後編
「あら? このポット……」
給湯ボタンを押すのをやめて、ポットを眺めていたシーニャさんが、ある一点に目を留めました。
ポットの底の部分です。
私も既に確認していますが、底にはポットの製作者の名前や製作年が記されていました。
「何か気になることが?」
「これ、ツクモ博士の作品じゃない。出すとこに出せばマニアが飛びつく結構な値打ち物よ。製作されたのは115年前……ああなんだ、そういうことね」
ツクモ博士。
どこかで聞いたことがあるような気がします。
いまいちピンときていない私に、シーニャさんは丁寧に説明してくれました。
曰く、ツクモ博士は魔導研究の第一人者であり、魔道具製作者としても有名な人物だそうです。
御年400歳。
今でもご健在とのことですが、それほどの研究者なら魔導図書館勤務の私が知らないはずがありません。
「ああ、アイツ100年くらい前に捕まってるから。あのスケベ爺、アタシの顔見りゃ挨拶代わりに胸を揉んだりお尻を撫でたりしやがって。腹立ったから通報してやったら、同じような被害者が出るわ出るわ。それで積もり積もった刑期が、まだ明けてないのよ」
ええと。
100年前に捕まったツクモ博士とお知り合いとは……
魔力の大きさと寿命は比例するので、魔導師であれば100歳、200歳を超えていてもおかしくはありません。
ですが、シーニャさんは私と同じ魔導図書館職員。魔力なしのはずです。
そういえば以前、女性向け魔法雑誌の特集で、魔力の全てを代償に寿命と若さを保つ魔法を開発した女性高位魔導師の記事を読んだことがありましたが、まさか……
いえ、憶測でものを言ってはいけませんね。
取り敢えず、シーニャさんが若いとか若くないとか、そういう話題には今後一切触れないようにしたいと思います。
「まあでも、本物の天才ではあったわね。特にこの『九十九シリーズ』なんて、発表された当時はセンセーショナルだったのよ。今の魔導師たちにだって、同じ物は作れないだろうし」
「ああっ! それって確かここ数年、問題になってる魔道具ですよね」
思い出しました。
九十九シリーズとは、99年間使い続けると自我を持つよう設計された、他に類を見ない珍しい魔道具です。
殆どは99年を待たずに破損したようですが、現存するいくつかが、近年誤作動を起こすようになったと話題になっていたのです。
誤作動の内容について報道では詳しく触れられていませんでしたが、こんなことになっていたとは。
「そうなのよ。本当あのスケベ爺、牢屋にいてもロクなことしないわね」
何かを思い出したのでしょうか。
シーニャさんのお顔が、世界三大怪蝶と呼ばれる『アオスジタテハ』という蝶そっくりになっています。
子供の頃に図鑑で見て、あまりの恐ろしさに大泣きしてしまったことがありましたが、大人になっても泣きそうです。
怖い。
「そ、それにしても、どうして今なんでしょうか。99年で自我が芽生えるなら、もっと早くに問題が起きてもおかしくなかったのでは?」
実は、九十九シリーズ誤作動の話題を聞いてから、ずっと疑問に思っていたのです。
どうして自我を持ったばかりの頃ではなく、それから10年以上経ってから誤作動を起こすようになったのかと。
私の疑問を聞いたシーニャさんが、ふんっと鼻を鳴らしました。
眉間にシワを寄せて、まるでゴミ虫でも見るような目でポットを眺めています。
「そりゃ思春期になったからよ。人間でいえば15歳前後でしょ」
「思春期……?」
「その頃の男子の頭の中なんて、エロいことでいっぱいよ。しかも製作者があのスケベ爺とくれば、性犯罪に手を出してもおかしくない。つまりそういうことよ」
なんということでしょう。
魔道具が誤作動を起こした原因は、魔法でも呪いでもなく、思春期だったから。
……なるほど、理解できません。
そこは理解できませんが、思春期の男子の頭がエロいことでいっぱいになっているという点は私も理解できます。
数年ほど前まで、歳の近い兄や弟たちの奇行を間近で見てきた身として、それらの事情についてはよくわかっているつもりです。
今では私も大人になり、あの頃の兄弟たちの奇行は一過性の熱病のようなものだと、思春期ゆえの仕方ない行動だったのだと思えるようになりました。
ですが、思春期の男子ならパンツを盗んでも仕方ないのかといえば、それは絶対に違います。
大人になって理解できるようになったからといって、許せるかといえばそうではない。
それとこれとは全くの別問題なのです。
「で、ホントにどうすんのよコレ。どっかに捨ててくる?」
「いえ。そういうことでしたら、問題ありません。こういう場合の対処方法は心得ていますので」
そうなのです。
私は知っていたのです。
壊れた魔道具が、どうすればまたきちんと動くのか。
身内のパンツを盗んだ思春期の少年たちを、どうすれば更生させられるのか。
こんなとき、私の母がどう対処していたか。
私は、幼い頃から何度も何度も、うんざりするほど見ていました。
だからよく知っていたのです。
「実家の母の受け売りですが……壊れた魔道具とおいたの過ぎる男子には、鉄拳制裁がいちばん効果的なんですよ」
私は、ニコリと笑って私物のモーニングスターを取り出しました。
シーニャさんの顔が引き攣っていた気がしますが、きっと気のせいでしょう。
*****
「あらあら。またやってしまいました……」
私は、テーブルの上に散らばってしまった文字を見て、溜め息をつきました。
いつもは気をつけていたのに、仕事が終わったら楽しみにしていた新刊を読もうと頭がいっぱいになっていて、すっかり浮かれていたのです。
あれ以来、クライスさんの持ち込んだポットは、2メートル以内に若い女性が近づいてもパンツを出さなくなりました。
きっと、叱られて反省したのでしょう。
ですがポットの思春期はまだ続いているらしく、今度は反抗的な態度をとるようになってしまったのです。
それも私限定で。
テーブルの上に散らばった文字を見て、再び溜め息をつきます。
どうせなら、図書館の蔵書なら良かったのに。
そうすれば残業申請も通ったでしょうから。
「うう、こんな形で楽しみにしていた新刊を読まなきゃいけないなんて……」
自分の迂闊さを呪いますが、後の祭り。
嘆いてないで、さっさと本の修復に取り掛かりましょう。
あれからポットは、パンツを出さなくなった代わりに、本の中身を出すようになったのです。
本を持った人が2メートル以内に近づくと、魔法で本の中の文字を抽出して、給湯口からじゃばじゃばと活字を注ぎ出すのです。
『おネえさん、キョうのぱンつ何イロなノ?』
並べられた活字を見て、三度溜め息をつきました。
なんだか悪化している気がします。
もう1度思いっきり折檻すれば、今度こそ更生するでしょうか。
そう思うものの、恐らく無理であろうことは理解しています。
あの後、改めて図書館の蔵書からツクモ博士に関する資料を読んでみました。
その中にあった自伝に、こんな文章があったのです。
+++
私が15歳のときのことだ。
誤って階段から転落し、強く頭を打った私は、それまで身のうちに抑えていた衝動を抑えられなくなったのだ。
それは、魔法に関する知識をどこまでも手に入れたいという底知れない衝動、これまでにない魔導研究を成し遂げたいという衝動、そしてリビドーだった。
以来私は、それらの欲求を解消すべく、衝動に身を任せるままに生きてきた。
私が成功者か、ただの変人か。
それは100年後、私の最高傑作となる九十九シリーズが答えてくれるであろう。
+++
「あら、なあに。残業?」
楽しみにしていた新刊を読みながら、給湯口から流れ出てしまった文字を修復していた私に、シーニャさんが声をかけてきました。
ポットから流れた文字を修復する作業は、難解なパズルに似ています。
1ページずつ内容を確認し、抜け落ちた部分を見つけたら、そこにピタリと嵌る文字を1つずつ試していくのです。
非常に根気のいる作業です。
シーニャさんには申し訳ないですが、私は本から目を離さずに作業を続けます。
目を離した途端に、どこまで修復したかわからなくなってしまいますから。
「いえ、私的な修復作業です」
「だったら丁度いいわ。急ぎで修復してほしい資料があるから残業してくれない? そっちの本も一緒にまとめて申請しちゃっていいから」
なんと、神のようなお言葉です。
「急ぎというと、明日の世界魔法学会で使われる資料ですか?」
「そうよ。まったく、どこかのスケベ爺そっくりな天才魔導ポット様が次々に新しい魔法理論を思いつくもんだから、こっちの仕事が増えちゃってしょうがないじゃない」
ぶつぶつ文句を言いながらも、私の向かいに座ったシーニャさんは、ものすごい速さで資料の修復作業を始めました。
実はあのポット、私が折檻した際の打ちどころが良かったのか悪かったのか、そこから魔導の才能に目覚めてしまったのです。
製作者が、頭を強く打って魔導の才能に目覚めたとの同じように。
とはいえ、所詮はポット。
思いついた魔法理論を書くことも、話すこともできず。
そこで、近くにある本や論文から任意の文字を抜き出し、自らの考えを給湯口から注ぎ出すことにしたようなのです。
おかげで、魔導研究分野は飛躍的な進歩を遂げました。
その代償として、私たち魔導図書館職員は日々大量の修復作業を担うことになったのですが。
「まあいいけどね。残業代が潤うし。……リブラには気の毒だけど」
それほどの天才ポットなら、魔導業界で引く手数多、すぐにどこかに引き取られていくだろう、と思いきや。
当のポットが、私がそばにいないと全く動かないポンコツ仕様になってしまったのです。
それに、ポットが注ぎ出す活字が多くあるという点においても、国立魔導図書館以外に最適な場所はありません。
最近は頻繁に高名な魔導師の皆様がやって来て、図書館職員に何冊もの本を持ってこさせては、ポットに質問したり議論を交わしたりしています。
そういった理由で、ポットは未だこの職員休憩所にあるのです。
ですが。
ポットが魔法理論を注ぎ出すたび、ついでのように私はセクハラを受けることになりました。
高名な魔導師様たちの前で『キョうのオネえさンのぱンツは黒』だの『白イレえすのパンつeroいネ!』だのといった文字を出され、大変恥ずかしい思いをしています。
いくら思春期ゆえの反抗的態度だと言っても酷い。
それでも、私のパンツ事情が多少流れ出たところで、新たな魔導研究の前には風の前の塵に同じ。
さすがに同情した上の方々のはからいで、パンツ手当なるものが支給されるようにはなりましたが……
「いえ、いいんです。気にしてません。私のパンツひとつで世の中の役に立つと言うのなら……パンツ手当で新しいパンツでも買おうと思います」
なんとも言えない目でシーニャさんが私を見ている気がしますが、きっと気のせいでしょう。
ですが私は本当に気にしていないのです。
毎日がとても充実しているからでしょうか。
最近は、新たな夢もできました。
いつかツクモ博士にお会いしたい。
お会いして、心ゆくまで思いの丈を伝えたい。
そんな、ささやかな夢ができたのです。
もし夢が叶ったら、私の顔はアオスジタテハそっくりになるかもしれませんけどね。
ビ、ビブリオ小説だもん……っ!