2.
2.
びゅうびゅうと換気扇の奥で、風の音が鳴り響いていた。おそらくは雪も降り出しているだろう。
屋外は予報通り嵐になりつつあるようだが、最先端の建築技術が用いられた高気密マンションの中はもはや別世界だ。
たっぷりの湯気に覆われた暖かい浴室で、ミエーレはお行儀良く体を洗われていた。
黄金色の体毛はお湯を含んでぺったりと張り付き、細い四肢が丸わかりの滑稽な姿になり果てている。
みくるの部屋に世話になるにあたって、ミエーレはまず湯を借りたいと願い出た。
ノミはいないはずだが、あちこちと走り回った後だ。部屋を汚してはかなわぬと、毛皮を洗っておこうという考えからだったのだが。
(確かに僕は猫だし、人の体に何か思うようなことはないけれど……)
曲がりなりにも雄である自分に対し、あまりに明け透けではないかとミエーレは思う。
そう、みくるは当然のように一緒に入ってきたのだ。もちろんタオルで体を隠すようなこともない。
紳士たるミエーレとしてはできる限り視線は向けず、みだりに触れることもないよう気をつけているのだが。みくるはまったく頓着してくれない。
結果、ミエーレはみくるの手によってシャンプーされてしまっているわけなのだ。
「お風呂が平気な猫もいるんだね」
「苦手ではないというだけさ。ああ、首から上は泡をつけないように軽くなでるだけにしてもらえるかな」
「はーい」
猫として何十年と生きてきたミエーレは、人がなにかと猫を構いたがる習性があることを熟知している。
どうせ構われるなら下手に抵抗するより、身を任せて手際よく済ませてもらうのがよかろう。
悟りに至った者特有の表情のまま、彼はその時間を堪え忍んだ。
「んー、お昼のうちから入るお風呂ってなんか贅沢してる気分」
「みくるはしばらく浸かっていたらいいよ」
「えー、ミエーレは出ちゃうの?」
「わかった、ちょっと待ってもらえるかな」
少女はおしゃべりに飢えているらしい。学校から追い返され、家に帰っても誰もいないとなれば仕方ないことだ。
浴槽に張られた湯はぬるめで、のんびりと入浴する気であることがうかがえる。
だが、ミエーレは人用の湯船に浸かれない。濡れたままでは体が冷えて、体力を奪われてしまうだろう。
洗面器の湯船は彼には小さすぎる。幸いにも霊力は僅かながらに回復している――
「わぁっ、なになに?」
目にした光景に、みくるが感嘆の声をあげる。
ミエーレの周囲に水の球が大小いくつも浮かび上がり、同時に彼の体がふんわりとした丸みのある型を取り戻していく。
「霊力で体の周りの水分を集めて浮かせたんだ」
「すごい、すごい! ……霊力?」
「そう、僕は霊力を扱える。普通の猫と違う部分だね」
「いや、ミエーレは最初から普通の猫さんとは――」
確かに人の言葉を解する時点でミエーレは普通とは言い難かった。
だが、みくるはミエーレの言う普通にふくまれた意味、目の前でわかりやすく霊力を操ってみせた理由にちゃんとたどり着いてくれた。
「……ミエーレの言葉は、わたし以外には聞こえないんだよね?」
「うん、その話をしないとね。君は開いていることに自覚がなかったようだし」
つまりは、みくるもまた常人ならざる者であると。
「僕は猫だから、生物学的に人の言葉を発音することができない。みくる、君が聞いている僕の声は特殊な力で形作られた意志なんだ」
「特殊な力……」
「それは古来より、様々な呼ばれ方をしてきた。霊力、魔力、呪力、妖力。科学では解き明かせぬ、尋常ならざる力だ」
みくるが水球のひとつに手を伸ばすと、それはシャボン玉のように弾けて浴槽へとこぼれ落ちた。
「開いた者というのは、そういった力を知覚できるようになった存在のことさ」
視線はミエーレに向けたまま、みくるは彼が放った言葉を噛み砕いているようだった。
ミエーレはどこか語り手めいたしゃべり方ではあるが、話している内容は明確だ。
つまりはマンガやアニメといった虚構の中にだけあったそれが現実に存在し、今まさに触れているということ。
「わたしも魔法とかが使えたりする……?」
「どうかな。少なくとも素養はあると言えるけれども」
どきどきと高鳴る鼓動を確かめているのか。みくるは胸に手を当てたまま口をつぐむ。
この年頃の少女たちは、好奇心と想像力が無限大だ。だが、その先に待っているのが後悔かもしれないとは考えもしない。
魔法使いになれたら何ができるだろう。具体的なことは不明瞭なままに、期待だけが膨らんでいく。
それはあたかも、時計うさぎを追いかけて不思議の国に迷い込んだ少女のように。
だから先達として、賢しき猫は注意を与える。
「けれど力は危険なものでもある。みだりに求めれば体や心、あるいは社会的な立場に傷を生むかもしれない」
「心や社会的な立場?」
体の傷はわかりやすいだろう。料理で使う刃物や火だって同じだ。扱い方を間違えば自らを傷つける。
だがみくるの年代では、社会と言われてもピンとはこなくても仕方ない。
「開いた存在は社会における異物であり、日常から拒絶される。たとえば、君が僕と会話できることを周囲に話したとして――理解してくれる者はいないだろうね」
尋常ならざる力とは、つまり異端なのだ。それは求めるほどに、社会との差異は大きくなる。
そうして生まれる孤独が心を傷つけ、日常との断絶は社会的立場を傷つける。
傷つくことを恐れるならば、知るべきではない分野というものがあるのだ。
「理解されないというのは、思った以上に心を苛むものなんだ。それでも手を伸ばしたいと願うかな?」
問いかけるミエーレに、みくるは何度かまばたきを繰り返してみせた。
少々脅すような言い方になってしまったが、人は社会の中で生きる動物なのだ。覚悟はどうしたって必要になる。
偶然開いてしまっただけならば目を背け、忘れて生きる術だってあるのだ。
ミエーレの見つめる先、少女が出した答えは。
「なんだか大変そうなのはわかった」
「ああ」
「でもそういう話はミエーレとしたらいいんだよね?」
みくるの言葉にミエーレはきょとんとした表情になった。それからにわかに笑い出す。
「確かにその通りだね」
ミエーレは感心した。少女はこの世界の秘された真実などよりも余程、物事の正しさというものを理解している。
だからミエーレも、彼女には正しきことを伝え、導かなければならぬと思う。
「まずは僕が知る限りの世界の真実を伝えよう――お風呂を上がってからね」
◆◇◆
古来より幻想の力は世界の傍らにあった。
これは比喩などではなく、我々の住む現実界に重なり合うようにして幻想世界と呼べるものが存在しているのである。
しかしふたつの世界を隔てる“壁”と呼ばれる概念によって、現実界に生きる者は幻想を正しく認識できない。
故に。その壁に設けられた扉を開くがごとく、幻想の力を認識できる者。彼らは開きし者と称される。
「開くきっかけは千差万別だ。これといった理由もないままに、気付いたら開いていることもざらさ」
「うん、わたしも思い当たるものがないかな」
湯上がりののんびりとした時間、暖かな部屋の中。
リビングのソファーで、ミエーレは幻想域――幻想の力に関するあれこれについての基本的な講義を行っていた。
講師であるミエーレが、生徒であるみくるの膝の上に抱き上げられているような体勢であったりするが。
「そのもうひとつ先。僕のように、現実界に生きながら幻想の力を操る存在を“幻想使い”というんだ」
「ソーサラー! わたしにもなれるかな」
「先天的な才がものをいう分野だから、絶対とは言えないけれど。焦らず知識から覚えていくといいよ」
日本は千年を超える昔から呪術、つまりは幻想を操る術を受け継いできた。
この国で生まれ育ったというだけで、そのほかの地域に比べてだいぶアドバンテージがあるのは確かなのだ。
しかも現在は、“変革期”を越えて水瓶座の時代となっている。
世界の壁が大きく崩れてしまったことで、期せずして幻想域のいざこざに巻き込まれてしまいかねない。
それこそ、この新青区に暮らす人々は皆、すでに幻想域の影響を受けていることをミエーレは知っていた。
そして、開いた者であるみくるは特に危険に巻き込まれやすいのだ。
知識を得ることが彼女の身を助けることにつながるかもしれないのであれば、たとえ幻想使いになれなかったとしても教えを授ける価値はある。
「よーし、がんばるぞー」
膝の上にミエーレを乗せたまま、みくるが片腕を突き上げて決意を顕わにする。
リビングから見える窓の外はいよいよ天気が崩れ、白い雪が嵐の中を激しく舞っていた。