揚げられない夜
「……肉が、ない」
言った瞬間、厨房の空気が一段冷えた気がした。
料理人たちは気まずそうに目を逸らす。役人は「え、そんなことある?」みたいな顔で固まってる。
でも俺の中では、もっとデカいものが固まってた。
――詰み。
トンカツがない。
この世界でトンカツが作れない。
つまり、俺の命の残数が増えない。
耳の奥で、例の音が鳴った。
ピッ………………
一回だけ。
間が長い。
(やめろやめろやめろ)
俺は無意識に喉を鳴らした。干し肉の味はもう薄い。からしもソースもほぼ空。油染みナプキンなんて、いつまで味として通用するか分からない。
横を見ると、リヴが俺の袖を掴んだまま、立ってるのに少しだけ傾いていた。
「リヴ」
呼ぶと、リヴは笑おうとした。笑えないのに、口角だけ上げた。
「……だいじょぶ」
嘘だ。声が細い。
俺は厨房の床を蹴って、料理人の男に詰め寄った。
「肉、どこ行った」
「……戦が続きまして。家畜は徴発され、残ったものも、最近は……」
男は言葉を濁した。濁した瞬間が、一番怖い。
「最近は、なんだよ」
料理人は周りをちらっと見てから、小声になった。
「……消えるのです」
「は?」
「朝、厩にいたはずの豚が。牛が。……影だけ残して」
意味が分からない。影だけって何だ。
でも背中が冷える。
役人が慌てて割って入った。
「やめろ! 変な噂をロース様に――」
「噂じゃない」
料理人がかぶせた。目が真剣だった。
「血も残りません。鳴き声もありません。ただ、空気が……薄くなる」
その言葉に、俺の耳の奥が反応した。
ピッ……
短く鳴って、すぐ間が伸びる。
(同じだ)
俺は料理人を睨んだ。
「それ、いつから」
「数日前からです。東の村で先に起きて……次に、ここでも」
東の村。
この前逃げた道の先。あっちの方向。
リヴが「知ってる気がする」って言った場所。
リヴが俺の袖を引いた。
「……こうた」
「ん」
リヴは目を伏せたまま、言葉を探してるみたいに口を開いた。
「ここ、揚げられる?」
「揚げる?」
「……衣。油。匂い。……少しでも」
俺ははっとした。
トンカツじゃなくてもいい。今は味が要る。
油の匂いでも、揚げた熱でも、何か口に入れれば、心拍が戻るかもしれない。
俺は料理人に言った。
「油はあるな」
「油は……ございます。ですが、貴重で――」
「今、貴重とか言ってる場合じゃねぇ」
役人が「ロース様!」と焦ったが、俺はもう構ってられなかった。
「肉がないなら、肉以外でもいい。揚げられるもの出せ。芋でも草でも何でも」
「芋は……あります。あと、干し魚も少し」
「それでいい!」
料理人が驚きながらも頷いて、部下に指示を飛ばした。
誰かが芋を持ってくる。別の誰かが、瓶に入った濁った油を抱えてくる。
油の匂いが鼻に届いた瞬間、俺の胃がきゅっと鳴った。
(これだ)
耳の奥の音が少しだけ近づく。
ピッ……ピッ……
リヴの指が、俺の袖を掴む力がほんの少し戻った。
「……いい匂い」
その一言で、俺の胸がぎゅっとなった。
可哀想なことはしたくないって決めたのに、こういう静かな弱りは、容赦なく刺してくる。
---
料理人は手際がいい。
芋を切り、水でさらし、粉みたいなものをまぶし、油を熱する。
ジュワッ――。
油の音が鳴った瞬間、俺は息を止めた。
(この音だ)
世界が一瞬だけ現実になる音。
耳の奥で、心電図の音が揃う。
ピッ、ピッ、ピッ……
俺は思わず笑いそうになった。笑えないのに。
料理人が揚がった芋を皿に乗せ、塩を振る。
湯気が立つ。衣は薄いけど、ちゃんと“揚げ物”だ。
「どうぞ……」
俺は箸を取った。割り箸じゃない、ちゃんとした箸。
でも指先が震えて、箸先が皿に軽く当たった。
(落ち着け)
一切れ口に入れる。
サク。
ホク。
油。塩。
――生きてる味。
ピッ、ピッ、ピッ……
音が、明らかに詰まった。
胸の奥が温かくなる。肺がちゃんと膨らむ。視界の端がクリアになる。
隣でリヴが、小さく息を吐いた。
「……戻った」
声が少しだけ太い。
俺はすぐ、もう一切れを小さく割ってリヴに差し出した。
「食え」
「……うん」
リヴは遠慮しないで食べた。
ちびっと噛んで、目を閉じる。
その瞬間、リヴの頬にほんの少し血色が戻った気がした。
(よし)
俺は胸の奥で拳を握った。
トンカツじゃなくても、揚げ物ならいける。味があれば繋げる。
でも――
俺はすぐに気づいた。
この芋は、延命にはなる。
でも回復じゃない。
トンカツを食ったときみたいな、芯まで戻る感じがない。
音は詰まった。でも、どこか弱い。
ピッ…ピッ…ピッ…
少しだけ間が揺れる。
(これじゃ足りない。いつか追いつかれる)
俺が黙り込むと、料理人が様子をうかがうように言った。
「……お口に合いませんか」
「うまい。……でも、足りない」
料理人は意味が分からない顔をした。そりゃそうだ。
役人が得意げに言う。
「ロース様! 王城には他にも――」
「肉がないんだろ」
俺が睨むと、役人が口をつぐんだ。
料理人が小声で続けた。
「……豚は、以前はいました。王城の厩にも。ですが今は……」
「消えた、ってやつか」
料理人は頷いた。怖いほど静かに。
「……光を喰う獣の仕業だと」
その言葉で、厨房の空気がさらに冷えた。
誰かが手を止めた。油の音だけがやけに大きい。
(光を喰う獣)
俺はその言葉を口の中で転がした。
光?
油の熱?
命の気配?
耳の奥で、ピッ……が一回鳴って、間が伸びた。
(やめろ、今は食ってるだろ)
俺は焦って芋をもう一切れ食べた。
ピッ、ピッ……戻る。でも完全じゃない。
リヴが俺の袖を引く。
「……こうた」
「ん」
リヴは小さく首を振った。
「食べすぎると、減る」
「……当たり前だろ」
「……でも、今は……まだ」
まだ。
その言い方が妙に引っかかった。
まだ何だ。
まだ追いつかれてない?
まだ間に合う?
俺は考えるのをやめた。今は、今の味を確保する。
「料理人、他に揚げられるもん出せ。魚でもいい。匂いが強いの」
「……はい!」
料理人が干し魚を揚げ始めた。
匂いが立つ。油が鳴く。衣がはじける。
俺は息を吸っただけで、胸が少し楽になるのを感じた。
ピッ、ピッ、ピッ……
(……いける。まだいける)
その“まだ”が、逆に怖かった。
---
夜になった。
王城の一室に通された。豪華な寝台、分厚いカーテン、石の壁。
でも落ち着く暇なんてない。俺の頭の中は、ずっと同じことだけ。
肉。
油。
衣。
トンカツ。
そして――回数。
俺は椅子に座ったまま、ポケットの中身を机に並べた。
レシート。
ソースの空袋。
からしの空袋。
割り箸の袋。
油染みナプキン。
さっきの揚げ芋がなかったら、俺もリヴももっと危なかった。
でも、これからどうする。
リヴはベッドの端に座って、足を揃えていた。
背筋は伸びてる。でも目が少しぼんやりしてる。
「リヴ」
呼ぶと、リヴは目を上げた。
「……なに」
「今日、助けた」
「……うん」
「でも、これからどうする」
リヴは少し考えて、答えた。
「探す」
「何を」
「……ほんとの揚げ」
俺は息を吐いた。
「肉か」
リヴは頷いた。
「……うん。光のある肉」
光のある肉。
意味が分からないのに、なぜかそれが“正しい”気がした。
そのとき。
遠くで、鐘が鳴った。
カン……カン……。
城の中がざわつく音がする。走る足音。扉を叩く音。
俺は立ち上がった。
「何だ」
リヴがゆっくり立つ。
立つのが、少し遅い。
ドン、ドン。
扉が叩かれた。
「ロース様! 急報です!」
役人の声。妙に震えてる。
俺が扉を開けると、役人は青い顔で頭を下げた。
「東の村が……」
その言葉だけで、俺の背中が冷えた。
「東の村が、どうした」
役人の唇が震える。
「……薄くなりました」
「薄く?」
「人も、家畜も、声も……まるで最初から無かったように……」
俺の耳の奥で、音が一回鳴った。
ピッ………………
長い間。
次が来ない。
俺は反射で息を吸った。吸えない。肺が空回りする。
背後で、リヴが小さく言った。
「……近い」
その声が、いつもよりずっと小さくて。
俺は振り返って、リヴの顔を見て――
言葉を失った。
リヴの目の光が、さっきより薄い。
泣いてない。叫んでもない。
ただ、静かに、確実に――弱ってる。
俺は唇を噛んだ。
(間に合え)
そして初めて、心の底から思った。
トンカツが食いたいんじゃない。
トンカツで、まだ生きたい。
耳の奥で、ようやく次の音が来た。
ピッ…………
でも、その間は、さっきより長かった。




