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TONKATSUが尽きたら、俺は死ぬ  作者: 茶碗蒸し
トンカツはどこにある。
4/9

ロース

ピッ………………


一回だけ鳴って、次が来ない。


その間が、胃の底より先に怖かった。


空気が薄くなる。

焚き火の煙が、途中で消えていくみたいに揺れて、匂いだけが残る。兵士たちの声も、布越しに聞いてるみたいに遠い。


「……また来たのか」


俺が呟くと、指揮官が顔をしかめた。


「今のは何だ。寒気みたいな……」


リヴが俺の袖を掴む。力が弱い。だけど意志は強い。


「ここ、だめ。すぐ」


「すぐって、どこへ――」


指揮官が俺の言葉を遮った。


「全隊、後退! 陣を畳め! 王都へ戻る!」


テントの外が一気に騒がしくなる。鎧の音、怒鳴り声、馬のいななき。兵士が走り回って、荷物を引きずり出していく。


俺は立ち上がろうとして、膝ががくんと抜けた。


(やば……)


腹が空いてる。

いや、空腹だけじゃない。口の中から味が消えていく。さっきの保存食の油っぽさが、もう薄い。


ピッ………………


また一回。間が長い。


「こうた」


リヴが小さく呼んだ。声が、かすれてる。背中を押す声じゃない。今は、寄り添う声だ。


俺は歯を食いしばってポケットを探った。

指先に触れるのは、紙、ビニール、布。


レシート。

割り箸の袋。

油染みのついたナプキン。


(……味、ない)


からしもソースも、もうほぼ終わり。

舌の上に残るのは乾いた鉄の匂いだけ。


俺は咄嗟に、油染みナプキンを指でこすって、舌に触れた。


「は?」


自分でも意味が分からない。汚い。

でも、ほんのわずか、油の匂いがした。揚げ物の残り香みたいな、あの熱の記憶。


ピッ……ピッ……


音が戻った。かすかに、でも確かに。


(効くのかよ……)


俺は苦笑する暇もなく、リヴの手を握って立ち上がった。


「行くぞ」


「……うん」


リヴは頷いたけど、まぶたが重そうだった。眠いわけじゃない。薄いんだ。存在が。


外に出ると、陣地はもう撤退の渦だった。

馬に乗る者、負傷者を担ぐ者、荷車を引く者。どれも必死で、でもその必死さが逆に、何かに追われてることを証明してる。


空が、さっきより暗い。

夕方でもないのに、陽の色がくすんでる。


(あれが近い)


見えないのに分かる。背中が冷える。


指揮官が俺の腕を掴んだ。


「お前、歩けるか」


「歩ける。……食い物、あるか」


「は?」


「味のあるやつ」


指揮官は一瞬だけ俺を変な目で見た。でも、すぐ顔を険しくして、背後の兵に怒鳴った。


「干し肉! 水! こいつに――いや、こいつらに持ってこい!」


干し肉が投げられる。俺は受け取って、すぐ噛んだ。


硬い。

でも塩味。肉の匂い。噛むほどに油が滲む。


ピッ、ピッ……


間隔が詰まる。胸の奥が温かい。


横でリヴが少しだけ息を吐いて、肩が落ちた。


「……助かる」


その一言が、今の俺にはご褒美だった。



---


王都へ向かう道は、地獄みたいに長かった。


逃げてるだけなのに、後ろから追いかけてくるのは馬人じゃない。

空気の薄さそのものが、じわじわ追ってくる。


途中、何度か兵が倒れた。

血を流したわけじゃない。ただ、膝をついて、目の焦点が消えていく。


「おい! しっかりしろ!」


「水だ! 水を――」


水を飲ませても、目が戻らない。

誰かが「魂が抜かれたみたいだ」と呟いて、兵士たちの顔色がさらに悪くなる。


(……奪われてる)


俺は干し肉を噛みながら、喉の奥で唾を飲んだ。


味が切れると、俺も同じになるのか。


ピッ……ピッ……


心電図の音が、俺の恐怖を測ってるみたいに鳴る。


リヴは、ずっと俺の袖を掴んでいた。

歩き方も遅い。途中で何度も、ほんの少しだけよろける。


「大丈夫か」


俺が聞くと、リヴは首を横に振った。


「……大丈夫、って言いたい」


「じゃあ嘘じゃん」


「……うん」


素直に認めるのが、逆に苦しい。


俺は干し肉を小さくちぎって、リヴの口元に持っていった。


「食え」


「いいの?」


「いい。俺が死ぬよりマシ」


リヴは少しだけ迷って、それから小さく口を開けた。ちびっと噛む。


その瞬間、リヴの瞳の奥に、ほんの少し光が戻った気がした。


(やっぱり、繋がってる)


俺は言葉にしなかった。

言葉にしたら、壊れそうだった。



---


王都が見えたのは、日が傾きかけた頃だった。


高い壁。旗。門。

人が溢れている。逃げてきた兵を見つけて、ざわざわと声が上がった。


「戻った! 戻ったぞ!」


「前線は……!」


「魔導師が出たって本当か!?」


指揮官が馬から降りて、門番に叫ぶ。


「王に知らせろ! 結界を張れる者がいる!」


その言葉が合図みたいに、視線が全部こっちに集まった。


俺は背中が痒くなる。

人の視線って、槍より刺さるときがある。


「おい、あいつか?」


「あの若いのが……?」


「子供じゃないか」


「いや、隣の女の子は……」


リヴが俺の後ろに半歩隠れた。隠れたくなるのも分かる。今のリヴは、目立つほど元気じゃない。


俺は前を向いた。

門の先に、派手な服を着た大人たちが走ってくる。役人っぽい。衛兵もついてる。


その中心にいる男が、俺を見るなり膝をついた。


「おお……! 神よ……!」


いきなり泣きそうな顔で、俺の足元を拝む。


「貴方様が……貴方様が我が国を救うのですね!」


「は?」


俺は素で声が出た。


男は顔を上げ、興奮したまま続ける。


「結界を張り、馬人を退けたと聞きました! 大魔導師様! どうか――どうか王城へ!」


大魔導師。

なんだそれ。俺は今日、トンカツ食い損ねて倒れただけだぞ。


「俺はこうたで――」


言いかけた瞬間、男が俺の言葉の途中で大きく頷いた。


「ええ! ええ! 名乗りも高く! その名……その名は!」


俺は一瞬、言葉に詰まった。


(名乗りも高くって何だよ)


背後で兵士が小声で言う。


「指揮官殿が言ってた。ロースって呼ばれてたって……」


「は?」


俺が振り返ると、指揮官が視線を逸らした。


「……兵が勝手に呼んだ。お前がずっとトンカツって言ってたから、わけが分からなくなって……」


「ロースの方が分かると思ったのかよ!」


「知らん! とにかく状況が状況だった!」


役人の男が、俺の反応を威厳だと勘違いしたらしく、さらに深く頭を下げた。


「おお、なるほど……! トンカツの名を口にしてなお泰然! まさしく大魔導師……! 我らは敬意を込めて――」


男が勢いよく宣言する。


「ロース様とお呼びいたします!」


周りがどっと湧いた。


「ロース様!」


「ロース様だ!」


「救いのロース様!」


(最悪だ)


俺は頭を抱えたくなった。

でも、抱えてる暇がない。


耳の奥で、ピッ……が鳴って、間が伸びた。

干し肉の味が薄れてきたのと同時に、リヴの手が少し冷たくなる。


(くそ……)


俺は焦って、ポケットのレシートを指で撫でた。意味はない。味はない。

でも指先に紙の感触があるだけで、少し落ち着く。


役人たちは俺たちを囲むようにして、王城へ向かって歩き出した。


石畳。旗。礼砲みたいな太鼓の音。

門の内側は別世界だった。人が多い。店がある。匂いが混ざる。パンの匂い、香草、汗――そして、遠くから揚げ油の匂いがした。


(油……!)


胃が反応した。

俺は反射で鼻を動かして匂いを探した。


リヴが小さく笑った……気がした。ほんの一瞬だけ。


「……顔、わかりやすい」


「仕方ねぇだろ。命かかってんだ」


「……うん」


リヴの声が、また少し小さくなる。


俺は唇を噛んだ。



---


王城はでかかった。

でかいだけじゃない。冷たい。石の壁に、音が吸われる。長い廊下を歩くほど、さっきの薄さが戻ってくる気がする。


案内されたのは、豪華な部屋――じゃなかった。

まず通されたのは、厨房の横だった。


「……こちらでお食事の用意を!」


役人が胸を張る。

俺は心の中で叫んだ。


(来た!)


扉が開く。

大きなかまど。吊るされた鍋。木のまな板。香草。袋に入った小麦粉みたいなもの。


湯気。熱。

油の匂い――が、弱い。


俺は一歩踏み込んで、周りを見渡した。


肉が、ない。


まな板にも、棚にも、吊るされてもいない。

鶏も豚も牛も、影すらない。


「……え?」


俺の声が勝手に出た。


料理人らしき男が、困った顔で頭を下げた。


「申し訳ございません。近頃、家畜が……減っておりまして。戦も続き、流通も……」


俺は言葉を飲み込んだ。

飲み込んだのに、耳の奥の音が勝手に薄くなる。


ピッ………………


リヴの手が、少しだけ震えた。


俺は厨房の真ん中で立ち尽くして、やっと現実を理解した。


(……ここ、トンカツ作れない)


そしてそれは、つまり――


俺は、死ぬかもしれない。


俺は乾いた笑いを漏らして、呟いた。


「……肉が、ない」

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