城下
「東の村が……薄くなりました」
役人の口から出たその言葉が、部屋の中の温度を一気に落とした。
薄くなる。
消えるじゃなくて、薄くなる。
たぶんそれが一番、怖い。
「……詳しく」
俺が言うと、役人は喉を鳴らして、言葉を絞り出した。
「家が……壁が……角から、ぼやけるように。人も……声も……。今朝までは確かにあったのに、夕方には“そういうものが最初から無かった”みたいに……」
俺の耳の奥で、音が一回鳴った。
ピッ………………
間が長い。
(やめろやめろ)
俺は反射で机の上の油染みナプキンを指で撫でた。意味はない。味もない。なのに、こういう時に限って、指先の感触が現実を繋いでくれる。
背後で、リヴが小さく息を吐いた。
「……来てる」
声が、さらに小さい。
俺は歯を食いしばった。
揚げ芋と揚げ魚で何とか繋いだだけだ。トンカツどころか、肉自体がない。匂いで延命してるみたいなもんだ。
「王に報告だ」
役人が震える手で扉の外に合図を送る。すぐに衛兵が走り出した。
その瞬間、俺の腹が鳴った。
ぐう。
最悪のタイミング。
でも、今の俺にとっては警報だった。
リヴの手が少し冷たくなる。俺は反射で、昼に残した揚げ魚の欠片を探した。部屋の隅の皿にある。油は冷めてる。でも匂いはまだある。
俺はその欠片を口に入れた。
パリ……。
硬い。冷たい。
でも塩気がある。
ピッ、ピッ……
音が戻る。
同時にリヴの肩がほんの少しだけ落ちた。
(……やっぱり繋がってる)
繋がってる理由は、まだ言葉にしたくない。言葉にした瞬間に、本当にそうなってしまいそうで。
---
その夜、王城の広間に呼ばれた。
扉を開けた瞬間、空気の重さが違う。
豪華な椅子が並び、鎧の衛兵が壁際に立ち、役人がずらっと並んでいる。真ん中には王――まだ若いが目が鋭い男が座っていた。
俺が入った途端、ざわっと声が広がる。
「ロース様だ……」
「救世のロース様……」
「今度こそ勝てる……」
(やめろ)
背中が痒い。
でも今はそんなことより――俺は王に向かって言った。
「肉がない」
広間が、しん…と静まった。
王が眉を動かす。
「……聞いた。家畜が消える、と」
「消えるの原因、東の村だろ」
役人たちがどよめく。王が手を上げて黙らせた。
「東の村は、すでに調査隊を――」
「調査じゃ遅い」
俺は口が勝手に動いた。
「俺は食わないと死ぬ」
一瞬、静寂。
次の瞬間、役人が「は?」って顔をする。衛兵が一斉に俺を見る。王は表情を崩さないまま言った。
「……今、何と言った」
(言っちゃった)
でも引っ込められない。俺は腹の底から吐き出した。
「トンカツがないと死ぬ。いや、トンカツじゃなくてもいい。肉と油と衣があればいい。味がいる。俺は……味が切れるとヤバい」
役人が「ロース様、それは比喩で――」と慌てる。
「比喩じゃねぇよ!」
俺が怒鳴ると、広間の空気がびくっとした。
リヴが俺の袖をつまんだ。小さな力。
落ち着けって言われてるみたいだった。
王はしばらく黙って、俺の目を見た。
「……ならば、逆に聞く。ロース。お前は東へ行けるか」
「行く」
即答した。
王が頷く。
「護衛をつける。だが条件がある。城下で一度、物資を揃えろ。お前が倒れれば終わる。……お前が必要だ」
必要。
その言葉が、妙に重く響いた。
俺は唾を飲み込んで頷いた。
「分かった。城下で揚げ物の匂いを探す」
役人たちは理解できない顔をしていたけど、王だけは少しだけ目を細めた。
「……油の匂いに、何がある?」
俺は答えなかった。答えられない。
代わりに言った。
「俺の命がある」
王はそれ以上追及せず、短く命じた。
「準備だ。今夜のうちに」
---
城下へ出ると、夜なのに人が多かった。
戦争が近い時ほど、街は妙に明るい。
誰もが不安で、だからこそ灯りを増やして、笑って、酒を飲んで、何かに縋ってる。
俺とリヴが通りに出た瞬間、空気が変わった。
「ロース様だ!」
「ロース様ぁぁ!」
「おい、トンカツの人だ!」
(トンカツの人って何だよ)
誰かが走ってくる。花みたいな布を押し付けてくる。子供が手を振る。
衛兵が必死に押し返す。
「近づくな! ロース様に触れるな!」
触れるなって言い方がもう宗教なんよ。
俺は胃がきゅっと縮むのを感じながら、鼻を動かした。
揚げ油の匂い。
あった。
屋台が並ぶ通りの奥、油の香りが確かに漂っている。
「……あっち」
俺が歩き出すと、護衛の衛兵が慌ててついてくる。リヴは俺の半歩後ろ。歩幅が小さい。でもついてくる。
屋台の前に辿り着くと、鍋で何かを揚げていた。細い魚、芋、パンみたいなもの。油の音が鳴ってる。
ジュワッ。
その音だけで、胸が少し楽になる。
ピッ、ピッ……
耳の奥の音が戻った。
リヴの指先が、ほんの少し温かくなる。
俺は屋台のおっさんに言った。
「一番匂いが強いやつくれ」
「ロ、ロース様!?」
おっさんが目を丸くする。周りの客がざわつく。
俺はもう慣れ始めてた。慣れたくないのに。
「いいから。揚げたて」
おっさんが震える手で、揚げた魚に塩を振って渡してくる。俺はすぐ口に入れた。
サク。
油。
塩。
ピッ、ピッ、ピッ……
(よし)
俺はリヴにも少し渡した。リヴが小さく噛む。目が少しだけ戻る。
その瞬間、背後から声がした。
「……ロース様、ですか」
低い声。落ち着いてる。
振り返ると、フードを被った商人が立っていた。目だけが妙に鋭い。周りの浮かれた空気と合ってない。
「何だよ」
商人は俺の手元――油で光る揚げ魚を見て、次にリヴを見た。
そして小声で言った。
「肉をお探しでしょう。……光の油の噂をご存じですか」
俺の胃が反応した。
「光の油?」
商人は頷く。
「東の方に、夜でも黄金色に揺れる油がある、と。普通の油より香りが強い。揚げれば、腹の底まで熱が落ちると」
「どこだ」
即答した。
商人は少しだけ口角を上げた。
「……東の村の、さらに先。今は誰も近づきません。薄くなりますから」
薄くなる。
またその言葉。俺の背中が冷える。
リヴが俺の袖を引いた。
「……それ」
声が小さい。だけど、いつもより鋭い。
商人が続けた。
「それと、もう一つ。白い豚」
「白い豚?」
「ええ。月明かりの下で、毛が光る豚です。肉に臭みがなく、脂が甘い。……見つけた者は、二度と普通の肉に戻れないと言う」
俺は喉を鳴らした。
(それだろ……)
商人はさらに言葉を重ねた。
「最後に、聖なる衣。衣です。粉ではなく、布のような。揚げた時に、音が違う。サクッではなく、……カンッ、と鳴ると」
「鳴る?」
「はい。まるで、鐘のように」
さっきの鐘が頭をよぎる。
嫌な繋がり方だ。
俺は揚げ魚をもう一口噛んだ。味が薄れるのが怖い。
商人の話が本当なら、俺は東へ行くしかない。
でも――
「なんで俺にそんな話する」
俺が言うと、商人は肩をすくめた。
「あなたが行けば、薄くなるのが止まるかもしれない。……それに」
商人は一瞬だけ、俺のポケットの端から覗く紙――レシートを見た気がした。
「持ってる人は、行ける」
「は?」
「いえ。独り言です」
商人はそれだけ言って、フードを深く被り直した。
「東へ行くなら、夜明け前がいい。薄くなる前に、匂いを追えますから」
そう言い残して、人混みに消えた。
(なんだ今の……)
背中に汗が出る。
リヴが俺の袖を引いて、じっと俺を見ていた。
「……こうた」
「ん」
リヴは夜の灯りを見ながら、ぽつりと言った。
「匂いは、道になる」
「……何それ」
「わたし、分かる。……分かる気がする」
その言い方が怖かった。
知ってるじゃない。分かる気がする。
俺は屋台の灯りから少し離れて、狭い路地に入った。人の声が遠くなる。油の匂いも薄くなる。
その瞬間、耳の奥の音が遠のいた。
ピッ………………
間が伸びる。
(やばい)
俺は慌てて揚げ魚の残りを噛んだ。
ピッ、ピッ……戻る。危ねぇ。
そのとき、リヴが急に足を止めた。
「……ここ」
「は?」
リヴは路地の壁に手を触れた。石の冷たさに指が吸い付くみたいに、じっと。
「ここ……知ってる気がする」
俺の背中が、ぞわっとした。
「前も言ってたろ、それ。東の村の時も」
リヴは首を振った。
「違う。……もっと、前」
もっと前。
その言葉の意味を考えた瞬間――
路地の奥、暗がりの中で、誰かがすっと通り過ぎた。
子供みたいな背丈。
なのに足音がしない。
そして、灯りがあるのに、その子には――影がなかった。
俺が息を呑んだ瞬間、耳の奥で音が鳴った。
ピッ…………
一回だけ。
長い間。
次の音が、来ないまま。
リヴが俺の袖をぎゅっと掴んだ。力が弱いのに必死だった。
「……見ないで」
俺は喉が乾いて、声が出なかった。
路地の奥の影のない子供は、振り返らない。
ただ、夜の闇へ溶けていった。
その背中を見送る間、俺の耳の奥は、沈黙したままだった。




