ロース
ピッ………………
一回だけ鳴って、次が来ない。
その間が、胃の底より先に怖かった。
空気が薄くなる。
焚き火の煙が、途中で消えていくみたいに揺れて、匂いだけが残る。兵士たちの声も、布越しに聞いてるみたいに遠い。
「……また来たのか」
俺が呟くと、指揮官が顔をしかめた。
「今のは何だ。寒気みたいな……」
リヴが俺の袖を掴む。力が弱い。だけど意志は強い。
「ここ、だめ。すぐ」
「すぐって、どこへ――」
指揮官が俺の言葉を遮った。
「全隊、後退! 陣を畳め! 王都へ戻る!」
テントの外が一気に騒がしくなる。鎧の音、怒鳴り声、馬のいななき。兵士が走り回って、荷物を引きずり出していく。
俺は立ち上がろうとして、膝ががくんと抜けた。
(やば……)
腹が空いてる。
いや、空腹だけじゃない。口の中から味が消えていく。さっきの保存食の油っぽさが、もう薄い。
ピッ………………
また一回。間が長い。
「こうた」
リヴが小さく呼んだ。声が、かすれてる。背中を押す声じゃない。今は、寄り添う声だ。
俺は歯を食いしばってポケットを探った。
指先に触れるのは、紙、ビニール、布。
レシート。
割り箸の袋。
油染みのついたナプキン。
(……味、ない)
からしもソースも、もうほぼ終わり。
舌の上に残るのは乾いた鉄の匂いだけ。
俺は咄嗟に、油染みナプキンを指でこすって、舌に触れた。
「は?」
自分でも意味が分からない。汚い。
でも、ほんのわずか、油の匂いがした。揚げ物の残り香みたいな、あの熱の記憶。
ピッ……ピッ……
音が戻った。かすかに、でも確かに。
(効くのかよ……)
俺は苦笑する暇もなく、リヴの手を握って立ち上がった。
「行くぞ」
「……うん」
リヴは頷いたけど、まぶたが重そうだった。眠いわけじゃない。薄いんだ。存在が。
外に出ると、陣地はもう撤退の渦だった。
馬に乗る者、負傷者を担ぐ者、荷車を引く者。どれも必死で、でもその必死さが逆に、何かに追われてることを証明してる。
空が、さっきより暗い。
夕方でもないのに、陽の色がくすんでる。
(あれが近い)
見えないのに分かる。背中が冷える。
指揮官が俺の腕を掴んだ。
「お前、歩けるか」
「歩ける。……食い物、あるか」
「は?」
「味のあるやつ」
指揮官は一瞬だけ俺を変な目で見た。でも、すぐ顔を険しくして、背後の兵に怒鳴った。
「干し肉! 水! こいつに――いや、こいつらに持ってこい!」
干し肉が投げられる。俺は受け取って、すぐ噛んだ。
硬い。
でも塩味。肉の匂い。噛むほどに油が滲む。
ピッ、ピッ……
間隔が詰まる。胸の奥が温かい。
横でリヴが少しだけ息を吐いて、肩が落ちた。
「……助かる」
その一言が、今の俺にはご褒美だった。
---
王都へ向かう道は、地獄みたいに長かった。
逃げてるだけなのに、後ろから追いかけてくるのは馬人じゃない。
空気の薄さそのものが、じわじわ追ってくる。
途中、何度か兵が倒れた。
血を流したわけじゃない。ただ、膝をついて、目の焦点が消えていく。
「おい! しっかりしろ!」
「水だ! 水を――」
水を飲ませても、目が戻らない。
誰かが「魂が抜かれたみたいだ」と呟いて、兵士たちの顔色がさらに悪くなる。
(……奪われてる)
俺は干し肉を噛みながら、喉の奥で唾を飲んだ。
味が切れると、俺も同じになるのか。
ピッ……ピッ……
心電図の音が、俺の恐怖を測ってるみたいに鳴る。
リヴは、ずっと俺の袖を掴んでいた。
歩き方も遅い。途中で何度も、ほんの少しだけよろける。
「大丈夫か」
俺が聞くと、リヴは首を横に振った。
「……大丈夫、って言いたい」
「じゃあ嘘じゃん」
「……うん」
素直に認めるのが、逆に苦しい。
俺は干し肉を小さくちぎって、リヴの口元に持っていった。
「食え」
「いいの?」
「いい。俺が死ぬよりマシ」
リヴは少しだけ迷って、それから小さく口を開けた。ちびっと噛む。
その瞬間、リヴの瞳の奥に、ほんの少し光が戻った気がした。
(やっぱり、繋がってる)
俺は言葉にしなかった。
言葉にしたら、壊れそうだった。
---
王都が見えたのは、日が傾きかけた頃だった。
高い壁。旗。門。
人が溢れている。逃げてきた兵を見つけて、ざわざわと声が上がった。
「戻った! 戻ったぞ!」
「前線は……!」
「魔導師が出たって本当か!?」
指揮官が馬から降りて、門番に叫ぶ。
「王に知らせろ! 結界を張れる者がいる!」
その言葉が合図みたいに、視線が全部こっちに集まった。
俺は背中が痒くなる。
人の視線って、槍より刺さるときがある。
「おい、あいつか?」
「あの若いのが……?」
「子供じゃないか」
「いや、隣の女の子は……」
リヴが俺の後ろに半歩隠れた。隠れたくなるのも分かる。今のリヴは、目立つほど元気じゃない。
俺は前を向いた。
門の先に、派手な服を着た大人たちが走ってくる。役人っぽい。衛兵もついてる。
その中心にいる男が、俺を見るなり膝をついた。
「おお……! 神よ……!」
いきなり泣きそうな顔で、俺の足元を拝む。
「貴方様が……貴方様が我が国を救うのですね!」
「は?」
俺は素で声が出た。
男は顔を上げ、興奮したまま続ける。
「結界を張り、馬人を退けたと聞きました! 大魔導師様! どうか――どうか王城へ!」
大魔導師。
なんだそれ。俺は今日、トンカツ食い損ねて倒れただけだぞ。
「俺はこうたで――」
言いかけた瞬間、男が俺の言葉の途中で大きく頷いた。
「ええ! ええ! 名乗りも高く! その名……その名は!」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
(名乗りも高くって何だよ)
背後で兵士が小声で言う。
「指揮官殿が言ってた。ロースって呼ばれてたって……」
「は?」
俺が振り返ると、指揮官が視線を逸らした。
「……兵が勝手に呼んだ。お前がずっとトンカツって言ってたから、わけが分からなくなって……」
「ロースの方が分かると思ったのかよ!」
「知らん! とにかく状況が状況だった!」
役人の男が、俺の反応を威厳だと勘違いしたらしく、さらに深く頭を下げた。
「おお、なるほど……! トンカツの名を口にしてなお泰然! まさしく大魔導師……! 我らは敬意を込めて――」
男が勢いよく宣言する。
「ロース様とお呼びいたします!」
周りがどっと湧いた。
「ロース様!」
「ロース様だ!」
「救いのロース様!」
(最悪だ)
俺は頭を抱えたくなった。
でも、抱えてる暇がない。
耳の奥で、ピッ……が鳴って、間が伸びた。
干し肉の味が薄れてきたのと同時に、リヴの手が少し冷たくなる。
(くそ……)
俺は焦って、ポケットのレシートを指で撫でた。意味はない。味はない。
でも指先に紙の感触があるだけで、少し落ち着く。
役人たちは俺たちを囲むようにして、王城へ向かって歩き出した。
石畳。旗。礼砲みたいな太鼓の音。
門の内側は別世界だった。人が多い。店がある。匂いが混ざる。パンの匂い、香草、汗――そして、遠くから揚げ油の匂いがした。
(油……!)
胃が反応した。
俺は反射で鼻を動かして匂いを探した。
リヴが小さく笑った……気がした。ほんの一瞬だけ。
「……顔、わかりやすい」
「仕方ねぇだろ。命かかってんだ」
「……うん」
リヴの声が、また少し小さくなる。
俺は唇を噛んだ。
---
王城はでかかった。
でかいだけじゃない。冷たい。石の壁に、音が吸われる。長い廊下を歩くほど、さっきの薄さが戻ってくる気がする。
案内されたのは、豪華な部屋――じゃなかった。
まず通されたのは、厨房の横だった。
「……こちらでお食事の用意を!」
役人が胸を張る。
俺は心の中で叫んだ。
(来た!)
扉が開く。
大きな竈。吊るされた鍋。木のまな板。香草。袋に入った小麦粉みたいなもの。
湯気。熱。
油の匂い――が、弱い。
俺は一歩踏み込んで、周りを見渡した。
肉が、ない。
まな板にも、棚にも、吊るされてもいない。
鶏も豚も牛も、影すらない。
「……え?」
俺の声が勝手に出た。
料理人らしき男が、困った顔で頭を下げた。
「申し訳ございません。近頃、家畜が……減っておりまして。戦も続き、流通も……」
俺は言葉を飲み込んだ。
飲み込んだのに、耳の奥の音が勝手に薄くなる。
ピッ………………
リヴの手が、少しだけ震えた。
俺は厨房の真ん中で立ち尽くして、やっと現実を理解した。
(……ここ、トンカツ作れない)
そしてそれは、つまり――
俺は、死ぬかもしれない。
俺は乾いた笑いを漏らして、呟いた。
「……肉が、ない」




