さくら。涙。あしたは晴れ。
昔から、綺麗なものが苦手だった。
「先生、真白ちゃんは?」
綺麗な声。
「真白ちゃん」
綺麗な髪。
「どうしたの?」
綺麗な瞳。
「みんなと桜の木、見に行こう?」
綺麗な指。
「行きたくない……」
「桜の木、嫌い?」
「うん……」
綺麗な花。
「私も真白ちゃんと一緒にいる」
「え?」
綺麗な笑顔。
「真白ちゃんと一緒がいいから」
綺麗すぎる、彼女。
「真白ちゃん! 待って!」
幼い頃、同じ保育園に通っていた女の子に追いかけられたことがある。
子どもだからこそ許された行為かもしれないけれど、事あるごとに名前を呼ばれ、事あるごとに彼女は私に声をかけてきた。
「真白ちゃん! 真白ちゃんっ!」
一緒に、同じ時を過ごしたい。
子どもが抱くそんな可愛らしい感情も、私にとっては恐怖の対象でしかなかった。
(どうして、私の名前を呼ぶの?)
七瀬ちゃんには、いっぱいのお友達がいる。
(どうして、私と一緒にいたがるの?)
恥ずかしがり屋で、いつまで経っても友達を作ることができない私。
私なんかよりも、多くの友達に七瀬ちゃんは囲まれていた。
「真白ちゃん! あのね!」
「……っ」
走った。
私は、彼女から逃げた。
だって、早く逃げないと、彼女は私を追いかけてくるから。
捕まっちゃう。
彼女に捕まったら、私は、私は、私は……!
「こ、こっちに来ないで!」
「真白ちゃん?」
逃げ込んだ先は、ジャングルジムの頂上。
今振り返ってみたら、どうしてそんな逃げ場のない場所に逃げ込んでしまったのだろうと思ってしまう。
でも、きっと彼女がジャングルジムの頂上に私を追い詰めた。
きっと、そうに決まっている。
逃げ場所をなくした私を捕まえるつもりだったんだと思う。
「来ないで! 来ないで! 来ないでっ!」
「真白ちゃん? 大丈夫……」
私に向かって、彼女の右手が伸ばされる。
来ないで。
来ないで。
来ないで。
私に、触らないで。
「真白ちゃ……」
「来ないで! 七瀬ちゃん!」
私は、彼女を拒絶した。
怖かった、から……。
そんなの言い訳でしかないのは分かっているけど、怖かった。
あなたに触れられるのが、私は怖かった。
「……真、白、ち……」
ジャングルジムから真っ逆さまに落ちていく彼女。
彼女がバランスを崩して、登りかけのジャングルジムから転落していく。
その理由は単純明快で、手を差し伸べてきた彼女を私が突き放してしまったせいだった。
「……あ、あ、あ……」
目の前で、女の子が砂場に向かって落ちていく。
自分が伸ばされた彼女の右手を拒まなければ、こんなことにはならなかった。
そんな罪悪感も合わさってしまって、私は余計にこの光景を残酷なものに思えてしまった。
人が落下していくのに、私には何もできない。
自分は自分が思っていたよりも残忍だったんだなっていう愕然とした想いと、彼女がこの世からいなくなってしまうんじゃないかっていう恐ろしさは、今も頭に深く刻まれたままで離れてくれない。
「本当に申し訳ございませんでした!」
「気になさらないでください。どちらも怪我がなくて良かったですよ」
七瀬ちゃんが落下した先は砂場だったおかげで、彼女の人生は救われた。
彼女の両親はとても良い人すぎる人たちで、私のことを咎めることもなく、大丈夫だったか。怖い思いをしなかったか。私の精神的な面をとても気遣ってくれた。
「これに懲りずに、これからも宜しくお願いします」
「こちらこそ、宜しくお願いします!」
何事もなかったかのように明けていく元通りの日々。
彼女は相変わらず私の名前を呼んでくれたけど、私は彼女のことを無視するようになった。
私は、彼女に対して謝罪の言葉を述べることなく、この件は終わりを迎えてしまった。
「七瀬ちゃん……小学校、違うの?」
「そうよー。寂しくなっちゃうわね」
「…………」
保育園を卒業すると同時に、彼女は私の前からいなくなってしまった。
私の名前を呼んでくれた彼女は、もういない。
あのとき、手を放してしまってごめん。
そう伝えたかったはずなのに、向こうが私にしつこく迫ってきたのがいけない。
そんな風に問題をすり替えて、私は再び彼女からの逃避行を始めた。
◆
「桜、綺麗だね」
すれ違う人たちが、相咲高校まで続く桜の並木道を称賛する。
私が住んでいる地域では、入学シーズンの頃には桜が枯れてしまうのが普通。
今年は、ほんの少し開花が遅れ、春に始まりを迎える人たちは美しい花びらの祝福を受けることができた。
「写真、撮ろう……って、すみません!」
「あ、私こそ、迷惑をかけてごめんなさい!」
桜の木に夢中になっている女の子たちと、高校に向かう私の肩が触れた。
別に大きな事故が起きたわけでもないのに、大袈裟なくらい謝って私はその場から逃げ出す。
「はぁ」
しっかりしろ、私の体。
しっかりしろ、私の足。
ちゃんと、自分の力で動きたい。
「お友達が欲しいのに、また逃げちゃった……」
しっかりできないのは、私の心が弱いから。
私の心が強ければ、きっと大丈夫のはずなのに。
(早く高校生活に慣れたいな……)
人は私のことを、こう呼びます。
恥ずかしがり屋の鹿野真白、と。
そんな呼び方からは卒業してみせると意気込んでみたものの、私はまだ変わることができていない。
意気地なしの鹿野真白という新しい呼び方すら得てしまいそうな自分に、再び溜め息を零す。
(教室に着けば、きっと……)
まだ入学してから数えられるほどしか経過していない。
まだ自分を諦めてしまうのは早いと気づいた私は、ほんの少しだけ自分の足を速めて相咲高校の敷地へと足を踏み入れた。
「今年度で『おもてなし制度』も終わりかー」
真新しい制服を着ている恐らく同級生の女の子の声を遮るかのように、近くで女子生徒の歓声が沸き上がった。
(まるで、マンガの世界みたい……)
こんな少女マンガみたいな光景が現実で見られるなんて、よっぽど人気な女生徒が自分の通う高校に存在しているということらしい。
(……綺麗)
誰に向けられた歓声なのか。
正体は分からなくても、盛り上がりを見せている方向をボーっと眺めてみる。
(遠くからでも、美人さんなのが分かる……)
自分はまだ高校に入学したばかりで、これから成長が期待できる箇所もあるはず。
そんな風に珍しく前向きな発想に至っても、多くの生徒から歓声を浴びている彼女は格が違う気がする。
どんなに私が成長したところで、私は美人とはほど遠い位置で生きていくんだろうなと伸びない自分の身長を振り返る。
(綺麗なものは、苦手……)
また、綺麗なものから逃げようとした。
そんな私の態度がいけなかったのか、過去から逃げようとした私がいけなかったのか。
私は立ち眩みに襲われてしまって、入学して早々に保健室に運ばれてしまった。
「ん……」
人間意識を失うと、どれだけ眠りに就いたのかまったく分からなくなるというのは本当だった。
「鹿野さん、もう大丈夫?」
「保健室の……先生?」
「大正解。もう大丈夫そうね」
どれくらいの時間、私は眠っていたんだろう。
「すみません……ご迷惑をおかけしました……」
ここは女子高。
生徒一人を保健室に運ぶまで、どれだけ多くの人たちの力を借りてしまったのか。
実際に協力してくれた人数は分からなくても、とんでもなく大変な出来事を引き起こしたことだけは想像できる。
「そうだ! オリエンテーション!」
「そんなに焦らなくても大丈夫。今日は、生徒会主催の新入生歓迎会みたいなものだから」
入学して早々、こんなことがあっていいわけがない。
これからクラスメイトと仲良くして、私は友達を作りたいと思っていた。
いきなり保健室に運ばれてクラスを離れてしまったら、私はクラスメイトと仲良くなる機会を失ってしまう。
「鹿野さんは、体調を崩しやすいの?」
私の立ち眩みの原因は、私が今も過去を引きずっているせいなのか。
それとも昨日、緊張であまり眠ることができなかったことが原因なのか。
何が確かな原因かは分からないけど、今日はたまたま体調を崩してしまったことを保健室の先生に伝える。
「緊張しすぎて、疲れが出ちゃったかな」
「多分、そうです……」
「でも、何かあったら遠慮なく保健室を利用してね」
「ありがとうございます」
何か深い事情があって立ち眩みを引き起こしたのなら、先生も理解してくださるかもしれない。
でも、私の場合はそんな深い事情がない。
それは健康の証でもあるけど、大勢の人に迷惑をかけた結果の保健室。
都合のいい言い訳があったらいいなと悪い子の発想が働く。
「それにしても、鹿野さんは凄いのね」
「……凄い?」
「プリマローゼのこと!」
「…………え?」
「まさかプリマローゼに選考された生徒と知り合えるなんて、先生もラッキーね」
先生?
先生は、何を仰っているの?
「そろそろ、迎えに来てもらわないとね」
先生が発した単語を聞き取ることはできなくて、先生が何を言葉にしたのか理解できないまま、先生は保健室に常備されている電話機に手をかけた。
もちろん誰かに電話をするためだろうけど、一体誰に……?
「失礼します」
「あら、八七橋さん。今、おもてなし制度の担当の先生に連絡しようと思っていたところなの」
先生がどこかの誰かに電話をかけようとしたときに、全開になっていた保健室の扉から保健室の中を覗く女性がいた。
「鹿野さんの鞄、お持ちしました」
女性が私の鞄を持参してきてくれたことを考えると、今はもう放課後の時刻ということ。
このまま帰宅してもいいのはありがたいけれど、クラスメイトと言葉を交わすことすらできなかったのは寂しい。
「……あの!」
思考を切り替えて、今は私に優しくしてくれた人たちにお礼を言いたい。
そう思って、新鮮な空気を体に取り入れて、なるべく大きな声を出そうと準備を整える。
「鞄、ありがとうございまし……」
新鮮な空気を取り込んだせいか、頭が冷静な思考に切り替わっていく。
「遅くなって、ごめんなさい」
綺麗な女の人が、私に向かって謝罪の言葉を述べる。
クラスメイト? 先輩?
それすらも分からないはずなのに、彼女が何者なのかを私の記憶は知っている。
「久しぶり、鹿野さん」
今朝、校門の付近で多くの歓声を浴びていた女性が、この人だって分かった。
そして、その女性が誰なのか。
記憶が、私に訴えてくる。
「七瀬、ちゃん……」
記憶の中の、その人は私のことを苗字で呼んだ。
昔は私のことを真白ちゃんと呼んでくれていたはずなのに、七瀬ちゃんは私のことを名前で呼んでくれなかった。
「二人は知り合いだったのね、ふふっ、運命の二人って言うのかしら」
保健室の先生は楽しそうな笑みを浮かべながら、私の担任の先生に話をしてくると言って保健室から出て行ってしまった。
「改めて、自己紹介をしてもいいかな?」
遠慮がちに尋ねてくる七瀬ちゃんだけど、私に対して遠慮することなんて何もない。
私たちは初対面ではなく、幼い頃に会っている仲。
それは互いに気づいているはずなのに、過去の記憶が足を引っ張る。
私と七瀬ちゃんと距離を遠ざけていく。
「鹿野真白さんのおもてなしを担当する、八七橋七瀬です」
純粋無垢。
そんな言葉が似合いそうなほど真っすぐで優しい声をしている七瀬ちゃんは、ベッドから体を起こした私と目線を合わせるために屈んでくれた。
「生徒たちのお手本……プリマローゼって呼ばれる役職に選出されました」
私が顔を上げたら、七瀬ちゃんと視線を交えることができる。
私が七瀬ちゃんの瞳を見ることができたら、七瀬ちゃんは他人行儀な喋り方をやめてくれるかもしれない。
「私が目立つ立場になることで、鹿野さんに迷惑がかかるかもしれない」
その先の言葉を、聞きたくない。
その言葉は、七瀬ちゃんのものじゃない。
その言葉は、私が真っ先に七瀬ちゃんに伝えなければいけないから。
「ごめんなさ……」
「ダメっ!」
手を伸ばして、七瀬ちゃんの口を塞ぐ。
勢い余った自分の両手が七瀬ちゃんの唇に触れたことに気づいた私は、恥ずかしさのあまりに伸ばした手を引っ込めた。
(七瀬ちゃんの唇、熱くて、柔らかくて……)
1番に伝えなきゃいけない言葉を私は知っているのに、言葉が出てこない。
七瀬ちゃんの顔を見ることもできなくて、急に唇に触れてしまって、七瀬ちゃんは私に対して絶対に不快な気持ちを抱いている。
(私は、どうして今も昔も変わらないの……?)
今度、七瀬ちゃんに会うことができたら。
七瀬ちゃんと再会する日を夢見て、私は何度も何度もぬいぐるみ相手に謝る練習をしたはずなの……に……。
(夢、見て……?)
七瀬ちゃんから逃げ出したのは、他の誰でもなく自分。
小さい頃から、綺麗すぎる七瀬ちゃんが苦手だった。
それが、私の逃げる理由。
それが、七瀬ちゃんを避ける理由だった。
(でも、今の私は……)
出てこない言葉の行方に戸惑っていると、七瀬ちゃんの唇に触れた私の両手は温かな優しさに包まれる。
「鹿野さん」
「あ、上手くお話できなくて……ごめんなさ……」
「顔、真っ赤」
一つ目のごめんなさいを伝えることで、始まることができるような気がした。
でも、私のごめんなさいは七瀬ちゃんに届く前に散ってしまった。
それなのに七瀬ちゃんは私の頬を、子猫をあやすときのような優しさで撫でてくれる。
「くすぐった……」
「桜の木、好き?」
いつも、そう。
私は、七瀬ちゃんに謝ることがたくさんある。
「あの……綺麗だとは思います……」
私の隣にいてくれる七瀬ちゃんに甘えて、甘えて、甘えすぎて、こんな私は七瀬ちゃんに嫌われてしまうと怖かった。
「でも……綺麗すぎて、苦手……です……」
「同じだね」
気づかなかった。
「私もね、桜の木が苦手」
七瀬ちゃんは、怒った顔をしていない。
「でも、相咲高校の中庭にある桜の木」
七瀬ちゃんは、凄く綺麗な笑顔で私を見守ってくれていた。
「新しく入学してくる鹿野さんと、一緒に見られたらいいなって思っていたの」
「私……と……?」
「うん」
いつも、いつも、私は七瀬ちゃんの瞳を見ることができなかった。
けど、柔らかくて温かな七瀬ちゃんの声は、私の視界を広げてくれた。
下を見ることしかできなかった私の視界に、ようやく太陽の光が差し込んできてくれた。
眩しすぎる太陽の光が綺麗すぎて、青い空が眩しすぎて、私はどちらも苦手だった。
曇り空や、雨の日がちょうどいい。
雲や雨は惨めな自分を隠してくれるから。
「お邪魔しても大丈夫?」
「あ、七瀬の隣にいるのは、もしかして……」
「私の大切なプリームラ」
プリームラは、プリマローゼにおもてなしされる側のこと。
私は、七瀬ちゃんにもてなしてもらう側ということを示す単語が飛び交う。
体温が急に上がったような気がして、私は自分の顔が真っ赤に染まっていないか顔を覆いながら七瀬ちゃんのあとを付いていく。
「好きに使っちゃって」
「ありがとう」
中庭に案内されると、何人かの生徒が空に向かって伸びる桜の花を愛でていた。
二人組で行動している人たちが多くて、ここにいる人たちは『おもてなし制度』で巡り合った先輩後輩なという間柄なのかもしれない。
「鹿野さん」
布製の鞄からブランケットを取り出した七瀬ちゃんは、地面にそのブランケットを敷いて私を手招く。
「あの……」
「これでもう、制服は汚れないから大丈夫」
ブランケットの上に腰を下ろして、七瀬ちゃんはそのまま体を倒して寝転んだ。
中庭は私たちの貸し切りじゃないのに、七瀬ちゃんは自由奔放に動き回る。
「もう少し暖かくなると、最高のお昼寝ができるんだよ」
一瞬だけ瞼を下ろした七瀬ちゃんだったけど、すぐに私のことを視界に入れてくれた。
「恥ずかしい?」
首を横に振って、七瀬ちゃんの言葉を否定する。
ここにいる生徒たちは、誰も私たちの行動を気にしていない。
それに気づいた私は、急いで七瀬ちゃんの元に向かった。
「あの……その……」
「やっぱり恥ずかしいかな? 中庭で、横になるなんてね」
七瀬ちゃんが用意してくれたブランケットの上に寝転がり、隣にいる七瀬ちゃんを見つめる。
(綺麗……)
七瀬ちゃんは相変わらず綺麗な笑みを浮かべていて、躊躇いや不安を抱く私を叱りつけるような目とは縁遠い。
「桜の木を下から見上げると……」
「あ……」
枝や咲き誇る花の隙間から、オレンジ色に染まりゆく空が見える。
太陽と一緒になって輝きを放っていた青い空が、ゆっくりと橙色の空に溶けていく瞬間。
今までの人生で気にしたことのない空の色が、今日だけは純粋に心惹かれた。
「凄く……綺麗です……」
「両想いだね」
「え!?」
誰も私たちのことを気にしていなかったのに、特別大きな声を出してしまった私は周囲の視線をいっぱい浴びる。
けれど、それらの視線は痛くもなんともない。
穏やかな笑みで私たちを見たかと思うと、みんなの視線はどこか別の場所へと向かっていく。
「ふふっ、可愛い」
七瀬ちゃんの笑い声が溢れてくる。
笑顔の七瀬ちゃんを見て、自分の心が落ち着くのを感じる。
でも、心は落ち着き始めているのに、心臓の動きは速まっているような気がする。
「ごめんね、笑って」
七瀬ちゃんの手が、私の頭を優しく撫でる。
七瀬ちゃんに触れられたところがくすぐったくて、身を捩らせて反応を示す。
「綺麗だと感じた瞬間が同じだったことが嬉しくて」
「それで、両想い……?」
七瀬ちゃんと、見つめ合う。
こんなにも近い距離で見つめ合ったことがなくて、恥ずかしいという気持ちが私に闘争を促そうとする。
けれど、私の瞳に七瀬ちゃんが映って、七瀬ちゃんの瞳に私が映って、視界いっぱいに広がるすべてが美しすぎて離れられない。
「うん、鹿野さんと私は両想い」
鹿野さんと呼ばれた瞬間、七瀬ちゃんは私に触れることをやめた。
あ、もうすぐ2人きりの時間が終わってしまう。
そんな予感が、私の心を励ます。
「……ろ」
七瀬ちゃんを引き留めるための言葉を、私は知らない。
どうやったら、七瀬ちゃんと一緒にいられるのか分からない。
七瀬ちゃんから逃げ回っていた私は、とうの昔に呆れられたはずなのに。
「鹿野さん……?」
「真白……」
それでも、頑張ってみたいと思ってしまう。
私も、綺麗なものに触れたい。
綺麗なものに、触れていたい。
「真白……名前が、いいです……」
綺麗に恋をしていたから、こんなにも苦しくなると知った。
私の綺麗は片想いだと分かっていたから、逃げることで自分を守った。守ったつもりだった。
「……いいの?」
でも、私が逃げることで、傷つけるものがある。
「私、真白ちゃんのこと、呼んでもいいの……?」
初めて視線が重なり合うことで、七瀬ちゃんが泣いていたことに初めて気づいた。
顔を上げることで、七瀬ちゃんを苦しめていたことに気がついた。
「ごめんね……七瀬ちゃん……」
ずっと、謝りたかった。
「ごめんね……ごめんね……」
本当はずっと、七瀬ちゃんと一緒にいたかった。
「七瀬ちゃん、ごめんなさい……」
本当はずっと、七瀬ちゃんの隣にいるのは私がいいと思っていた。
「真白ちゃん」
七瀬ちゃんの手が、私の頬に触れる。
「ごめんなさ……」
「泣かないで、真白ちゃん」
「七瀬ちゃんも、泣かないで……?」
去年の七瀬ちゃんは、独りで桜を見上げていたのかなって寂しくなった。
七瀬ちゃんの隣にいたかった。
去年も、一昨年も、もっと昔から、七瀬ちゃんの隣にいたかった。
「……会いたかった」
綺麗なものは、苦手。
綺麗は、私を傷つけるものだと思い込んでいたから。
「ずっと、真白ちゃんに会いたいと思っていたの」
だけど、初めて綺麗に触れたいと思った。
自ら、綺麗に手を伸ばしたいと思った。
「やっと会えたね、真白ちゃん」
瞳を滲ませた涙が姿を消す頃、夕焼け空と桜の花びらが私たちを包み込む。
その穏やかで優しい時間に安心した私たちは、綺麗に笑う彼女に手を伸ばした。