第十五話 コミュ障は黙して語らず
前回までのあらすじ!
こっわ……。
腐敗臭が強くなる。
隣国エルグリアからの使者、不死種ライデン伯爵が激高するほどにだ。
ライデンは憎しみに満ちた瞳で、玉座のリンドウを睨みつけた。ただの魔族であれば、あるいは少々の力持つ魔族であっても、爵位持ちの上位魔族たるライデンの殺気を叩きつけられれば、多少なりと警戒なり狼狽なりを見せるだろう。
ところが、どうだ、この少年は。小国ガリアベルの新たなる魔王リンドウ・マグダウェルは。
「……」
彼の者、黙して語らず――。
泰然と玉座に座ったまま、嗤っていた。口角を上げて、瞳を細めて、まるで喜劇の観劇でもしているかのように、一連の流れをただ眺めていた。
メリエとかいう小間使いを傷つけたときも反応を示さなかったし、フラワリィと一触即発の状況に陥っても、眉一つ動かさない。
冷徹。人間族はすぐに情にほだされると聞き及んでいたが、あまりに冷徹。
リンドウは動かない。片肘を玉座の肘起きに置いて、その上に頬をのせた気怠げな体勢すら崩すことなく。
【……ぐ……っ】
ライデンがどれだけの殺気と魔力を叩きつけ、挑発しようとも、人間の、それも幼き少年に過ぎぬはずの魔王は、ただ嗤って見ていた。それも嘲るようにだ。
ここにきてライデンの胸中に、初めて微かな不安がよぎった。
先代、つまり魔王リンドウの隣に立つ先代魔王フラワリィ・フォスターは、敵ながら天晴れな女だった。戦時にはいつも先頭に立ち、並み居る魔族は無論のこと、爵位持ちの魔族を何体も斃してきた。
実は精神は惰弱であるという密偵からの報告もあったようだが、戦場にて彼女とまみえた者たちはそのような報告を一笑に付すどころか、怒りすら露わに否定した。彼女の白のドレスは、戦いが終わる頃にはいつも臓物色に変色しているからだ。
戦場での遭遇は、すなわち死期の訪れである――……。
自身とて、大国エルグリアの後ろ盾がなければ、こうして単身ここへ乗り込んでくることなどできようはずもない。
この女の力は、己をも遙かに凌駕している。
それが証拠に、先ほど使用人メリエの肉体に仕込んだ腐蝕魔法は、フラワリィの魔力によってあっさりと追い出されてしまった。
にもかかわらず、己がいまこの瞬間にもくびり殺されないのは、フラワリィが己ではなく、大国エルグリアとの開戦を恐れているからだ。
然もありなん。
なぜならばフラワリィ自身は凄まじき戦闘力を持ち合わせていようとも、彼女の抱えるガリアベル魔王国の戦力は、エルグリア魔王国の戦力に遠く及ばない。ゆえに、己が彼女より格下であっても、多少の無礼や挑発は見逃さざるを得ないのだ。
強く、気高く、美しく。
若き魔王フラワリィ・フォスターは、彼女と敵対する者にとってすら戦場に降臨した戦女神のような存在だった。
初めて戦場で相対したとき、精神的敗北を喫した。そして、己は魔王フラワリィに憧憬を抱いた。これが彼女から受けた一度目の衝撃だった。
ところが、だ。
ところが先日、それほどの魔王フラワリィ・フォスターが、魔王位を人間の、それも子供ごときに譲ったと密偵からの報告があった。
戦い、そして敗北し、矜持を守るための死すらも許されず、あまつさえ側室だか奴隷だかにされてしまったのだとか。
あの戦女神がだ!
二度目の衝撃は、一度目の衝撃よりもずっと大きかった。
人間族といえば、触れるだけで死んでしまうほどに脆く、か弱い。魔族魔法の真似事である魔術とやらを使う個体もいるが、所詮魔術など魔法の劣化に過ぎない。
肉体の弱さ脆さを補うために鋼鉄に身を包んで武装しても、増加した重量分、動きが鈍る。あれでは魔法の歩く的だ。馬にでも乗っていなければ何もできやしない。
無論のこと、英雄王や勇者と呼ばれるリーシュ王のような個体もいるにはいるが、そんなものは数百年に一体、出てくるか出てこないかといったところだ。どうせ放っておけば数十年で息絶える。
人間族の長所など、年中持て余している性欲による繁殖力に任せただけの、稚拙な人海戦術だけである。敵としては下の下。数の少ないエルフやドワーフといった亜人族の方が、精霊魔法や頑強な肉体を持つ分、よほど手強い。
そんな人間族の、それも国家ではなくただの個人に、フラワリィが魔王位を奪われた。その上で生き恥をさらされ、戦女神としての気高さまで奪い取られた。
純潔のフラワリィ・フォスターは、醜く弱い人間族に穢されてしまったのだ。それこそが、彼女から受けた二度目の衝撃そのものだった。
彼女は孤高でなければならない!
誰にも従ってはならない!
敗北など許されない!
それがたとえ己であろうとも、あまつさえ我が主エルグリア魔王であったとしても、彼女を従えることなどあってはならない!
フラワリィ・フォスターは、唯一無二の戦女神でなければならないのだ!
それは、魔族伯爵ライデンが抱え込んだ、病的なまでの思慕の情だった。もはや恋慕や狂信とまで言い換えても支障がないほどの、彼女に対する強烈な思いだった。
だからライデンは大国エルグリアからの使者として身の安全を確保した上で、どのような人物であるかを見にきたのだ。
“万に一つ、ランドール王国のリーシュ王のような個体であったならば、エルグリア魔王国にとって大きな脅威になりましょう”と、エルグリアの魔王にそう進言してまで。
それが、こんな――……。
見るからに無力な子供。武器も鎧も見当たらない上に、魔力など欠片の存在も感じられない。あれでは魔法どころか魔術すら使えないだろう。
怒りが湧いた。殺意が湧いた。
敵でありながらも敬意を払うべき相手だったフラワリィが、まさかこのような虫けら同然、いや、虫けら以下の生ゴミに穢されてしまったとは。
許せん……ッ! 貴様はいったいフラワリィに何をした……ッ!?
ならばいっそのこと。
魔王を殺せば、殺した者が魔王となる。それが魔族の、唯一国家をも越える共通の掟だ。敵であっても味方であっても変わりない。
殺そう。この魔王モドキを。そして己がガリアベルの魔王となろう。
しかるのち、フラワリィを人間の呪縛より解放するのだ。そして彼女は再び孤高の戦女神となり、どこかの戦場へと降り立つ。自身はその美しき姿を眼に焼き付けたい。たとえその拳で煉獄へと沈められようともだ。
膝を微かに沈めて、腐蝕魔法の魔力を充填した右手を持ち上げる。掌がジュワジュワと醜く泡立ち、腐敗臭がさらに高まる。
フラウが叫んだ。
【ライデン、貴様、何をするつもりだッ!】
【……】
だが、聞こえない。
怒れるライデンにはもはや、フラウの声は届いてなどいなかった。
本来であれば迂闊な行為。そう呼ぶ他ない。
フラウの力ならば、隙だらけのライデンを殺すことができたのだから。いくら大国からの使者であったとしても、王に無礼を働けば正当な処罰の対象とすることくらいはできる。
だがこの瞬間、ライデンはすべての神経を、フラウではなくリンドウに集中させていた。
そんな己の怒りや殺意を知ってか知らずか、魔王リンドウは張り付けたような笑みで、己を嘲ってくる。
なぜだ。貴様は見たはずだ。使用人のキュバスが殺されかけたところを。俺の腐蝕の魔法をその目にしたはずだ。
なぜ驚かない! なぜ恐れない! 何の力もない人間の子風情が!
なぜ、なぜ、なぜ! なぜその無力な矮躯で、この俺を、魔族伯爵ライデンを嘲り嗤えるッ!?
つぅと、ライデンの青白い顔に汗が伝った。腐った瞼が痙攣する。
【お……そ……恐れ……ろ……。――俺を恐れろッ、人間ッ!!】
裏返った声で叫ぶ。
リンドウの態度に変化はない。ただ嗤う。ニヤニヤと。
ライデンが地を蹴った。ライデンの右手がリンドウの顔をつかむ直前、フラウがライデンの右腕をつかんでいた。
【ライデ――ッ!? ……え、リンドウ……?】
瞬間、時間が止まった。
ライデンはもちろん、フラウもまた、目を見開いてリンドウを凝視していた。
腐蝕の手が鼻先に触れるほどの距離にあってリンドウは、未だ嘲っていた。未だ瞼を下ろしてすらいなかった。
――おもしろい、やってみろ。
そう言わんばかりに避けようとも防ごうともせず、やはり眉一つ動かさず、玉座の肘置きにもたれた体勢のまま嘲り嗤っていたのだ。
ライデンは全身の毛穴が開く感覚を味わった。布を絞ったかのように、全身から一斉に汗が滴った。
気づけば肩で荒い息をしていた。戦場で初めてフラワリィ・フォスターと相対した、あの瞬間のようにだ。
フラウが、ライデンの腕から手を放した。
同時にライデンが膝から崩れ落ちる。
この得体の知れない人間の子に――。
【……バカな……恐れを抱いてしまったのは……俺の方なのか……】
リンドウが鼻を一つならした。取るに足らぬ小物に対し、そうするように。
そうして遙か頭上から睨めつけながら、微かに唇を開く。
「【帰れ】」
しばらくしてライデンは無言で立ち上がると、やってきたときと同じようにフラフラと揺れる足取りで謁見の間を立ち去っていった。
黙っているのだけは得意ですっ!




