空腹の魔道士
空腹の魔導師
「――伏せて!」
リヴの声が耳のすぐ横で弾けた。
次の瞬間、俺の襟首がぐいっと引かれて、体が土の上を滑った。顔のすぐ横を、何かが風を裂いて通り過ぎる。遅れて、金属が石を削る嫌な音がした。
(槍……?)
背中を丸めたまま、俺は息を飲む。土の匂いが鼻に刺さる。焦げた布、鉄、血。さっきから何度も嗅いでるのに、慣れない。
頭を上げたくてたまらない。でも上げたら終わる。
リヴが俺の肩を押さえて、低い声で言った。
「見ないで。まだ」
(まだって何だよ)
心臓が喉までせり上がってくる。指先が冷たい。倒れたときの体が自分じゃなくなる感じが、嫌な形で蘇る。
(また、動けなくなるのか?)
震えが、足から上に登ってくる。俺は歯を食いしばって、必死に膝を曲げた。
そのとき――地面が揺れた。
ドン、ドン、ドン。
重すぎる足音。馬の蹄の音に似てるけど、もっとでかい。もっと質量がある。
影が、俺たちの隠れてる窪みに落ちた。
「――いたぞ!」
知らない言葉。なのに意味だけは分かる。叫びが剣先みたいに背筋をなぞって、俺の腹の底を凍らせた。
リヴが俺の手を握り直す。
「息。ゆっくり」
「む、無理……!」
声が掠れた。喉が乾いて、舌が張り付いてる。呼吸が短くなる。頭の中が白くなる。
(やめろ、ここでパニック起こしたら――)
でも止まらない。息が乱れる。視界が狭くなる。
その瞬間、耳の奥で――
ピッ……
小さく、乾いた音が鳴った。
(……また)
聞き間違いじゃない。確かに聞こえた。心電図の、あの世界の端っこみたいな音。
リヴは俺を見ていない。なのに、俺の混乱を知ってるみたいに言った。
「大丈夫。今、落ちてるだけ」
「落ちてるって何が……!」
「あなたの今が」
意味が分からない。分からないのに、腹だけは正直だった。
ぐう――
場違いな音が、情けなく鳴った。
(は? 今かよ……!)
笑えない。笑えないのに、腹が鳴ったことで、逆に現実感が戻る。俺は反射でポケットを探った。
紙の感触。ビニールの角。小袋。
レシート。ソース。からし。割り箸の袋。
(トンカツは……ない)
当然だ。トンカツは、食う直前で倒れたんだ。俺が持ってるのは付属品だけ。
影が動いた。窪みの縁に、馬の脚――いや、馬人の脚が見える。筋肉の塊みたいな太腿。鎧の擦れる音。鼻息。
「出てこい」
また、意味が分かる圧で言われた。
俺は体が固まるのを感じた。足が動かない。喉が鳴る。目の奥が熱い。
リヴが、俺の手を強く握る。
「聞いて。今から、あなたはやるだけ」
「やるって、何を――」
「生きること」
それだけ言って、リヴは俺の手の中のソース小袋を、指で軽く押した。
(え)
ビニールがへこんで、中の液体が少し動く。ソースの匂いがふわっと広がる。
その瞬間――
ピッ……ピッ……
耳の奥の音が、少しだけはっきりした。間隔も、ほんの少し詰まった気がした。
(……増えた?)
俺の喉が勝手にごくっと鳴る。気づけば、俺はソース小袋の端を歯で噛んでいた。
ぶちっ。
破れた。舌に、甘じょっぱさが広がる。濃い。刺激が強い。たったそれだけなのに、頭の中の白さが引いていく。
視界が、戻る。
(……動ける)
指が握れる。足の指が地面を掴める。肺に空気が入る。
馬人の影がさらに近づく。槍先が窪みの中に突き出される。
「――終わりだ」
槍が落ちてくる。
(やめろ)
俺は、反射で両手を上げた。ソースでべたつく指先。レシートがくしゃっと鳴る。割り箸袋が擦れる。
その一瞬、俺の口から言葉が漏れた。
「……やめろ!」
声は情けない。震えてる。でも、言った瞬間――
空気が、鳴った。
ドンッ、と。音じゃなく、圧。窪みの中の土埃が一斉に舞い上がって、俺の頬を叩いた。
槍が、止まった。
いや、止まったんじゃない。槍がそこから先へ行けなくなったみたいに、目の前でぴたりと固まっている。
馬人が目を見開く。
「……結界?」
結界? 何だそれ。俺は自分の両手を見た。
掌から、薄い膜みたいなものが広がっている。透明なのに、確かに面がある。空気が歪むみたいに揺れてる。
(俺が……?)
馬人が槍を押し込む。膜がたわむ。でも、割れない。
リヴが、小さく言った。
「今」
俺は何も考えず、残ってたソースを指先で弾いた。
ぴしゃっ。
濃い色の雫が空中に散って、次の瞬間――それが一瞬だけ線になった。文字みたいに。いや、模様? よく分からない。
でも、その線が走った瞬間、膜が強くなった。
槍が弾かれた。
馬人の巨体が、後ろにのけぞって、土を蹴って倒れる。重い音。鎧が鳴る。地面が揺れる。
俺は息を呑んで、ただ固まった。
(何が起きた)
俺が? 俺のせいで?
窪みの外から、別の声が上がった。
「うおおおおおっ!」
人間の兵士たちが突っ込んできた。剣が閃く。槍が刺さる。馬人が吠える。血が飛ぶ。
それでも俺は動けなかった。目の前の膜が、まだ残っている。俺の手の震えが止まらない。
兵士の一人が、俺を見て叫んだ。
「おい! 今の……!」
別の兵士が、目を見開いたまま言う。
「魔導師……? いや……そんな、こんな……」
俺はやっと言葉を絞り出した。
「俺、は……こうた……」
でも、兵士たちは俺の名前なんて聞いちゃいない。目の前で起きたありえないだけを見ていた。
「助かった……!」
「結界だ、結界を張った!」
「大魔導師が……現れた……?」
勝手に決めつけられていく。俺は喉が乾いて、唇を舐めた。ソースの味が、もう薄い。
(……これ、なくなったら)
不意に、耳の奥の音が遠のいた。
ピッ……
間隔が、伸びる。
俺の胸が、すっと冷たくなる。
(やばい)
そのとき、リヴが俺の袖を引いた。
「立てる?」
俺は頷こうとして、リヴの顔を見た。
――青白い。
ほんの少しだけ。さっきより目の光が薄い。唇の色も淡い。泣いてはいない。ただ、静かに弱い。
「リヴ……?」
「大丈夫」
即答だった。でも声が、ほんの少し小さい。
「行こ。ここにいたら、次が来る」
言われて初めて、俺は遠くの戦場を見た。馬人は一体じゃない。向こうに、何体もいる。いや、何十も。
(無理だろ……)
俺は足を動かした。動ける。動けるけど、ソースの味がもう残ってない。口の中が空っぽになるほど、胸の奥が不安になる。
走りながら、俺は必死にポケットを探った。
からしの小袋。まだある。
レシート。油染みのついたナプキン。
割り箸袋。
(これだけで、次も……?)
リヴが小さく言った。
「急いで。――味が切れる前に」
俺はその言葉の意味が分からなかった。分からないのに、なぜか確信だけが刺さった。
この世界では、味が命だ。
そして今の俺には――トンカツがない。
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土煙の向こう、兵士たちの背後から、別の影がゆっくりと現れた。
馬人よりもずっと静かで、ずっと嫌な気配。
空気が、薄くなる。
音が、遠のく。
リヴが足を止めた。俺の袖を掴む手が、震えた。
「……来た」
俺は喉を鳴らした。
「何が」
リヴは答えなかった。答えられないみたいに、唇を結んだ。
耳の奥で、心電図の音が――
ピッ…………
一回、間が空いた。
そして、次の音が来ないまま、影がこちらへ近づいてきた。




