第18話:淡い希望_2
「み、見てください……あれ」
彼女が指差した木の幹には、奇妙な文様が彫られていた。渦巻きと人の顔を思わせる模様が重なり、乾いた赤黒い染みがその周囲を覆っている。
「……これ、何?」
悠里が近づき、文様に手を伸ばしかけた瞬間、涼がその腕を掴んだ。
「触るな」
「な、なんでよ、ただの模様でしょ?」
「いや……違う。これ、あの村の成り立ちの本にあった【封印の符】と似てる」
涼の声は低かった。
「……封印の符?」
悠里が眉をひそめる。
「あの村の古い祠にあった。人を異形に変えた【禁忌の研究】を封じるために使われたものだ」
涼は低い声で言い、木の幹の文様を凝視した。彫り跡は新しいものではなく、少なくとも数十年は経過しているように見える。だが、乾いた赤黒い染みだけは妙に生々しく、湿り気を帯びていた。
「こんな森にまで……誰が彫ったんだろう」
美咲が怯えた声で呟いた。
「神伏村の因習……だろうな」
涼は木の幹を指先でなぞるふりをして、すぐに手を引っ込めた。悠里へ注意したのは念のためだったが、自分が触れようとして良くわかった。――これに、触れてはいけない――本能がそう告げていた。森全体に沈黙が満ちている。耳鳴りのように遠くで鳥の声が聞こえたかと思えば、すぐに途切れる。風もほとんど吹かず、葉がかすかに揺れる音すら異様に響く。
「やだやだ、慣れないわねこの場所……って、今までもそうだったけど。こんなところ、長居すべきじゃないわ。古城を目指しましょう」
悠里が苛立ちを隠せずに吐き捨てた。皆同じ気持ちだ。しかし彼女のそんな声も妙に小さく感じられるほど、森は沈んでいた。
森を進むにつれ、道は狭く、暗くなっていった。頭上を覆う木々の枝が絡み合い、ほとんど光が差し込まない。頼りの月明かりもぼんやりと、地面の苔が足音を吸収し、歩くたびに柔らかい土が沈む。
「え、ちょっと、あそこ……誰かいる?」
悠里が小声で言い、指をさした。
薄暗い道の先、細い獣道の脇に、作業着を着た男が座り込んでいた。彼は工事現場でよく見かけるようなヘルメットをかぶり、顔を伏せて肩を震わせている。
「あの……大丈夫ですか?」
涼が慎重に声をかけた。男はピクリと肩を動かしたが、こちらを見ようとしない。美咲が不安そうに涼の袖を掴む。
「怪我……してるのかな?」
涼は一歩、ゆっくりと近づいた。その時、男が唐突に顔を上げた。
「……ダメだ、近づくな」
喉に張り付いたような声が響く。彼の顔は土と血で汚れ、瞳は恐怖で見開かれていた。
「何があったんですか? ここで何が――」
「来るぞ……アレが……」
男はわずかに首を振り、何かを言いかけて、突然立ち上がった。
――そして次の瞬間、ありえない方向に彼の首が捻じれた。同時に、グジャリ、ゴギゴギと骨の砕ける音が響く。そうしていとも容易く、彼の身体が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
「なっ……!?」
悠里が声を上げる。
「美咲、悠里、後ろに!」
涼が二人を守ろうと前に出た。
作業員の倒れた場所から、黒い影がジワリと立ち上がる。それは人の形をしているようでいて、まるで煙が集まったように輪郭が曖昧だった。
「……あれ、今までのとまた違いますよね……?」
美咲が青ざめた声を漏らす。
影はゆっくりと顔らしき部分をこちらに向けると、歪んだ声で呟いた。
『――カエレ、イマ、スグニ』
「う、嘘でしょ!?!」
悠里が叫ぶと同時に、影が地面を滑るようにして迫ってきた。涼は咄嗟に美咲と悠里を押しやり、異形――影――から目を離さないよう後退する。『襲われる』――と感じた三人だったが、なぜか三人の周りをぐるっと回ると、影はあの従業員の元へと戻っていった。
――そしてそのまま作業員の遺体に触れると、その身体をまるで泥のように崩し、土に吸い込ませていった。
「な、何、あれ……人を……食べてる……?」
美咲が震え声で言う。
「……『取り込んでる』って言う方が、きっと正解だろうな……」
涼が低く言った。その目には恐怖よりも、異形を観察する冷静さがあった。
「ねぇ、涼! ヤバいわよ、次はきっとこっちよ!」
悠里が焦りの声をあげる。
「……逃げるぞ!」
涼が叫び、三人は一斉に走り出した。影はその後を追うように森を滑り進む。ぬかるんだ地面を蹴る音、荒い呼吸。何度も聞いた音。なのに、何度でもやってくる音。背後からは何かが擦れるような不快な音が追いかけてくる。
「走れ! 振り返るな!」
涼が叫ぶ。だが、その時――
「ひっ……!」
美咲の足がぬかるみに取られ、身体が倒れた。
「美咲!」
涼が振り返ろうとした瞬間、悠里が涼の腕を掴む。
「あたしが行くわ! あなたは進んで!」
悠里は素早く美咲の腕を掴み、引き上げた。だが、その瞬間、黒い影が二人に覆いかぶさるように迫ってきた。
「いやっ! 離れなさいよ!!」
悠里が振り払おうとするが、影はまるで泥のように腕に絡みつく。
「悠里!」
涼が叫び、影に近づこうとする。
「来ちゃダメ! 涼まで巻き込まれる!」
悠里が怒鳴り、美咲を突き飛ばすようにして前に押し出した。
「ダメよ! 早くいって!」
「やめろ悠里!」
涼が手を伸ばすが、影が悠里の身体を覆い尽くす。悠里の顔が恐怖と諦めに歪み、そのまま黒い影の中に沈んでいった。
「くそおおおおおっ!!」
涼は絶叫し、美咲の腕を引いて走り出した。背後で悠里の声が完全に闇に飲まれる。影が完全に彼女を包み込むと、その姿は跡形もなく消えた。




