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「ただいまー」
帰宅の挨拶を告げるも、返事がないことはみくるも理解していた。
金曜日の正午過ぎ。普段ならまだ小学校にいる時間だが、昨日から続く記録的な寒波でいくつもの警報が出た結果、全校で三限まででの放課が決定された。
担任の教諭は寄り道せずに帰宅するよう注意していたが、天気が荒れる前に週末分の食料を買い込む必要があったのでお目こぼしを願いたい。
両手に抱えたスーパーのレジ袋をロビーの床に下ろし、玄関の施錠をしっかり確認する。それからちょっぴり大きめのため息をひとつ。
冷たい風の吹く中、重いレジ袋を運んで疲れたというのもある。頬は痛みを覚えるくらいに寒かったのに、コートの下は熱がこもって暑いくらいだ。
だがそれよりも、今から月曜の朝まで一人で過ごさなければならないことがみくるの気持ちを沈ませていた。
みくるは来月十一歳になる、ごく普通の少女だ。
学力はそこそこ、運動神経もそこそこ。容姿も悪くはないと思うが、クラスの中で飛び抜けて目立つほどではない。
家事は毎日しているため苦手意識はないが、得意と言うにははばかれる。
「勢いで買い込んじゃったけど、ちょっと面倒だな……」
みくるは去年から、この新築のマンションに歳の離れた兄と二人暮らしをしている。
その兄も三日前から長期の出張に行っている。帰宅の予定は来週末だ。
学校に行っている間は友達がいる。けれど週末、しかも外出を控えなければならないような天候となると、どうしたってひとりぼっちだ。
食べてくれる相手がいなければ、料理のしがいもない。
「もうお風呂沸かしちゃおうかな」
なんだか無性に温もりが欲しくて、そんな言葉が口をついて出る。
心にぽっかりと穴が空いたようで、元気とかやる気とかいろんなものがそこから流れ出ていくようだった。
みくるの住む八〇二号室の間取りはワイドスパンの3LDKだ。
リビングダイニングキッチンはとても広く、みくる一人でいると余計にがらんとしているように感じてしまう。
部屋が暖まるまで上着を脱ぎがたいが、お気に入りのコートはなんだかいつもより重くて煩わしい。
朝に作ったお弁当はランドセルに入っているが、なんだかお腹が空いている感じもしない。
どうせ今日はもう外に出ることもないだろうし、お風呂でさっぱりして部屋着に着替えてしまおう。
そう思ったみくるはレジ袋の中身をしまい込むと、バスルームに向かおうとして――
がたっ、と。背後から物音が聞こえた。
「……え?」
この家には今、みくる以外に人はいない。……いないはずだ。
ひゅっ、と短く息を吸い込む。急に耳鳴りがして、うまく音が拾えない。なのに心臓の鼓動はどくどくと、うるさいくらいだ。
(なにか落ちた、のかな。もしくは、気のせい……)
力の入らない手足をなんとか動かし、ゆっくりと音のした方向へと振り向く。目に入ったリビングには、特に変わった様子はない。
となると、あとはカーテンに隠されたバルコニーか。
「風でなにか飛んできたのかも。うん、きっとそう」
地上八階にある部屋に物が飛んでくることなどそうあるはずもないのだが、あえてそう自分に言い聞かせる。
広く取られたバルコニーはリビングだけでなく、みくるの部屋からも繋がっている。
もし空き巣であれば、みくるの部屋も荒らされて――
(ダメダメダメ! 怖いこと考えるの禁止!)
んっ、と全身に一度力を込めて、それから大きく息を吐きながら脱力する。兄から教えてもらった緊張をほぐすルーティーン。
そしてすぐ、余計なことを考える前に勢いよくカーテンを開いた。すると。
「……猫さん?」
太陽の光を溶かし込んだような、と表現するのが妥当だろうか。
ガラス戸の向こうには、琥珀の毛並みを持つ茶トラの猫が座り込んでいた。
「びっくりしたあ。……というか、どこから入ってきたの? ここ八階だよ?」
猫はみくるに気付き、伏せていた目をこちらに向けるも逃げる様子はない。
くりくりとした深いカッパーの瞳が心を惹きつける。
なでさせてもらえたりしないかなとちょっとだけ期待して、みくるはクレセント錠を開けてバルコニーに出た。
近くで見てみると、美しいと思った毛並みはだいぶ汚れている。
野良猫なのかとも思ったが、白い首輪が巻かれていた。このマンションのどこかで飼われている子なのかもしれない。
「こんにちは、猫さん。そこ寒くない?」
「こんにちは。お邪魔させてもらっているよ」
「……はい?」
かわいらしい見た目からは想像もつかない落ち着いた声が返ってきて驚いた。
違う、そうじゃない。
「しゃべ、った……?」
「おや、君は開いた子なんだね。それならきちんと挨拶をするべきかな」
「ひらいた?」
「そうだね。それは瞳であり、扉であり、信仰または世界だとも言えるだろうか。古来よりいくつも歴史に綴られた――」
「えっと、ごめんね。その話は長そうだよね? 寒いし、中に入ってからにしよ?」
コートはまだ着たままだから凍えるほどではないが、寒空の下で長話をする理由もない。
しゃべる猫という奇妙な存在であるも、みくるは寒いのはイヤだという、ごく簡単な理由で入室を許可した。
「女性に部屋に招かれるのは光栄だが、ご家族の方に申し訳ない。せめて親御さんが帰られてから――あっ!」
猫はまだ何か言っているが、気にせず抱き上げリビングに戻ってしまう。
腕に感じる少しの重みと温もりに、思い切り抱きしめたい衝動を覚えるも、そこは我慢。
「随分と大胆なお嬢さんだね。寒さに負けて勝手に軒下を借りていたのは僕なのだから、もちろん感謝はさせていただくけれど」
お嬢さんだなんて滅多に聞かない呼ばれ方に、なんだか苦笑がこぼれる。
変わった口調の猫なのだな。なんて考えてしまっている辺り、しゃべること自体はすっかり受け入れてしまっていた。
改めて脱衣所に入ると、洗面台の上に猫を下ろす。それから、タオルを濡らして差し出した。
「はい、ここに足乗せて」
「何から何まで申し訳ない。ありがとう」
小さな前足がちょこんと乗せられる姿に、頬が緩むのを抑えられない。
伏せているときは気づかなかったが、胸元と足先は白の混じる靴下猫であるようだ。
みくるは犬も猫もウサギやハムスターだってかわいがる自信はあるが、今日からは猫派を自称しよう。
四本目の足を拭き終わる頃にはそう決意するくらいに、その愛らしさに魅了されていた。
「よし。床を歩いてもいいよ。爪は立てないでね」
「了解した」
タオルを洗濯機のドラムに放り込んで、ついでとばかりに手洗いとうがいを済ませる。
ダイニングに戻ると、部屋はすっかり暖まっていた。
コートを脱いで身軽になると急に空腹を感じる。
「わたし、お昼ご飯にするけど、あなたは何か食べる?」
「お構いなく。こちらにお邪魔する前に済ませている」
「そういえば首輪をしてるけど、どこかのお家の子?」
「いや、今は風来坊の身の上さ」
風来坊って野良のことなのだっけ? と思いつつ、電子ケトルをセット。
テーブルに戻り、ランドセルからお弁当を取り出す。
卵焼きとレタスとミニトマト。冷凍食品の一口ハンバーグに、ご飯の上にはシャケフレーク。
栄養バランスには少々目をつぶり、とにかく手間をかけずに準備を済ませるのが第一といった内容だ。
「名前はあるの? あと、オスであってる?」
「ああ、改めて自己紹介させていただこう。僕はミエーレという。見ての通り、猫だ。性別は雄」
「変わった名前だね」
そこで「いただきます」と口に出して、お弁当に箸をつけた。冷めたご飯も、適度に塩気と甘みがあると食べやすい。
家にいるのだから温めてもよかったのだが、弁当箱のまま電子レンジには入れられない。洗い物を増やすのが面倒なので横着することにした。
口に物を入れるとあまりおしゃべりができない。だからか、ダイニングの床に座り込んだミエーレが気を使い、率先して話してくれる。
「以前、世話になっていた老婦人にもらった名でね。イタリア語で蜜という意味なんだ」
「うんうん」
「その老婦人は若い頃、イタリアに住んでいたそうでね。僕の毛色を見て蜂蜜を思い浮かべたから、ミエーレと名付けたと言っていたよ」
なるほど、確かに彼の濃い金の毛は蜂蜜を思わせる色合いだ。
しかしイタリア語だなんて随分と洒落ているな、と少しうらやましくなったのだが。
「日本語でなら、みっちゃんというところだね」
「なんで日本語にしちゃったの!?」
続く言葉のあまりの台無しさに、食事中に関わらずツッコミを入れてしまった。
名の由来に感心していたというのに、どうしてオチをつけるのか。
「いい名前なんだから、イタリア語のままでいいよ。素敵な由来だし、うらやましい」
「そうかな」
思わぬツッコミで手を止めたついでではないが、みくるも名乗ることにする。
「わたしはみくる。由来とかはとくにないと思う。ひらがなだし」
「かわいい名前じゃないか」
「ええー。言いづらいし、あだ名がみるくちゃんだよ」
不満気に唸ってから、一口ハンバーグをぱくりと頬張るみくる。
だが、ミエーレはなぜか楽しそうに笑い声をもらした。
「ミルクか、それはいいね。僕らの相性はぴったりだ」
「え、なんで?」
「主よ、あなたが祖先と約束された通りに、我らに授けられた地を、乳と蜜の流れる土地を祝福給え」
「なにそれ」
「旧約聖書の一文さ。神様が民に与えることを約束した地は、乳と蜜の流れる豊かな土地だという話だね」
このおしゃべりな猫は思った以上に博識らしい。聖書の一節をそらんじ、話の種にするくらいには。
だが、みくるがミエーレの話を聞いて思ったことは別のことだった。
「ミルクと蜂蜜が流れてるところとか、なんか気持ち悪いよ。わたしならもらってもうれしくないな」
「ははは、あくまでも比喩さ。けれど、ミルクと蜂蜜は良く合うらしいよ」
たしかに、ホットミルクに蜂蜜を垂らしたものはおいしそうだ。
だったら始めから妙な比喩など使わずに、そう言ってくれたらいいのだ。
「猫って蜂蜜はだいじょうぶなんだっけ?」
「平気だけれど、猫だから甘味はあまり感じないんだ」
「ええっ、そうなんだ。わたし、絶対に猫にはなれないよ」
そこでピーというケトルの出す音を聞き、みくるは箸を置いて席を立った。
自分の分のお茶を淹れるついでに、適当な深皿にお湯を入れ、水で割って冷ます。
「はい、どうぞ」
「これはかたじけない」
ミエーレの前に水の入った皿を置けば、彼は謝辞の言葉とともに口をつけてくれた。
その様子を見ながら、みくるもお茶をすする。お弁当にはなかった確かな熱が、みくるの胃と心持ちを温めてくれた。
そこからは箸の進みもだいぶ良くなった。
猫ではあるが誰かが一緒にいてくれるお蔭かもと、みくるは思う。
「みくるはいくつなんだい。随分としっかりしたお嬢さんのように見えるけれど」
「来月で十一歳の、小学五年生だよ。別にしっかりしているなんてことはないかな」
「そうかい? 床が汚れないようにタオルを用意したり、僕が飲みやすい皿を迷わず選んだり、とても機転が利いているように感じたよ」
何気なくしたことでしかないのだが、改めて指摘されるとなんだか面はゆい。
みくるは箸を止めて、左手をぱたぱたと振ってみせた。
「お兄ちゃんと二人で暮らしてるから、家事がちょっとできるってだけ」
「おや。大人の方はいないのかい」
「お兄ちゃんは社会人だよ。十四歳離れているの」
兄はずっと忙しくしているが、みくるは兄がどのような仕事をしているか詳しくは知らない。
「あいてぃー」の「べんちゃー」で「とりしまりやく」をしていると言われても、みくるにはさっぱり想像がつかなかった。
少なくとも生活費に困るようなことはないので、家のことはできる限り自分が行うことで手助けできればいいかなと考えといる。
だから働いている兄のために、みくるは留守番だって一人でしっかりこなすべきなのだ。
けれど。せっかくこうした巡り合わせがあったのだから。
もう少し一緒にいたいと願っても許されないだろうか。
「お兄ちゃんは出張で来週の終わりまで帰ってこないの。だから、しばらく居ていいよ」
「それはますます、僕がお邪魔するのはまずかったんじゃないかと思わなくもないが……」
しゃべるとはいえ、猫を連れ込んだからといって何か問題になるとは思えない。
ついでにいえば、このマンションはペットOKであるし、もともと何か飼おうかという話はあったのだ。
ただ、みくるには「家族を購入する」という行為が心情的にできなかった。だから一人で留守番をしていた。ただそれだけのことだ。
人間の言葉を理解する猫に「飼う」とか「ペット」とか聞かせるつもりもないので、彼に話さないでいるが。
「外、寒かったんでしょ。元気になるまで居てくれた方が、わたしも安心かな」
「そうかい? ありがとう、すごく助かるよ」
みくるの言い分に、ミエーレは固辞することを止めた。七十年を越える猫生経験により、少女の心情と優しさを汲み取った結果だ。
などということを知る由もなく、単純にみくるはミエーレを引き留められたことに満足していた。
上機嫌のまま卵焼きを頬張る。冷えていても甘みがしっかりと舌に伝わってきて、とてもおいしかった。