏の因習 胎主を祀らねば、村は喰われる』
『だが、祀れば我らが喰われる 選べぬなら全てを捧げよ』
「やっぱり……生贄……」
「研究施設とこの因習、間違いなく関係がある……」
すると、森の奥からかすかな声が響く。
『――まもるため、しかたなかった――』
その声は、悠里のものに酷似していた。美咲はハッと顔を上げ、絞り出すような声を出す。
「涼さん⁉︎ 今の……」
「あぁ……でも、あれは悠里じゃない。祠が、この森が何かを訴えてる」
そう言いながらも、涼の拳は震えていた。
――森は、涼たちを見ていた。異形に変わり果てた【誰か】の視界。湿った土の匂いが、甘美な肉の匂いに混ざる。人間の声は、低い鼓動と同じリズムで響く。
『――ナゼ、キタ。ココハワレラノモリ。カエレ。カエレ――』
巨大な目が二人を捉えると、涎のような粘液が口から垂れた。それと同時に、枝の砕ける音が響く。異形が木々をかき分け現れた。骨ばった手足が泥をかき、肥大化した片目が不気味に光る。その目が涼を見つけた瞬間、異形は獣のように跳びかかった。
「美咲危ない!」
涼は美咲を引き倒し、地面を転がる。異形の爪が近くの木を裂き、木屑が雨のように降り注いだ。彼は近くに転がる石を掴み、異形の目へ全力で投げつけた。鈍い破裂音が響き、潰れた目から黄色い液体が飛び散る。
「ンギィィィィィ!!」
異形は悶えながらも、なお突進を止めなかった。祠の前に逃げ込むと、祠が赤く光り、異形は弾かれるように後退した。そのまま、呻き声を残して森の奥へと消えていった。
「涼さん……私、怖いです。で、でも、圭介さんも悠里さんも、助けられるなら……」
「助ける!! ――絶対に」
涼は祠を見つめながら言った。祠の奥に隠された木箱が小さく震えていることに、二人は気づかなかった。




