ルール
「……来た」
リヴの声が、戦場の騒音をすり抜けて、俺の脳の真ん中に刺さった。
土煙の向こうに影が見えたわけじゃない。
ただ――空気が薄くなる。
さっきまで鼻を刺してた血と鉄の匂いが、急に遠のく。代わりに、冷たい水の底みたいな無臭が肺に入ってきて、胸がきしむ。
兵士たちの叫びも、剣がぶつかる音も、馬人の咆哮も。
全部、ひとつ壁の向こうに置かれたみたいに小さくなった。
俺は息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
(……やめろ、これ)
脳梗塞で倒れた直前の、あの感じ。
世界が「まだ大丈夫」と「終わる」の間でぐらつく感覚。
耳の奥で、ひとつだけ音が鳴る。
ピッ………………
間が、長い。
次の音が来ないまま、俺の視界が白っぽく滲んだ。
――天井。
病院の、白い天井が一瞬だけ見えた。蛍光灯の輪郭。消毒の匂い。どこかで機械が警告音を出しそうな気配。
「……こうた!」
リヴの声で、俺は現実に引き戻された。
異世界の土と血の匂いが一気に戻る。喉が焼けるみたいに乾いた。
俺はよろけて、膝をついた。
「リヴ……っ」
リヴが立ってる。立ってるのに、足が地面に吸い込まれそうにぐらぐらしている。顔色が、さっきより薄い。唇も、少しだけ色が抜けてる。
泣いてない。呻いてもない。
ただ、静かに弱い。
(くそ……!)
俺はポケットを探った。ソースはもうほとんどない。さっき噛み破って、舌で味わって、使い切った。
残ってるのは――
からしの小袋。
俺は迷わずそれを掴んで、歯で端を噛み切った。
ツン、と鼻に突き抜ける刺激。
涙が勝手に出て、喉がむせた。
「げほっ……!」
でも、その瞬間。
ピッ……ピッ……
音が戻った。
間隔が少しだけ短くなる。胸の奥の冷えが、ほんのわずか引く。
(……効いた?)
俺はからしを舌で転がした。辛い。痛い。でも、それが今はありがたい。
リヴの目が、ほんの少しだけ開く。焦点が戻るみたいに。
「……うん」
返事が短い。
けど、返してくれた。
「行くぞ」
俺はリヴの手を掴んで立ち上がった。足がまだ震えてる。でも動ける。動かないと終わる。
土煙の中を走る。背中から、冷たい視線みたいなものが追ってくる。姿は見えないのに、いるのが分かる。
(あれが来たってやつか)
俺は振り返りそうになって、やめた。リヴが「見ないで」って言った理由、今なら分かる。見たら心が折れるタイプのやつだ。
代わりに、口の中の味が消えないように、必死に舌を動かした。からしの刺激が薄れるたび、耳の奥の音が遠のく気がして怖い。
ピッ……ピッ……
(頼む、消えるな)
走って、走って、やっと土の窪みを抜けた先に、小さな塀みたいな岩場があった。そこに人間の兵士が数人、俺たちを見つけて声を上げた。
「こっちだ! 早く!」
腕を掴まれる。引っ張られる。
俺は抵抗できなかった。むしろ助けにすがった。
粗い布のテント。焚き火の煙。水の匂い。
戦場の中心から少し外れた場所――仮の陣地らしい。
「お前……さっきの結界、見たぞ」
短髪の兵士が俺を睨んだ。年は二十代後半くらい。目が鋭い。指揮官っぽい。
「名前は」
「こうた……」
「異邦の者か?」
「知らねぇよ……俺も今混乱してんだよ……!」
俺の声は震えてた。怒鳴ったつもりなのに、情けない。
指揮官は一瞬だけ眉を動かして、それから俺の横のリヴを見た。
「……その子は?」
リヴは答えなかった。
俺の袖を掴んで、ぎゅっと小さく握っている。握る力が弱いのが分かって、俺は焦った。
「水、あるか。あと……食い物」
「食い物?」
「なんでもいい! 味があるやつ!」
指揮官が怪訝な顔をしたけど、誰かが木の器に水を注いで持ってきた。俺は一気に飲む。喉が生き返る。
次に出されたのは、油っぽい匂いのする肉の塊だった。
揚げたのか焼いたのか分からない、硬そうな保存食。
俺はそれを受け取って、迷わずかじった。
ガリッ。
硬い。
でも――油の匂いがする。肉の味がする。塩気がある。
その瞬間、耳の奥の音がはっきりした。
ピッ、ピッ、ピッ……
(……っ!)
胸の奥が、じわっと温かくなる。冷えて固まってた何かが溶ける感じ。
俺は夢みたいに、もう一口かじった。
ピッ、ピッ……
音の間隔が、さらに詰まる。
横で、リヴがふっと息を吐いた。肩の力が少し抜ける。目の光が、ほんのちょっと戻る。
「……戻った?」
俺が小声で聞くと、リヴは頷いた。
「今は……大丈夫」
声はまだ小さい。けど、さっきよりは芯がある。
(やっぱりだ)
俺は噛みながら確信した。
味が必要なんだ。
味があると、俺の耳の奥で心電図が鳴る。
味が薄れると、間が伸びる。止まりそうになる。
そしてリヴも――弱る。
俺は喉の奥が熱くなるのを感じた。怖いのに、嬉しい。生きてるって実感が、口の中の油と一緒に戻ってくる。
「……今の音、何なんだよ」
俺が呟くと、リヴは目を伏せたまま言った。
「……あなたの今の音」
「今って、何だよ」
「……つながってる」
それ以上は言わなかった。
言えないんじゃなくて、言わない。そういう線引きが、リヴにはある。
指揮官が俺の顔を見て、低い声で言った。
「お前、何者かは後でいい。今は戦場だ。お前の力が必要になる」
「俺はトンカツが必要なんだよ」
思わず言ってしまって、場が一瞬止まった。
指揮官が「……は?」って顔をする。周りの兵士も困惑する。
俺も「何言ってんだ俺」って思った。でも――本音だった。
「トンカツがないと、俺……」
言いかけて、飲み込んだ。言ったら終わる気がした。自分の命が、食い物の残数で決まるなんて。
俺は手の中の保存食を見た。
一切れ。二切れ。量が少ない。しかも硬いから、ゆっくりしか食えない。
そして――
気づく。
俺のポケットの小袋は、もうほとんど空だ。
ソースは終わり。からしも、さっきで半分以上使った。
(……これ、何回分だ?)
耳の奥の音が、薄くなる。
ピッ……ピッ……
俺は慌てて、残った肉をもう一口噛んだ。
音が戻る。
ピッ、ピッ……
その動作が、怖かった。
食べる=生きる。
食べ終わる=……。
指揮官がテントの外を見て、短く命令を飛ばした。
「伝令! 王都へ戻る準備をしろ! 魔導師が出たと――」
俺は顔を上げた。
「魔導師?」
指揮官が俺を見て、はっきり言った。
「さっきの結界。あれを魔法と呼ばずに何と呼ぶ。お前は――いや、国はお前を放っておかない」
その言葉の意味が、じわっと遅れてきた。
(俺、今……戦争の真ん中にいる)
トンカツどころじゃない。
でも、トンカツがないと死ぬ。
矛盾してるのに、どっちも本当だった。
そのとき、リヴが俺の袖を引いた。
小さく、でも真剣な顔で。
「……こうた」
「ん?」
リヴは、テントの入り口の向こう――戦場の方角を見た。
「まだ……終わってない」
俺は息を呑んだ。
外の空気が、また薄くなり始めていた。
ピッ…………
音が、一回だけ鳴って。
間が、伸びた。




