第二話 コミュ障は帰りたい
前回までのあらすじ!
大胆にも美少女をさらって高飛びだ!
谷底の水面に叩きつけられる寸前になって、少年は我に返った。
「く、ぅ、間に合え……ッ」
気絶した少女の身体を抱き寄せ、己が身を挺して彼女と地面の間に置いて歯を食いしばる。その瞬間はすぐにやってきた。
凄まじい衝撃を背中に受けて水飛沫が間欠泉のように噴き上がった瞬間に、腕の中から少女は吹っ飛んでいってしまった。
……実は、そこから先の記憶はない……。
下半身を流れるせせらぎに浸し、上半身のみ、無意識に岸辺に這い上がったような格好で、少年は目を覚ましていた。
「はっ!?」
両腕を突っ張って視線を走らせる。岸辺に少女の姿はない。
流されちゃった!?
せせらぎに視線を向けると、プラチナブロンドの髪の少女が、川の中央あたりの石に引っかかって水草のように揺れていた。うつ伏せである。
「うわああああっ!! し、死ん――!?」
大急ぎで駆け寄り、水中に手を入れて少女の脇を持ち上げる。そのまま岸辺まで運び、彼女を岸辺に寝かせた。
とても美しい少女だった。
プラチナブロンドの髪に、陶器のような白い肌。年齢は少年より上の、ミドルティーンといったところだろうか。
白を基調としたドレスには繊細な黒のレースがあしらわれているし、スカートの形状もこの世界では珍しいティアードだ。
懐かしい服装に、前世を思い出してしまう。日本での生活など、もう二度と思い出したくもなかったというのに。
そう、この少年リンドウ・マグダウェルは、かつての世界では神村竜胆という名をしていた三十路男の転生体なのである。
とはいえ、いまはそれどころではなく。
リンドウは恐る恐る少女の肩に手を置いて、軽く揺らした。
「あ、あの、もしもし? もしもし? い、い、生きてますかぁ~?」
冷たい感触に、ゾッとした。
手首に指を当てて混乱する。脈がない。
「殺っ、殺ってしまっ……!?」
喉を挟み込むように掌を広げて指を置く。やはり脈はない。ついでに呼吸もない。
泣きそうだ。
「……ど、どど、どうしよう!?」
あれからどれだけ経った!? まだ蘇生は間に合う!?
たしか、傷病者の左側に座って、左右の乳頭を結ぶ線の真ん中に掌を当て、もう片方の手を重ね、腕をまっすぐに保ったまま圧迫する……? 合ってる? 合ってるよな?
少女の左隣に両膝を立てて、左手を伸ばしかけて止まる。
大きくはないが、小さくもない。形や良し。
「ち、違うからね? 決してやましいあれじゃなくて…………ってあああああっ! バカもうバカ、やるしかないんだってぇ! 他の誰かを殺して生きるくらいなら、いっそ社会的に死んだ方がマシだろ!」
果たしてそうだろうか、などと浮かぶ冷静な思考を頭の片隅に追いやって、意を決して柔らかな膨らみの上に掌を這わせる。
まずは正確な位置の確認をしなければならない。
「うう……ごめんね……」
罪悪感に呵まれ、赤面しつつも、先端部から掌を滑らせて位置を定める。
「こ、ここかな……?」
両手を重ねて腕を伸ばし、力いっぱい押した。
無我夢中、祈るような気持ちでひたすら心臓マッサージを続ける。
「頼むよ……!」
そうして、しばらく。
少女の全身が唐突にビクンと震えた。筋肉が動いた。
【う……】
「うわあっ!?」
リンドウが両手を挙げて尻餅をついた直後、たしかな呼吸音とともに少女の胸が大きく膨らんだ。息を吸ったのだ。けれども、途中で詰まって。
【くぅ……ぅう……けほっ、げぁ……】
水を吐いた。
い、い、生きてる? 生きてるよね!? よかった! いや、よかない……けど……。
やがて瞼が揺れ、ゆっくりと開かれた。
夕焼け色の瞳が、状況を確認するかのように前後左右に揺れてから、リンドウでぴたりと止められる。
瞬間、少女はリンドウを突き飛ばして跳ね起きた。
【ひ……っ、に、人間! やだ、やだやだ! 殺さないで!】
「あ」
背中から転がったリンドウが、何かに気づいたかのように目を見開く。
魔族だ。一見すれば人間としか思えないけれど、この娘は間違いなく魔族だ。
なぜならばいま、人間の言語を使わなかった。魔族の言葉でリンドウのことを「人間」と呼び、そして「殺さないで」と言ったのだから。
おそらくそれが理解できる人間族は、世界中でも『万能言語』を持つ自分一人しかいないのだろうけれど。けれどもたしかに魔族語であると認識できた。
脳が自動的に翻訳をしてしまう感じだ。ラグはコンマ以下もない。
この世界は、言語で種族が分けられている。
人間族も、亜人族も、魔族も、それぞれに使用する言語が違う。種族が違うから言語が異なるのか、言葉が異なるから種族が峻別されるのか……ともあれ、種族単位で混ざり合うことなく、さらには敵対し、領地を巡る戦争を繰り返しているのだ。
当然である。話し合いのできない世界での外交手段など、戦争でしかない。
自身とて日本での死後、極めてあやしい神からチート能力『万能言語』を授かっていなかったとしたら、この少女の言葉は何一つ理解できなかっただろう。そして異なる種族に恐怖を感じ、殺し合いか逃走を図らねばならなかった。
だが、そうはならない。『万能言語』を有するリンドウにだけは通じるのだから。
あの巨大猪とは違って、この少女――つまり魔族は、独自の言語を使用する種族なのだから。
だからリンドウは少女を安心させるようにゆっくりと立ち上がり、武器を持っていないことを示すために両手を広げ、穏やかに、しかし少しばかり引き攣れた微笑みを浮かべながら言った。
「【ふ、ふぁ、だ、だいじょ……あ、安し……】」
【ひぃ!?】
大胆不敵、ノーガードから繰り出された歪な笑みに、少女の腰が砕ける。
そう。少年――前世の名でいうところの神村竜胆は、絶望的なまでのコミュ障だった。
日本では友達一人作れぬままに小・中・高・大学まで卒業し、当然のように就職活動は一次面接で全滅した。筆記は満点にできても、面接が乗り越えられなかったのだ。
同世代から数年遅れで親族の会社にねじ込まれたあとも、三十という若さで病死するまで、黙々と一人で経理や人事といった会社中の事務作業をこなし続けた。
学生時代から勤勉且つ真面目であったがゆえに仕事は正確で早く、社内ではそれなりに重宝されたけれど、そのせいもあってアフターを同僚と過ごしたことは終ぞなかった。
恋人はおろか友人の一人も作れぬままに、彼の生涯は終わってしまったのだ。
その人生たるや、あまりに寂しく、そしてあまりに哀しく。
死後、同情した極めてあやしい神が「転生の際には好きなチート能力を一つくれてやるからメソメソするな」などと言い出す始末だった。
――おまえの望みはすべてを超越する神にも等しき大いなる力か? この世のすべてを謳歌してなお使い果たせぬほどの金か? それともぉ~、ムチムチプリンなボインちゃんたちがメロメロプーになる無限フェロモンか?
最後の提案だけ、なぜか大幅にレベルが下がった気がした。
そして竜胆は半泣きで望んだのだ。
――う、ぐす。も、嫌だ、こんな人生。う、ぐすん、極めてあやしい神様、どうぞボクに、ぅ、誰とでも仲良くできるようになる、ぅぐ、そんなチート能力をぐだざい……。
――う~ん。かわいそう。
テケテケテケ、『万能言語ぉ~』♪
言語を有する種族でさえあれば、たとえ人間が相手でなくとも、会話が通じるようになる能力らしい。それが竜族だろうが魔族だろうが、他の大陸からやってきた外国人や、あるいはもはや会うこともないであろう滅亡した時代の古代人であってもだ。
そして、同じ失敗を繰り返さぬように教訓とするため、あえて日本でのつらい記憶をも残してもらった。
竜胆は歓喜した。これらがあれば、来世では誰とでも仲良くなれると思った。
だが、そのすべてが失敗の始まりだった……。
チート能力『万能言語』には、使い道がなかった。
人間族の中で暮らしていれば、魔族や亜種族と交わることがない。犬や猫はどうか。鳥は。魔物は。
なかった。
彼らは言語を有してなどいないのだ。
考えてみれば当然である。ワンだのニャアだのの短い鳴き声の中に、どれほどの意味が込められようか。機嫌や感情が存在しているのに言語がないのは、生まれたての赤ん坊と同じだ。
会話の成立は不可能――!
そして彼は転生後も、家族以外の誰とも関わることなく生きてきた。いや、この付近一帯の領主である家族とだって、ろくに話せなかった。前世の記憶を引き継いでしまったせいで性格が変わることもなく、結局はコミュ障のままで。
こんなことなら、前世の記憶など転生の際に綺麗さっぱりリセットしてもらった方が幸せだと思った。
そんな折だ。北方ガリアベル魔王国の魔王軍が侵攻を開始したとの急報が、領地を守る兵から入ったのは。
どうせこの先も孤独な人生。
いっそ領主の三男らしく、領地を守るために腹マイトでもして魔王を爆殺し、そして来世こそ極めてあやしい神にコミュ障を治してもらえるよう嘆願すべく旅立ったところを、巨大猪に襲われて逃げ回っていたというわけである。
「……」
【……】
気まずい。
「……」
【……】
すごく気まずい。
「……」
【……や、やだぁ……見ないでぇ……】
少女は濡れそぼった自身を寒そうに両手で抱えて、怯えるように後ずさる。リンドウが慌てたように手を伸ばした。
「あ、あ……」
【ひ……!】
逆効果だった。
何か言おうとすると、すぐに怯えられる。いや、コミュ障だから、気の利いたことなんて到底言えないけれど。
ましてやこんな美少女が相手となれば、敷居が天まで届いている。自身の緊張感も爆上げだ。足など震えてしまっている。
しかしあれだ。おそらくこの少女は領地に攻め込んできた魔族の一人だとは思うのだけれども、いざ戦おうとしても言葉が通じてしまうと極めてやりづらい。そこまではさすがに想像できていなかった。
だが、目標はあくまでも魔王本人。
こんなコミュ障一人に怯えて泣きそうになっているような、ちょっとばかり気の毒な少女魔族では断じてない。
「……」
【……】
目が超高速で泳ぎまくっている。お互いに。
「……」
【……】
あっちから何か喋ってくれたらいいのに。
「……」
【……】
いつまで続くの、この沈黙。いい加減にしてほしい。
「……」
【……】
虚しく、谷を駆ける夜風だけが流れていく。
リンドウ少年は思った。
気まずい……。
そのチート能力は、コンニャクのような形をしていたという。