噂のTONKATSU
翌朝の王城は、妙に静かだった。
夜の騒ぎが嘘みたいに、廊下の足音が吸い込まれていく。石の壁って、静かになると怖い。
俺は窓の外を見た。城下は動いてる。人はいる。旗も揺れてる。
でも――空気が薄い。
昨日の路地で感じた無臭の冷たさが、まだ残っている気がした。
(東の村……)
俺は机の上の皿を見た。朝に用意された揚げパンみたいなやつと、塩っぽい肉の切れ端。
口に入れた瞬間、油の匂いが広がる。
ピッ、ピッ……
耳の奥の音が戻る。
それだけで、俺は安心してしまう。嫌な安心だ。味がないと死ぬって、頭で分かってるのに、体が条件反射で楽になる。
リヴはベッドの端に座って、まだ眠そうな目で俺を見ていた。
「……食べた?」
「食った。お前も食え」
俺が皿を差し出すと、リヴは小さく首を振った。
「こうたが先」
「いや、俺だけじゃ意味ない」
「……意味ある」
リヴがぽつりと言う。声が小さい。けど、いつもより硬い。
俺は皿を置いて、リヴの前に肉を小さくちぎって置いた。
「食え」
リヴは少し迷ってから、ちびっと口に入れた。
ピッ、ピッ……
音が詰まる。
リヴの瞳の奥に、ほんの少し光が戻る。
(やっぱりだ)
俺が眉を寄せると、リヴは視線をそらした。
「……つながってるって、言ったでしょ」
「理由言わねぇのも、言ったな」
「……最後に、わかる」
最後。
その言い方が、胃の底に石を落とす。
俺が余計なことを考える前に、扉が勢いよく開いた。
「ロース様!」
役人が飛び込んできた。顔が疲れてるのに、目だけが輝いてる。
後ろには衛兵が数人。
「今日、城下を通られると聞きまして! 市民が……その……」
「なんだよ」
役人が胸を張って言った。
「《TONKATSU》を見たいと!」
「は?」
脳が理解する前に声が出た。
「え……? トンカツ?」
「はい! 《TONKATSU》!」
役人が何か当然のことみたいに頷く。衛兵まで真剣な顔をしてる。
「昨夜から噂です! ロース様がトンカツの秘術で結界を張った、と!」
「誰が言った!」
「兵たちです! 結界が出た瞬間、揚げ油の匂いが走ったと!」
俺は反射でポケットに手を入れた。油染みナプキンの感触。
(あれか……俺がナプキン舐めたとき……?)
「そんなもん出してねぇ」
俺が吐き捨てると、役人は目を丸くした。
「では……無意識に!? 天啓……!」
「天啓じゃねぇ!」
俺が声を荒げると、リヴが袖をつまんだ。
「……外、行く?」
「行く。行かないと進まない」
俺は溜息をついて立ち上がった。役人が嬉しそうに道を空ける。
「さあ! ロース様! 市民が待っています!」
(最悪の盛り上がり方してるな)
---
城下は、祭りみたいになっていた。
屋台が増えてる。旗が増えてる。昨日より人が多い。
しかも俺を見つけると、一斉に声が上がる。
「ロース様ぁぁ!」
「《TONKATSU》を!」
「揚げてくれぇぇ!」
(揚げてくれって何だよ)
俺は眩暈がした。
護衛が必死に押し返す。
「近づくな! ロース様の神気に触れるな!」
(神気って言うな)
俺は鼻を動かした。揚げ油の匂いがいくつも混ざってる。
屋台の匂いはありがたい。ありがたいけど――この匂いに依存してる自分が気持ち悪い。
ピッ……ピッ……
音は安定してる。今は、まだ。
リヴは俺の半歩後ろを歩く。街の喧騒が怖いのか、少しだけ肩がすぼんでる。
「だいじょぶか」
俺が小声で聞くと、リヴは頷いた。
「……うるさいだけ」
「それだけならいい」
そのとき、群衆の奥から怒鳴り声がした。
「どけ! どけって言ってんだろ!」
人の輪が割れる。
鎧じゃない。粗い布の服を着た男が三人、ふらつくように出てきた。
顔色が悪い。目の焦点が合ってない。
なのに、笑ってる。
「ロース様だぁ? ふざけんな」
男の一人が俺を指差して、へらへら笑った。
「どうせ城が作ったハリボテだろ。戦に勝てるって? じゃあよ――俺らの村、返せよ」
周りがざわつく。役人が慌てて前に出る。
「無礼だ! ロース様に――」
「黙れ」
男が吐き捨てる。
その瞬間、空気が――また薄くなった。
匂いが消える。
屋台の油の匂いが、一気に遠くなる。音が吸われる。人の声が、布越しになる。
俺の耳の奥で、音が一回鳴った。
ピッ………………
間が伸びる。
(来た)
俺は喉が鳴るのを感じた。
目の前の男たちの焦点の合ってない目。それが怖い。さっき料理人が言った薄くなった村の話が、目の前で形になってる。
男が笑いながら言う。
「……俺ら、東から逃げてきたんだよ。村? もうねぇよ。家も、豚も、声も、全部、薄くなった」
群衆が息を呑む。
男は一歩、俺に近づいた。
「ロース様。救世主。ならさ――助けてみろよ」
その一歩で、俺の視界が白く滲んだ。
天井。
白い天井。
モニターの光。
誰かの手が俺の手を握って――
ピッ………………
現実の音が、耳の奥と重なる。
(やめろ)
俺は膝が崩れそうになった。
味が切れる。匂いが消えてる。
さっき食べた揚げパンの油が、もう薄い。
(今、何か……食わないと)
でも屋台の匂いが消えてる。味が届かない。
口の中が乾いていく。
男が、俺の目の前まで来た。
「……結界? やってみろよ」
その瞬間――男の背後に、影が立った。
誰も気づかない。
でも俺は分かった。
影じゃない。影のないもの。
昨日の路地の子供みたいに、そこには影が存在しない。
なのに確かに形はある。
人の形をしてる。
でも顔が見えない。輪郭がぼやけてる。
見つめるだけで、目の奥が冷たくなる。
リヴが俺の袖をぎゅっと掴んだ。必死な力じゃない。弱い。でも震えてる。
「……見ないで」
俺は見てしまった。
見た瞬間、頭の中の何かが折れそうになった。
ピッ………………
音が止まりそうになる。
(死ぬ)
そのとき、俺の手が勝手に動いた。
ポケットの中の油染みナプキン。
指先がそれを握り潰した。
ぐしゃっ。
油の匂いが――ほんの一瞬、立った。
記憶みたいに、揚げ油の熱が脳を叩く。
サクッ……。
音がした気がした。
衣の音。トンカツの音。
俺の喉から、言葉が漏れた。
「……トンカツ……!」
その瞬間。
空気が、ジュワッと鳴った。
本物の油の音じゃない。
でも確かに、熱を帯びた揚げ音が街全体を走った。
匂いが戻る。
屋台の匂いじゃない。もっと強い、もっと真っ直ぐな揚げ物の匂い。
一瞬だけ、世界が黄金色に見えた。
ピッ、ピッ、ピッ……!
耳の奥の音が、一気に詰まった。
俺の掌から、透明な膜が広がる。
でも、今までの薄膜と違う。
膜が――層になってる。
薄い膜が、何枚も重なって、衣みたいな粒が走る。
光を弾くように、パリパリと面が重なっていく。
男が目を見開いた。
「……な、何だ――」
次の瞬間、男の背後の影のないものが、膜に触れた。
触れた、というより――
膜が、その存在を弾いた。
バンッ!
音がした。鐘みたいな硬い音。
聖なる衣の噂が頭をよぎる。
影のないものが、ふわっと後ろへ押し戻される。
輪郭がさらにぼやけて、街の闇へ溶けていく。
群衆が一斉に息を吐いた。
「……今の……」
「揚げ音……?」
「匂いが……!」
役人が叫ぶ。
「ロース様の秘術! 《TONKATSU》だぁぁぁ!」
(うるせぇ!)
俺は叫び返したかった。
でも――次の瞬間、膝が崩れた。
結界が消えるのと同時に、匂いが一気に抜けた。
口の中の油の記憶が、急に空っぽになる。
ピッ………………
間が伸びる。
胸が冷える。視界が暗くなる。
(やばい、これ……)
俺は地面に手をついた。手が震える。
さっきの《TONKATSU》が、俺の中の味を根こそぎ削った感覚があった。
強い。
でも、代償がでかい。
リヴが俺の前にしゃがみ込んだ。
「……こうた」
声が小さい。
いつもよりずっと小さい。
俺はリヴの顔を見て、息が止まった。
リヴの目の光が、さっきより薄い。
《TONKATSU》で助かったはずなのに、リヴまで削れてる。
(俺が使ったせいだ)
俺は喉の奥が熱くなるのを感じた。怖さと後悔が混ざる。
そのとき、誰かが俺の口元に何かを押し付けた。
揚げ魚。
屋台のおっさんが、震える手で差し出している。
「ロース様! これを!」
俺はそれを掴んで、反射で噛んだ。
サク。油。塩。
ピッ、ピッ……
音が戻る。
同時にリヴが小さく息を吐いた。
(……戻る。少しだけ)
群衆は熱狂していた。
「《TONKATSU》だ!」
「救いの揚げ音だ!」
「ロース様ぁぁ!」
俺は口の中で揚げ魚を噛みながら、心の底で思った。
――これは武器じゃない。
これは、俺の命を削って出す最後の手段だ。
そして、見えた。
さっき弾いた影のないものが、街の屋根の上に立っている。
振り返らない。
でも、確かにこっちを見ている。
影がないのに、視線だけが刺さる。
リヴが俺の袖を掴んで、震える声で言った。
「……東へ行こ」
俺は頷いた。
「行く」
揚げ魚の味が薄れないうちに。
リヴが薄くなりきる前に。
そして何より――
さっきの影のないものが、次に来る前に。




