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TONKATSUが尽きたら、俺は死ぬ  作者: 茶碗蒸し
トンカツはどこにある。
2/9

空腹の魔道士

空腹の魔導師


「――伏せて!」


リヴの声が耳のすぐ横で弾けた。


次の瞬間、俺の襟首がぐいっと引かれて、体が土の上を滑った。顔のすぐ横を、何かが風を裂いて通り過ぎる。遅れて、金属が石を削る嫌な音がした。


(槍……?)


背中を丸めたまま、俺は息を飲む。土の匂いが鼻に刺さる。焦げた布、鉄、血。さっきから何度も嗅いでるのに、慣れない。


頭を上げたくてたまらない。でも上げたら終わる。


リヴが俺の肩を押さえて、低い声で言った。


「見ないで。まだ」


(まだって何だよ)


心臓が喉までせり上がってくる。指先が冷たい。倒れたときの体が自分じゃなくなる感じが、嫌な形で蘇る。


(また、動けなくなるのか?)


震えが、足から上に登ってくる。俺は歯を食いしばって、必死に膝を曲げた。


そのとき――地面が揺れた。


ドン、ドン、ドン。


重すぎる足音。馬の蹄の音に似てるけど、もっとでかい。もっと質量がある。


影が、俺たちの隠れてる窪みに落ちた。


「――いたぞ!」


知らない言葉。なのに意味だけは分かる。叫びが剣先みたいに背筋をなぞって、俺の腹の底を凍らせた。


リヴが俺の手を握り直す。


「息。ゆっくり」


「む、無理……!」


声が掠れた。喉が乾いて、舌が張り付いてる。呼吸が短くなる。頭の中が白くなる。


(やめろ、ここでパニック起こしたら――)


でも止まらない。息が乱れる。視界が狭くなる。


その瞬間、耳の奥で――


ピッ……


小さく、乾いた音が鳴った。


(……また)


聞き間違いじゃない。確かに聞こえた。心電図の、あの世界の端っこみたいな音。


リヴは俺を見ていない。なのに、俺の混乱を知ってるみたいに言った。


「大丈夫。今、落ちてるだけ」


「落ちてるって何が……!」


「あなたの今が」


意味が分からない。分からないのに、腹だけは正直だった。


ぐう――


場違いな音が、情けなく鳴った。


(は? 今かよ……!)


笑えない。笑えないのに、腹が鳴ったことで、逆に現実感が戻る。俺は反射でポケットを探った。


紙の感触。ビニールの角。小袋。


レシート。ソース。からし。割り箸の袋。


(トンカツは……ない)


当然だ。トンカツは、食う直前で倒れたんだ。俺が持ってるのは付属品だけ。


影が動いた。窪みの縁に、馬の脚――いや、馬人の脚が見える。筋肉の塊みたいな太腿。鎧の擦れる音。鼻息。


「出てこい」


また、意味が分かる圧で言われた。


俺は体が固まるのを感じた。足が動かない。喉が鳴る。目の奥が熱い。


リヴが、俺の手を強く握る。


「聞いて。今から、あなたはやるだけ」


「やるって、何を――」


「生きること」


それだけ言って、リヴは俺の手の中のソース小袋を、指で軽く押した。


(え)


ビニールがへこんで、中の液体が少し動く。ソースの匂いがふわっと広がる。


その瞬間――


ピッ……ピッ……


耳の奥の音が、少しだけはっきりした。間隔も、ほんの少し詰まった気がした。


(……増えた?)


俺の喉が勝手にごくっと鳴る。気づけば、俺はソース小袋の端を歯で噛んでいた。


ぶちっ。


破れた。舌に、甘じょっぱさが広がる。濃い。刺激が強い。たったそれだけなのに、頭の中の白さが引いていく。


視界が、戻る。


(……動ける)


指が握れる。足の指が地面を掴める。肺に空気が入る。


馬人の影がさらに近づく。槍先が窪みの中に突き出される。


「――終わりだ」


槍が落ちてくる。


(やめろ)


俺は、反射で両手を上げた。ソースでべたつく指先。レシートがくしゃっと鳴る。割り箸袋が擦れる。


その一瞬、俺の口から言葉が漏れた。


「……やめろ!」


声は情けない。震えてる。でも、言った瞬間――


空気が、鳴った。


ドンッ、と。音じゃなく、圧。窪みの中の土埃が一斉に舞い上がって、俺の頬を叩いた。


槍が、止まった。


いや、止まったんじゃない。槍がそこから先へ行けなくなったみたいに、目の前でぴたりと固まっている。


馬人が目を見開く。


「……結界?」


結界? 何だそれ。俺は自分の両手を見た。


掌から、薄い膜みたいなものが広がっている。透明なのに、確かに面がある。空気が歪むみたいに揺れてる。


(俺が……?)


馬人が槍を押し込む。膜がたわむ。でも、割れない。


リヴが、小さく言った。


「今」


俺は何も考えず、残ってたソースを指先で弾いた。


ぴしゃっ。


濃い色の雫が空中に散って、次の瞬間――それが一瞬だけ線になった。文字みたいに。いや、模様? よく分からない。


でも、その線が走った瞬間、膜が強くなった。


槍が弾かれた。


馬人の巨体が、後ろにのけぞって、土を蹴って倒れる。重い音。鎧が鳴る。地面が揺れる。


俺は息を呑んで、ただ固まった。


(何が起きた)


俺が? 俺のせいで?


窪みの外から、別の声が上がった。


「うおおおおおっ!」


人間の兵士たちが突っ込んできた。剣が閃く。槍が刺さる。馬人が吠える。血が飛ぶ。


それでも俺は動けなかった。目の前の膜が、まだ残っている。俺の手の震えが止まらない。


兵士の一人が、俺を見て叫んだ。


「おい! 今の……!」


別の兵士が、目を見開いたまま言う。


「魔導師……? いや……そんな、こんな……」


俺はやっと言葉を絞り出した。


「俺、は……こうた……」


でも、兵士たちは俺の名前なんて聞いちゃいない。目の前で起きたありえないだけを見ていた。


「助かった……!」


「結界だ、結界を張った!」


「大魔導師が……現れた……?」


勝手に決めつけられていく。俺は喉が乾いて、唇を舐めた。ソースの味が、もう薄い。


(……これ、なくなったら)


不意に、耳の奥の音が遠のいた。


ピッ……


間隔が、伸びる。


俺の胸が、すっと冷たくなる。


(やばい)


そのとき、リヴが俺の袖を引いた。


「立てる?」


俺は頷こうとして、リヴの顔を見た。


――青白い。


ほんの少しだけ。さっきより目の光が薄い。唇の色も淡い。泣いてはいない。ただ、静かに弱い。


「リヴ……?」


「大丈夫」


即答だった。でも声が、ほんの少し小さい。


「行こ。ここにいたら、次が来る」


言われて初めて、俺は遠くの戦場を見た。馬人は一体じゃない。向こうに、何体もいる。いや、何十も。


(無理だろ……)


俺は足を動かした。動ける。動けるけど、ソースの味がもう残ってない。口の中が空っぽになるほど、胸の奥が不安になる。


走りながら、俺は必死にポケットを探った。


からしの小袋。まだある。

レシート。油染みのついたナプキン。

割り箸袋。


(これだけで、次も……?)


リヴが小さく言った。


「急いで。――味が切れる前に」


俺はその言葉の意味が分からなかった。分からないのに、なぜか確信だけが刺さった。


この世界では、味が命だ。


そして今の俺には――トンカツがない。



---


土煙の向こう、兵士たちの背後から、別の影がゆっくりと現れた。


馬人よりもずっと静かで、ずっと嫌な気配。


空気が、薄くなる。

音が、遠のく。


リヴが足を止めた。俺の袖を掴む手が、震えた。


「……来た」


俺は喉を鳴らした。


「何が」


リヴは答えなかった。答えられないみたいに、唇を結んだ。


耳の奥で、心電図の音が――


ピッ…………


一回、間が空いた。


そして、次の音が来ないまま、影がこちらへ近づいてきた。

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