村の崩壊
TONKATSUの衣が――じわっと薄くなった。
層になっていたはずの膜が、紙に水を垂らしたみたいに滲んでいく。
パリパリと鳴っていた衣の気配が、急に静かになった。
ピッ………………
耳の奥で一回だけ音が鳴って、次が来ない。
(やばい)
俺は反射で息を吸った。吸えない。薄い空気が肺の中で滑るだけで、胸が満ちない。
指の中のレシートは、まだ温かい。焦げる一歩手前の匂いがする。
でも、その匂いすら――この村では薄い。
吸われる。
リヴの言った通りだ。
「ロース!」
ガルムの声が遠くから聞こえる。
遠いのに、耳元みたいに刺さる。薄い空気のせいで音の距離感が狂っている。
「下がれ! 隊、円陣!」
護衛たちが動く。槍が立つ。剣が抜かれる。
だけど、動きが鈍い。
みんなの輪郭が、ほんの少し滲んで見える。
薄さは俺だけじゃない。この場にいる全員を舐めてる。
広場の真ん中に立つ影のない子供は、動かない。
動かないのに、圧だけが増えていく。
まるで、そこに穴があって、世界が吸い込まれてるみたいに。
リヴが俺の袖をつかもうとして、指が空を滑った。
掴めない。力がない。
「……こうた」
声が、小さい。
今までで一番小さい。
「リヴ!」
俺は叫んだ。叫んだつもりだった。
でも自分の声が、自分の耳に届くまでに時間がかかった。
(やばい、やばい、やばい)
俺は必死にポケットを探った。
油の小瓶。干し魚。揚げ菓子。全部あるのに――全部、匂いが薄い。
口に入れた干し魚は、ただの硬い物体だった。塩気が届かない。
油を舌に垂らしても、水みたいに滑るだけ。
ピッ………………
音が一回鳴って、間が伸びる。
(味が、意味を失ってる)
つまり――この場所では、俺の燃料が燃えない。
俺はレシートを握り潰した。
熱を上げる。焦げ匂いを増やす。匂いを作る。
「トンカ――」
言いかけて、喉が詰まった。
TONKATSUを使えば、衣は一瞬だけ戻る。
でもここでは削られる。
そして削られるのは――俺だけじゃなく、リヴもだ。
(それでも、今――)
影のない子供が、ゆっくり首を傾けた。
顔がないはずなのに、確かに“覗き込む”気配がある。
覗かれた瞬間、背骨が冷たくなった。
護衛の一人が耐えきれずに叫んだ。
「何だよお前! 答えろ!」
槍が突き出される。
槍先は子供の輪郭に触れた――はずなのに、手応えがない。
槍が、空を突く。
次の瞬間、護衛の男の手が――ふっと軽くなった。
「……え?」
男が自分の手を見る。
指が、少しだけ透けている。
「う、うそだろ……」
恐怖が広がるより先に、男の腕がさらに薄くなる。袖の布も、鎧も、輪郭を失っていく。
「戻れ! 引け!」
ガルムが怒鳴る。
護衛たちが男を引っ張ろうとする。
でも、引っ張る力が――届かない。
掴んだはずの腕が、すり抜けそうになる。
「ロース様!」
役人が叫ぶのが聞こえた。いつもならうるさいのに、今はそれが助けを求める声にしか聞こえない。
「何とかしてくれ! 魔法で――」
(魔法?)
俺は歯を食いしばった。
俺の魔法は、守る代わりに味を消費する。ここでは味が燃えない。燃えないなら――別の燃やし方をするしかない。
商人の言葉が脳に刺さる。
――紙は燃える。燃えると匂いが出る。
――燃やす側になるな。
(でも、燃やさなきゃ死ぬ)
俺はレシートを見た。
トンカツの値段。店の名前。日付。
食う直前の、あの瞬間の証拠。
俺は決めた。
燃やす。
でも、炎にするんじゃない。
焦げる直前で止める。
俺は深く息を吸った。吸えない。でも、吸う。
腹の底に空気を押し込む。吐く。
手の中でレシートが――熱を持った。
じわっ、と。
紙の匂いが立つ。
焦げの手前。甘い紙の匂い。そこに、揚げ油の記憶が混ざる。
ジュワッ……。
小さく、音がした気がした。
「……トンカツ……!」
俺は吐いた。
薄い衣が、俺とリヴを包んだ。
でも今度は、広げない。
守る範囲を狭くする。
狭くして、密度を上げる。
衣の層が重なる。パリ、パリ。
薄くなる圧に、必死に抵抗する。
ピッ、ピッ……!
耳の奥の音が、なんとか戻る。
同時に、リヴが小さく息を吸った。
目の光が、ほんの少し戻る。
「……よし」
俺はすぐ、ガルムを見る。
「撤退!」
「分かってる!」
ガルムが叫ぶ。
「全隊、村を出る! 薄い場所から離れろ! ロースの結界から出るな!」
護衛たちが後退を始める。
だが、最初に薄くなった護衛の男が――間に合わない。
彼の腕は、もう半分透けている。
「助けて……」
声が、薄い。
俺は喉が裂けそうになった。
(やるしかない)
TONKATSUを拡げると削れる。
でも今、削れても――見捨てたら終わりだ。
俺は歯を食いしばって、衣を広げた。
パリパリ、と層が伸びる。
薄い空気に触れた瞬間、衣がじわっと滲む。吸われる。
胸の奥がスカスカになる。
ピッ………………
間が伸びる。
(やめろ!)
俺は叫びながら、レシートをさらに握り潰した。
熱を上げる。匂いを濃くする。焦げ手前の匂い。
ジュワッ……!
衣が、護衛の男を包んだ。
男の透けた腕の輪郭が、ほんの少し戻る。
「……戻った?」
戻った、というより――止まった。薄くなるのが止まっただけ。
(それでいい!)
ガルムが男を引っ張る。今度は掴める。
全員が必死に村の外へ走る。
影のない子供は追ってこない。
ただ、そこに立って、吸い続けている。
村そのものが、穴の縁みたいに見えた。
俺たちは村の外へ飛び出した。
境界を越えた瞬間――匂いが戻った。
土の匂い。草の匂い。汗の匂い。
そして、干し魚の塩味が、急に口の中に戻った。
ピッ、ピッ……
耳の奥の音が、戻る。
俺は膝をついた。胃が痙攣したみたいに縮む。
「ロース!」
ガルムが駆け寄る。
「大丈夫か!」
「……大丈夫じゃねぇ」
声が震えた。
TONKATSUで削った。明らかに削った。胸の奥が薄い。
そして――隣。
リヴが立っているのに、ふらついていた。
目の光が、また薄い。
俺は唇を噛んだ。
(やっぱり、削れるのは俺だけじゃない)
ガルムが叫ぶ。
「食わせろ! ロースに食わせろ! 油だ! 塩だ! 何でもいい!」
護衛が慌てて干し肉を差し出す。油の小瓶を差し出す。
俺はそれを掴んで、無理やり口に入れた。
塩。油。匂い。
喉が焼ける。でも、それが命の味。
ピッ、ピッ、ピッ……
音が詰まる。
胸の奥が少しだけ戻る。
俺はすぐ、リヴにも干し肉を小さくちぎって渡した。
「食え」
リヴは弱い指で受け取って、ちびっと噛んだ。
リヴの目に、ほんの少し光が戻る。
(……足りない)
俺は確信した。
このままTONKATSUを使えば使うほど、リヴが先に薄くなる。
だから――使わないで勝つ道が必要だ。
ガルムが息を整えながら言った。
「……今の村、東の村じゃない。さらに手前だ。東はもっと酷いって話だぞ」
「なら……東へ行けねぇ」
俺が呟くと、リヴが首を振った。
「行ける」
「どうやって」
リヴは、村の方向――薄い穴の方を見た。
その目が、さっきより少しだけ鋭い。
「……匂い」
「匂い?」
「うすいけど、一本だけ……切れてない」
俺は鼻を動かした。
確かに。
薄い空気の中に、糸みたいに――揚げ油の匂いが続いている。
村の外に出た今の方が、はっきり分かる。
匂いは、村の中で途切れなかった。
むしろ、村が吸ってる中心に向かって、一本だけ真っ直ぐ通っていた。
(匂いが……道になってる)
俺はその匂いの方向を見た。
森の奥。
さらに東。
薄い穴の向こう。
ガルムが俺の視線を追って、唸る。
「……行くのか」
俺は答える代わりに、ポケットからレシートの残りを取り出した。
さっき握り潰して、端が少し焦げている。
紙の角が丸くなって、指先に熱が残っている。
(燃やす側になるな、か)
俺は思った。
燃やす側にならない。
でも――燃やされる側にもならない。
俺は干し肉を噛んで、息を整えて、言った。
「行く。ただし――TONKATSUは最後の最後まで使わない」
ガルムが短く頷く。
「よし。斥候、匂いの方向を確認! 隊は距離を取って進め! 薄い場所に踏み込むな!」
護衛たちが動き出す。
俺はリヴの手を取った。冷たい。だけど、握り返してくる。
「リヴ、匂い、見えるか」
「……うん。見える」
「じゃあ頼む」
リヴは小さく頷いた。
「……道、教える」
その言葉の直後、背後で小さな音がした。
カン――。
鐘みたいな硬い音。
俺は振り返った。
村の境界の向こう、広場の真ん中に立つ影のない子供。
そいつが、手を叩いたみたいに見えた。
影がないのに、その動きだけがやけに鮮明だった。
そして――俺の耳の奥で、音が一回鳴った。
ピッ…………
まるで「次は逃がさない」と言われたみたいに。




