6. なんだか様子がおかしいです
シルヴィアはあくびを必死に噛み殺した。
「昨夜はあまり眠れなかった?」
そう尋ねてきたのは仮の婚約者、ヴェントゥス。
仮のはずなのだが、今朝からなんだか様子がおかしい。
「ええ、少し考え事を……」
考え事とはもちろんこの彼についてである。
昨日感じた違和感のようなものについて考えていたら、今朝に来てこの様子なのである。
「ダメだよ、よく寝なくちゃ。僕はシルヴィアのミサンガのおかげでよく眠れているよ」
「それは、よかったですわ」
シルヴィアはそうにこやかに笑いながら紅茶をすする。
向かいの席でヴェントゥスは腕に着けた青紫のミサンガを見つめている。
様子がおかしいというのは、ヴェントゥスが急にシルヴィアの名を連呼するようになったことだ。
今までは君、とかよくてもシルヴィア嬢だったが……
(あのミサンガに何か変な材料でも混ぜてしまったかしら……)
じとりとミサンガを見てシルヴィアはため息をついた。
「本当にどうしちゃったのかしら、殿下は……」
シルヴィアはぶつぶつと呟きながら廊下を歩いている。
あれから思い出されるのは微笑むヴェントゥスばかりで、シルヴィアはぶんぶんと首を横に振る。
(惚れ薬の液体と間違えたのかしら? いや、でもあれはだいぶ前に期限が切れていたはずよ……)
そううんうん唸りながら角を曲がろうとしたその時。
ドン!
痛くはないものの、反動でシルヴィアは尻餅をついていた。
「大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫ですわ……」
ここへ来て寝不足のツケが回ってきたようで……シルヴィアは立ち上がろうとしたもののそのままふらつく。
目の前にいる相手が抱きとめてくれたことはわかったが、シルヴィアは意識を手放してしまった。
まぶたをゆっくり持ち上げていく。
真っ白の天井にピンク色の天蓋カーテンが映り、シルヴィアはそこが自分の部屋であることを理解した。
「あ、ようやく起きたね」
聞き慣れない声に一瞬驚いたもののふんわりとした心地いい香水の香りにシルヴィアは安心して体を起こす。
ベッドの傍らには見慣れない整った顔がシルヴィアを覗き込んでいる。
絹のような美しさの緑色の長髪に切れ長の灰色の目。
耳には大振りのピアスがぶら下がっている。
「あの、ご迷惑をおかけしてしまいすみません」
「いいよいいよー。睡眠不足はよくないしね」
「睡眠不足だとどうして……」
そんなにくまは目立たないはずだとシルヴィアは首を傾げる。
不思議な雰囲気の男性はにこりと笑みを浮かべた。
「簡単なことさ。あの時の君の歩き方、表情、匂い……全てが眠いと告げていたからね。そんなことより君、第3王子の婚約者でしょ?」
そんな細かいことまで見られていたなんて、とシルヴィアは驚き、さらに婚約者と言い当てられさらに驚く。
「はい。シルヴィア・セレスタイトと申します。あなたは?」
「俺はキース・マーリナー。よろしくね、シルちゃん」
慣れないあだ名に戸惑いつつシルヴィアは頷く。
「それにしてもシルちゃんの寝言、面白いね。ヴェントゥス様のことばかり」
「わ、私なんて言っていたのですか!?」
何を口走っていたのだろうと顔を赤くして尋ねる。キースは面白そうに笑う。
「名前でもっと呼んでほしいですーとか。私も呼んでいいですかーとか」
シルヴィアは身の縮こまる思いになり、顔を覆う。
すると。
「シルヴィア! 大丈夫か!」
扉こそ優しく開いたものの、大きな声は部屋中に響き渡った。
「殿下、大丈夫ですわ……ってまたですか!?」
シルヴィアは顔を引きつらせてミサンガの効力があまりないことを思い知る。
……というよりかは今ヴェントゥスの後ろにいるのが見るからにミサンガの威力を超えているようだった。
「シルちゃんも見える人なんだね?」
「え、はい!」
キースの質問にシルヴィアは驚嘆して勢いよく頷いた。
「じゃあ、見ててね」とキースはにんまりと笑うと、どこからか大きな杖を出現させた。
木でできた不思議な形の杖の先端には特大のアレキサンドライトが取り付けられている。
シルヴィアはゴクリと息を飲んで、キースの動向を窺う。
キースは大きく杖を振ると、ヴェントゥスの背後にいた霊を燃やし切ってしまった。
シルヴィアはその威力の凄まじさに呆気にとられる。
「熱い! 急にやめてくれよキース!」
「ごめんごめん。俺が久しぶりに帰ってきてもまだ変わらないんだから驚いたよ」
背後で鎮火した炎を見てからヴェントゥスは不機嫌そうに声を上げた。一方のキースは面白そうに笑っている。
「でも……そのミサンガがなければもっと大変だったはずだよ」
キースはそうシルヴィアに向かって微笑みかける。
「そうだろうそうだろう」とヴェントゥスの方がシルヴィアよりも嬉しそうなのでシルヴィアは思わず笑ってしまった。
「さて……俺はそろそろ行こうかな。シルちゃん、伝えてもいいんじゃない?」
何を、と首を傾げるシルヴィアにキースは「ねごと」と口には出さないものの強調する。そんなの無理ですとぶんぶんと首を横に振るが、キースは煙に巻かれる。
「そうだ、明日よろしくね」
消える直前、そう聞こえたのだが、シルヴィアはそれどころじゃなかった。
「伝えるとは、僕に?」
探るような眼差しにシルヴィアは観念したように頷いた。
「その、私も殿下のことをお名前でお呼びできたらな……と」
そうぼそりと呟いて「殿下も最近私のことを名前で呼んでくださるので……!」とわたわたと続ける。シルヴィアが頬を染めて俯くのを見てヴェントゥスもぽぽぽっと顔を赤くする。
「その……呼んでみてほしい」
ヴェントゥスはベッドの際までやってくるとシルヴィアの目線と同じ高さにしゃがみ込む。耳まで赤いヴェントゥスにシルヴィアはドキドキなり続ける胸を押さえつけながら口を開く。
「ヴェン……トゥス様」
消え入りそうな声で言ってからシルヴィアはヴェントゥスに目をやる。ヴェントゥスは嬉しそうに顔を綻ばせていた。
「すごくいい。シルヴィアもう一回」
「……しばらく無理です!」
ぐいーっと顔を寄せてきたヴェントゥスをシルヴィアは払い退ける。ヴェントゥスが先ほどの声を脳内再生していることなどいっぱいいっぱいのシルヴィアは気が付かない。
「それにしても……さっきの方は一体……」
シルヴィアは話題を逸らすようにそう呟く。
「ああ、彼は王宮魔術師のキース・マーリナーだよ。もっと早く紹介するべきだったね」
「王宮魔術師……?」
(だから霊も見えれば、五感も卓越していて、魔力も凄まじいのね……)
ふむふむと分析してから、シルヴィアはあんぐりと開ける。
(私ったら、王宮魔術師様になんて失礼なことを……それにあんな恥ずかしい寝言まで聞かれて!)
恥ずかしさでいっぱいになり、シルヴィアはベッドに顔を埋める。
今度会ったら謝ろうと思っていると、先ほどのキースの去り際の言葉を思い出す。
「明日は何かあるのですか?」
そう尋ねるとヴェントゥスは「もう1人とはシルヴィアのことだったのか……」とボソボソ呟きつつ、説明し始めた。
「実はね……」