第三話 コミュ障は慢心する
前回までのあらすじ!
役得。
どれだけ見つめ合っていただろうか。少女は何も語らず、ただ怯えた視線を十代もまだ前半と思しき少年――リンドウ・マグダウェルに向けている。
リンドウは思った。
気まずいから、とりあえずここから逃げよう、と。
リンドウが片手を軽く挙げた。十代中盤と思しき少女の全身が、ビクっと震える。むろん、ただの挨拶である。
「あ、じゃ、じゃ……」
それだけを告げて、少女に背中を向けた。そのまま歩き出す。最初はゆっくりと、次第に速く。
ところが、だ。
ざっ、ざっ、ざっ。
とて、とて、とて。
足音がついてくる。肩越しに軽く振り返ると、何を思ったか少女がついてきていた。振り返ると視線を逸らされる。
また少し歩く。ついてくる。振り返る。視線を逸らされる。
なんでっ!? なんでついてくんのっ!? ボクなんかについてきたって、お互いに気まずいだけだろ!? あれか!? おっぱい触っちゃったから怒ってるの!?
気づかぬふりをして小走りになる。
背後から聞こえる足音のテンポが上がった。
次の瞬間には全力疾走。
背後からの足音がさらに力強く、そして速く。
【待ってっ! お願い、こんなところに置いてかないでっ! 捕虜になるからぁぁっ!!】
なんでだよっ!? 捕虜なんてすんごい迷惑だよ! ……く、仕方ない。
リンドウは舌を出す。
この『万能言語』というチート能力は、実のところ翻訳のみに特化したものではない。言語が通じ、且つ、リンドウの生命力以下の生物に対してのみ、強烈な暗示をかけることができる。それは他者のみならず、自身とて例外ではない。
ゆえに。
――肉体強化。
リンドウが河原を蹴った。
丸い石が爆破されたかのように飛び散った直後、少年の姿がその場から消失する。
巨大猪から逃げる際にも使用していたのだけれど、あの怪物はリンドウ少年の想像できる範囲を超えて、強大な力を持っていた。当然暗示にはかからないし、自身に暗示をかけて逃走速度を増しても、まったく振り切れる様子もなかった。
いったいあの怪物は何だったのか……。
超速で疾走し、せせらぎから頭を出す岩を蹴ってさらに舞い上がる。飛び石のように踏み、再び河原へと戻り、さらに速度を増す。
風を切る。
ぐん、と視界の端で景色が流れた。
樹木の枝をつかんで両足を振り上げ、谷の岩壁を蹴り、逆側の岩壁に両足で着地、また蹴って元の岩壁を蹴り、それを繰り返しながらリンドウはついに崖上まで上り詰めた。
そこでようやく足を止め、荒い呼吸を整えるために両手を膝につく。
「はぁ、はぁ、ふぅ~……。こ、ここまでくれば……」
完全に撒いたはずだ。
いくら人間族よりも肉体性能や魔力に優れているとはいえ、翼を持たない魔人種では追いすがることもできないはず。
【ねえ、お願いだから待ってってばぁ~……】
「!?」
リンドウがビクンと肩を震わせた。
恐る恐る振り返ると、先ほどの美少女魔人が、やはり荒い息を整えながら、木の幹に手をついている。
目玉が飛び出るくらい驚いた。
何でいんのぉぉぉ~~ッ!?
【はぁ、はぁ、ふぅ。人間さん、あなた、小さくて可愛いのに、めちゃくちゃ速いわね……】
いや、可愛いとか。こう見えても、ボクはもう中身おっさんだから。などとウィンクでもしながら小粋に返せたならば、どれほどよかっただろうか。
実際は何も言い返せずに、照れるのみ。
「う……う……あうあう……」
【さっきは河から引きあげてくれてありがとう。あんなふうに助けられたことはなかったから、嬉しかった。もしかして、崖から落ちたときも庇ってくれた? 何だか落下中に君が手を伸ばしてくれていたような気がするのよね】
それはそうだが、そもそも彼女を崖から突き落としてしまったのも自分である。礼を言われるのは筋違いだ。なのに少女は屈託のない笑みをリンドウへと向ける。
「……」
リンドウはただただ赤面するしかない。
いや、そのようなことよりもだ。
振り切るつもりで全力で走ったし、崖の高さは前世の単位でおよそ六十メートルほどはあったはずだ。魔族の魔人種であることを差し引いても、この少女、ちょっと考えられない身体能力をしている。
走っているうちに気が少し紛れたのか、少女は幾分落ち着きを取り戻して見えた。もじもじと、プラチナブロンドの横髪を指先に巻き付けながら。
【あ、あの、人間……さん。わたしの言葉、わかんない……よね……】
「や……え……」
わかる。『万能言語』のおかげで。
けれども、魔族と人間族の使用する言語は別種だ。普通に考えれば、通じていないように思われても仕方がない。
何せ崖から突き落として以降、リンドウは少女に対して、一度たりともまともな会話ができていないのだから。
少女が細い肩を落とす。
【……だよね~……。とりあえず、お互い服を乾かさない? えっと、わかる? あ~、そだっ。わかるかな?】
今度は自らのドレスの胸に右手をあてた。
【わたし】
「……」
リンドウは無言でうなずくと、少女もまた、嬉しそうにうなずいた。
彼女のポーズが変化する。
【わたしが、こうやって、ぼわわって火を熾すから、こう、一緒に暖まろ?】
言葉が句切られるたびにフリフリ変わるジェスチャーが妙に可愛い。もちろんジェスチャーなどいらないのだけれど、可愛いから見ていたい。
少女が古びて乾いた倒木の一つを指さすと、一瞬にして無数の亀裂が走った。直後、一本だった倒木が十数分割されて、薪へと変化した。
「~~っ!?」
魔法だ。それも無詠唱の風属性。
魔族は生まれつき一人につき一つ、己の属性というものを持っている。その属性の魔法に関してのみ言えば、彼らは詠唱を必要としない。複数属性を使う魔族もいるが、生まれもっての属性以外は術式の理解と詠唱が必要となる。
実のところ、人間の魔術師と呼ばれる人々は、この術式理解で魔族の真似事をしているだけだ。
どうやらこの少女は風属性の魔族らしい。
かなり手強い部類だ。風属性は不可視であることから、戦闘、特に暗殺などに向いているとアリステン領の魔術師アカデミーでは教えられている。
彼女は作った薪を足でかいて適当に集めると、また指先を向ける。今度はチリっと火花が散ったと思った瞬間にはもう、炎が宿っていた。
「……!?」
またしても無詠唱。しかも火だ。最も破壊力を秘めた属性。
だがしかし、驚くべきところはそこではない。使用属性が二種類、つまり複数属性持ちという部分だ。
そんな魔族がいるなどと、聞いたこともない。態度からは想像もつかなかったけれど、どうやらこの少女はかなり高位の魔族のようだ。
とはいえ他人。それも女性。
コミュ障であるリンドウにとっては、その認識でしかない。ただただ気まずい。ここからすぐにでも逃げたい。
【座って?】
「……」
【あ、言葉通じないんだったっけ。あなたがとてもすごい身体能力をしていたから、つい魔族扱いしちゃったわ。……人間さんの子供だもんね】
「あ……あ……」
少年は思った。
何度でも言おう。ただし、心の中でのみ。
すみません……すべて通じているのです……、と。
あと、子供の姿をしているけれど、実際には子供ではない。前世の記憶を引き継いでいる以上、己の精神年齢はもはやおっさんである。もっとも、まともには成長できていない類のだけれど。
少女がリンドウの足下を指さした。
リンドウは仕方なく膝を折って腰を下ろす。もう逃げられない。逃げても追いつかれるし、何より濡れて冷え切った身体に、少女の熾した焚き火は正直ありがたい。
まあ、言葉が通じないと思ってくれている以上は喋らなくても済みそうだし、これはこれでいいのかと思い直す。
それに、火の向こう側に腰を下ろしている少女を見ていると、何だか妙に落ち着くのだ。
こんなふうに他人と過ごした記憶は、前世から思い返したって一度もない。焚き火を囲むなど、まるでキャンプファイヤーのようではないか。夏の夜に友人とやるような。
そう、すなわちこの美少女が、まるでボクの友人のようではないか!
友人。その響きが嬉しくて、思わずニヤけてしまう。
【どしたの?】
「う……う……」
けれども、時々考えることがある。
もしも人間や魔族に言語なるコミュニケーション手段が存在していなかったとしたら、自分はきっと、こんなにも孤独に悩むことはなかったはずなのに、と。喋れないなら、いっそ言語を持たない動物のようにありたかった。
誰かと話すのは苦手だ。
だけど誰かとともにいるのは、嫌いではない。苦手だけれど、決して嫌いではないのだ。だがゆえに憧れ、そして手に入れられずに生きてきた。自身にとって最も欲しかったものこそが、自身にとって最も恐ろしいものであったことで苦しんだ。
そんな人生は、もう嫌だ……。
恐る恐る引き攣った顔で微笑むと、少女もまた、若干堅いながらも微笑み返してくれた。
惜しむらくは何か温かいものでも腹に入れたいところだけれど、あいにくと手持ちは何もない。
禁忌の森のざわめきが聞こえる。
パチパチと、炎の爆ぜる音が心地いい。
いい雰囲気だ。
いつの間にか周囲には夜の帷が降り始めていた。
ふと見上げると、視線が合う。
夕焼け色だった瞳が、炎を映してさらに赤くなっている。少女が少し困ったような表情をして口を開いた。
【どうせ通じていなさそうだから君には言っちゃうけど、わたしね、実は君たちの領地を奪いにやってきた魔族の王サマなんだ……】
…………ん? なんて?
でしょうね!




