第一話 コミュ障、崖ドンする
後ろ向きに前向きな人生たるや。
「くるなっ、くるなってばぁぁぁ!」
幼い少年は走り続ける。
朽ちた倒木に小さな両手をつきながら乗り越えて、大地に張り出した大木の根に蹴躓き、苔生した岩に足を取られながら。
「あああああっ、頼むからこないでぇぇぇ!」
特筆すべきはその速度だ。体勢を崩しながらも、およそ平地を駆ける馬であってすら追いつけぬと思われる速度で、彼は森を疾走していた。
ただし、半泣きで。
年の頃は十代前半。上品に切りそろえられた黒色の短髪に同じ色の瞳、服装は一般階級ではまずお目にかかれない勇ましきサーコートでありながらも、急ぎ飛び出してきたのか、下半身はブリーチズだ。おまけに武器は手にしていない。
しかし一目で貴族の出であるとわかる。すでに泥だらけではあっても。
その背後から地響きが迫る――!
森の木々を避けながら逃げる小柄な少年に対し、地響きのヌシはただひたすらまっすぐに、その巨体で以て大木をも正面から薙ぎ倒す。半泣きで走る彼の小さな背中へと向かって。
常人を遙かに上回る速度で駆ける少年であってすら、かなり分が悪い。
汚れた茶褐色と灰色の怪物である。
反り上がった鼻はオークのように平べったく、その左右からは少年の全身ほどもある剣呑な牙が生えている。
猪、といってしまうには、あまりに巨大。その背は大樹の枝よりも高く、全長を視界に入れればまるで丘だ。
そんなものが迫ってくる。
いくら少年の足が人並み外れて速くとも、いかんともしがたい歩幅の差だ。
禁忌の森。
人間族と、それに敵対する魔族との緩衝地帯。多くの危険な魔物らが潜み、狩人でさえ足を踏み入れることはない。
ここに踏み入る者は重罪を犯した犯罪者か、あるいはこの少年のような、特異な事情を持つ者のみだ。もっとも、その大半は帰らぬ人となる。ゆえに禁忌なのだ。
――ゴアアアアァァァァァーーーーーーーーーーーーッ!!
咆哮、轟く。空間を激しく震わせ、無数の木の葉を吹っ飛ばして。
だが、立ち竦んでいる暇はない。
「わあああぁぁぁぁっ!!」
また一本、怪物が大木を真正面からへし折った。幹に牙を突き刺して首を大きく反り上げ、前方をチョコマカ逃げている少年にぶん投げる。
「ちょ、ちょちょちょちょっ――へあぁぁぁぁ!?」
間一髪、大木の影に呑まれた少年は、両手両足を伸ばして跳躍する。シダ植物に覆われた大地を転がって倒れ、降ってくる大木から逃れた。
わずかにずれた場所に落ちた大木が、大地を激しく揺らす。
「痛ったたた……おあっ!?」
起き上がって振り返り、変わらず追ってくる巨体に気づいてすぐさま走り出した。
少年は知らない。己を追ってきている怪物が、いったい何であるのかを。
――ゴアアアアァァァァァーーーーーーーーーーーーッ!!
「ひいぃぃぃぃ!」
けれども、ただ一つだけわかることがある。
あの巨大な猪は、言葉を持たぬ種族であるということだ。つまり、森の動物でないのであれば、危険な魔物である。
でなければ、少年の心からの叫びは猪に通じているはずなのだ。
少年と同じくする人間族であろうが、似て非なる言語を持つ亜人族であろうが、あるいはまるで別種の言語を使用する竜族・魔族であったとしても、言語を持つ種族でさえある限り、彼の言葉は何者に対しても通じるはずなのだ。
たとえそれが学んだことのない別大陸の知らぬ民族の言語だとしても、あるいは太古に滅んだはずの古の言語であったとしても、彼の言葉は通じ、そして聞き取ることもできる。
何せこの少年は転生の際、極めてあやしげな神を名乗る生物より、『万能言語』なるチート能力を授かったのだから。
が、通じない。そも、言語というものを持たぬ種族――つまり動物や魔物類には、まるで無力なのだ。
極めてあやしげな神よ、ならば一体これは何のための転生チートだったのか。
心の中で毒づく。
――ゴフゥゥーーーッ、ゴフゥゥーーーッ!
鼻息が近い。
いまにも追いつかんとする巨大猪の舌が、少年の臀部を舐め上げる。
「うあっ、ひ、あああああぁぁぁぁ!」
直後、猪の大口が開き、上下の歯がガチンと打ち鳴らされた。またしても間一髪、掘り出された芋のように身を反らせて逃れ、そして走る。
陽の光が輝く、森の出口を目指して。
「も、もう少しだ……!」
領域さえ出れば。強い魔物には領域が存在する。すなわち縄張りだ。
おそらくこの巨大猪も、縄張りさえ出てしまえば追ってはこない。仮に縄張りを持たない魔物だったとしても、この先は深い谷だ。自身が向こう岸に飛び移ることができれば、猪はあの巨体。きっと重力に引かれて真っ逆さまだ――と思いたい。
あと三歩――!
生臭い息が細い首筋にかかる。
二歩――!
視界の左右に二本の牙が映った。
一歩――!
「ぬっはああぁぁぁぁぁいっ!!」
またしても身を反らせて跳躍する。
さっきよりもずっと近い距離で、再び猪の口が閉ざされた。だが、逃れた。
「――ッ!!」
森の境界線だ。無数の木の葉とともに草むらから飛び出しながら、少年は肩越しに振り返った。
どうだ……!? 逃げ切れたか……!?
しかし淡い期待に反して、猪は森を飛び出しても追ってきていた。
――ゴアアアアァァァァァーーーーーーーーーーーーッ!!
「あ~~も~~~っ!」
ならば崖を跳び越えて、向こう岸に逃れるまでだ。
少年は視線を上げる。そして気づいた。
「――っ!?」
眼前には空と崖がある。ここまではいい。ここまでは予想通りである。
が、その手前には、十代半ばと思しき美少女がいたのだ。
少女はなぜか崖の先端に立ち、格好をつけるかのように両腕を組んで岩に片足をかけていた。プラチナブロンドの長い髪が、谷向こうのロック平原から吹き付ける強風でなびいている。
【よかろう。ならば、これより我ら魔王軍は禁忌の森を抜け、人間族の領地へと侵攻を開始する。後れを取るなよ、貴様ら】
【承知いたしました】
【御意】
左右には片足を地面について傅く、少女に従わんとする魔族が二体。いずれも人間に近しい格好こそしてはいるものの、頭部から角を生やしている。高位魔族の魔人種だ。
二体の魔人の視線が、一瞬で跳ね上げられる。
【む! 何者ッ!?】
【――ッ】
巨大な猪の怪物を連れ立ち、突如として森から勢いよく木の葉や木枝とともに飛び出してきた小さな少年を、美少女と魔人たちが同時に振り返った瞬間。
【え?】
「どいてえええぇぇぇぇぇ!」
視線が交わる。
闇色をした少年の瞳と、夕焼け色の少女の瞳が。
この瞬間、運命が交叉した。
と思ったのも束の間。
全力疾走の少年は止まることもままならず、ほとんど減速もできないまま、振り向いた彼女の柔らかな胸に飛び込んで、壁ドンならぬ崖ドンをぶちかましていた。
【――なっ、ぁぐっ!?】
「ああああ!? ごごごごめんなさぁぁぁ~~~~~~~~――」
交通事故にも劣らぬ衝撃に、少女の意識が刈り取られる。
勢い止まらず崖際の彼女を空へとかっ攫って、二人はともに遙かなる崖下へと転落していく。ものすごいスピードで。
「――いいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ……………………」
悲鳴だけが、崖下から響く。
直後、少年を猛スピードで追っていた丘のような巨体を持つ猪もまた、その勢いを殺しきれず、谷の直上、虚空で四肢を激しく空転させた後、向こう岸の崖に頭からズドンと突き刺さった。
仕えるべき主を崖下へと少年にかっ攫われてしまった二体の魔人は、向かいの崖にめり込んで下半身を痙攣させている巨大猪を見て、ただただ呆然としていた。
壁ドンだったらよかったのにね。