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TONKATSUが尽きたら、俺は死ぬ  作者: 茶碗蒸し
トンカツはどこにある。
3/9

ルール

「……来た」


リヴの声が、戦場の騒音をすり抜けて、俺の脳の真ん中に刺さった。


土煙の向こうに影が見えたわけじゃない。

ただ――空気が薄くなる。


さっきまで鼻を刺してた血と鉄の匂いが、急に遠のく。代わりに、冷たい水の底みたいな無臭が肺に入ってきて、胸がきしむ。


兵士たちの叫びも、剣がぶつかる音も、馬人の咆哮も。

全部、ひとつ壁の向こうに置かれたみたいに小さくなった。


俺は息を吸おうとして、うまく吸えなかった。


(……やめろ、これ)


脳梗塞で倒れた直前の、あの感じ。

世界が「まだ大丈夫」と「終わる」の間でぐらつく感覚。


耳の奥で、ひとつだけ音が鳴る。


ピッ………………


間が、長い。


次の音が来ないまま、俺の視界が白っぽく滲んだ。


――天井。


病院の、白い天井が一瞬だけ見えた。蛍光灯の輪郭。消毒の匂い。どこかで機械が警告音を出しそうな気配。


「……こうた!」


リヴの声で、俺は現実に引き戻された。

異世界の土と血の匂いが一気に戻る。喉が焼けるみたいに乾いた。


俺はよろけて、膝をついた。


「リヴ……っ」


リヴが立ってる。立ってるのに、足が地面に吸い込まれそうにぐらぐらしている。顔色が、さっきより薄い。唇も、少しだけ色が抜けてる。


泣いてない。呻いてもない。

ただ、静かに弱い。


(くそ……!)


俺はポケットを探った。ソースはもうほとんどない。さっき噛み破って、舌で味わって、使い切った。


残ってるのは――


からしの小袋。


俺は迷わずそれを掴んで、歯で端を噛み切った。


ツン、と鼻に突き抜ける刺激。

涙が勝手に出て、喉がむせた。


「げほっ……!」


でも、その瞬間。


ピッ……ピッ……


音が戻った。

間隔が少しだけ短くなる。胸の奥の冷えが、ほんのわずか引く。


(……効いた?)


俺はからしを舌で転がした。辛い。痛い。でも、それが今はありがたい。


リヴの目が、ほんの少しだけ開く。焦点が戻るみたいに。


「……うん」


返事が短い。

けど、返してくれた。


「行くぞ」


俺はリヴの手を掴んで立ち上がった。足がまだ震えてる。でも動ける。動かないと終わる。


土煙の中を走る。背中から、冷たい視線みたいなものが追ってくる。姿は見えないのに、いるのが分かる。


(あれが来たってやつか)


俺は振り返りそうになって、やめた。リヴが「見ないで」って言った理由、今なら分かる。見たら心が折れるタイプのやつだ。


代わりに、口の中の味が消えないように、必死に舌を動かした。からしの刺激が薄れるたび、耳の奥の音が遠のく気がして怖い。


ピッ……ピッ……


(頼む、消えるな)


走って、走って、やっと土の窪みを抜けた先に、小さな塀みたいな岩場があった。そこに人間の兵士が数人、俺たちを見つけて声を上げた。


「こっちだ! 早く!」


腕を掴まれる。引っ張られる。

俺は抵抗できなかった。むしろ助けにすがった。


粗い布のテント。焚き火の煙。水の匂い。

戦場の中心から少し外れた場所――仮の陣地らしい。


「お前……さっきの結界、見たぞ」


短髪の兵士が俺を睨んだ。年は二十代後半くらい。目が鋭い。指揮官っぽい。


「名前は」


「こうた……」


「異邦の者か?」


「知らねぇよ……俺も今混乱してんだよ……!」


俺の声は震えてた。怒鳴ったつもりなのに、情けない。


指揮官は一瞬だけ眉を動かして、それから俺の横のリヴを見た。


「……その子は?」


リヴは答えなかった。

俺の袖を掴んで、ぎゅっと小さく握っている。握る力が弱いのが分かって、俺は焦った。


「水、あるか。あと……食い物」


「食い物?」


「なんでもいい! 味があるやつ!」


指揮官が怪訝な顔をしたけど、誰かが木の器に水を注いで持ってきた。俺は一気に飲む。喉が生き返る。


次に出されたのは、油っぽい匂いのする肉の塊だった。

揚げたのか焼いたのか分からない、硬そうな保存食。


俺はそれを受け取って、迷わずかじった。


ガリッ。


硬い。

でも――油の匂いがする。肉の味がする。塩気がある。


その瞬間、耳の奥の音がはっきりした。


ピッ、ピッ、ピッ……


(……っ!)


胸の奥が、じわっと温かくなる。冷えて固まってた何かが溶ける感じ。


俺は夢みたいに、もう一口かじった。


ピッ、ピッ……


音の間隔が、さらに詰まる。


横で、リヴがふっと息を吐いた。肩の力が少し抜ける。目の光が、ほんのちょっと戻る。


「……戻った?」


俺が小声で聞くと、リヴは頷いた。


「今は……大丈夫」


声はまだ小さい。けど、さっきよりは芯がある。


(やっぱりだ)


俺は噛みながら確信した。


味が必要なんだ。

味があると、俺の耳の奥で心電図が鳴る。

味が薄れると、間が伸びる。止まりそうになる。


そしてリヴも――弱る。


俺は喉の奥が熱くなるのを感じた。怖いのに、嬉しい。生きてるって実感が、口の中の油と一緒に戻ってくる。


「……今の音、何なんだよ」


俺が呟くと、リヴは目を伏せたまま言った。


「……あなたの今の音」


「今って、何だよ」


「……つながってる」


それ以上は言わなかった。

言えないんじゃなくて、言わない。そういう線引きが、リヴにはある。


指揮官が俺の顔を見て、低い声で言った。


「お前、何者かは後でいい。今は戦場だ。お前の力が必要になる」


「俺はトンカツが必要なんだよ」


思わず言ってしまって、場が一瞬止まった。


指揮官が「……は?」って顔をする。周りの兵士も困惑する。

俺も「何言ってんだ俺」って思った。でも――本音だった。


「トンカツがないと、俺……」


言いかけて、飲み込んだ。言ったら終わる気がした。自分の命が、食い物の残数で決まるなんて。


俺は手の中の保存食を見た。

一切れ。二切れ。量が少ない。しかも硬いから、ゆっくりしか食えない。


そして――


気づく。


俺のポケットの小袋は、もうほとんど空だ。

ソースは終わり。からしも、さっきで半分以上使った。


(……これ、何回分だ?)


耳の奥の音が、薄くなる。


ピッ……ピッ……


俺は慌てて、残った肉をもう一口噛んだ。

音が戻る。


ピッ、ピッ……


その動作が、怖かった。


食べる=生きる。

食べ終わる=……。


指揮官がテントの外を見て、短く命令を飛ばした。


「伝令! 王都へ戻る準備をしろ! 魔導師が出たと――」


俺は顔を上げた。


「魔導師?」


指揮官が俺を見て、はっきり言った。


「さっきの結界。あれを魔法と呼ばずに何と呼ぶ。お前は――いや、国はお前を放っておかない」


その言葉の意味が、じわっと遅れてきた。


(俺、今……戦争の真ん中にいる)


トンカツどころじゃない。

でも、トンカツがないと死ぬ。


矛盾してるのに、どっちも本当だった。


そのとき、リヴが俺の袖を引いた。

小さく、でも真剣な顔で。


「……こうた」


「ん?」


リヴは、テントの入り口の向こう――戦場の方角を見た。


「まだ……終わってない」


俺は息を呑んだ。


外の空気が、また薄くなり始めていた。


ピッ…………


音が、一回だけ鳴って。


間が、伸びた。

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