最後のひと口
トンカツって、なんであんなに生きてる味がするんだろうな。
サクッ、ジュワッ。衣の音と肉汁の熱で、頭の中のモヤが全部吹き飛ぶ感じ。
俺――こうたは、その一撃が欲しくてたまらなかった。
大学の帰り、いつもの店。カウンターの奥で揚げ油が鳴ってて、店主の手元から湯気が上がる。
目の前に置かれた皿は、黄金の塊みたいに光っていた。
「お待ち」
俺はうなずいて、箸を割る。
袋から出した割り箸が、少しだけささくれてる。どうでもいいのに、なぜかその感触がやけに現実的だった。
ソースはいつも通り。からしも小袋のまま机の端に置く。
レシートも無駄に丁寧に財布に挟む癖がある。貧乏くさいけど、なんとなく落ち着くんだよな。
……よし。
箸で一切れをつまみ、口の前まで持っていく。
香りが来た。揚げ油の甘い匂いと、肉の熱。胃が一瞬で目を覚ます。
「いただきま――」
そこまで言いかけた瞬間。
舌が、変な感じになった。
噛む前なのに、口の中が勝手に痺れていく。いや、痺れっていうか、言葉が喉の手前で絡まる。
(……あ?)
俺は眉をひそめて、もう一回声を出そうとした。
「い、た――」
出ない。
口が、自分のものじゃないみたいだった。
指先が冷たくなる。箸を持ってる右手が、じわっと重い。
トンカツはまだ目の前で、湯気を上げているのに、距離が急に遠くなった。
店の音が、ぐにゃっと歪む。
「お客さん?」
店主の声。
返事しようとしたのに、喉の奥が固まって、空気だけが漏れた。
(やば……)
焦りが脳を殴った。その瞬間、世界が少しだけ傾いた。
視界の端が暗くなる。明かりが落ちるみたいに。
俺はトンカツから目を離せなかった。
箸の先で持ち上げたそれが、やけに綺麗に見えた。
(食わせろ)
ただそれだけが、強かった。
(今じゃなくていい、せめて一口――)
右手が震えて、箸が落ちた。木の音がカウンターに軽く跳ねて、床へ転がる。
店主が立ち上がる気配がする。誰かが「救急車」って言った気がした。
でも、俺の世界はもうトンカツの上にしかなかった。
ソースの小袋。からし。割り箸の袋。レシート。
なんでか知らないけど、それらが頭の中に浮かんで、妙に鮮明だった。
次の瞬間、胸の奥が――ぎゅっと締まった。
痛い、じゃない。
止まる感じ。
喉の奥から変な音が出て、俺は椅子からずり落ちた。
床が近づく。
誰かの靴。誰かの叫び。
耳の奥で、遠くから水の音みたいなものがして――
世界が、ぶつっと切れた。
目を開けると、空があった。
青い。
いや、青いんだけど、薄く煤が混ざってる。風が臭い。鉄と土と、焦げた布の匂い。
(……どこだ、ここ)
背中が痛い。硬い地面。小石が肩甲骨に食い込んでる。
俺は起き上がろうとして、腹が鳴った。
ぐう。
一瞬、恥ずかしくなる。でも状況がそれどころじゃなかった。
周りがうるさい。
叫び声。金属がぶつかる音。馬のいななき――いや、馬じゃない。足音が重すぎる。
視界の端を、何かが走り抜けた。
鎧。
槍。
血。
(うそだろ)
俺の脳が現実を拒否してるのが分かった。
でも、空気の冷たさと地面の硬さが“本物”だった。
俺は反射でポケットに手を突っ込んだ。
財布。スマホ――ない。
代わりに、指先に触れるのは、紙の感触と、ビニールの角。
レシート。
ソースの小袋。
からし。
割り箸の袋。
(……は?)
なんでそれだけ、こんなに揃ってるんだ。
混乱してる間に、頭上で何かが唸った。
でかい影が落ちる。
俺は見上げて、息が止まった。
人が――いや、人じゃない。
上半身は人間みたいに鎧を着てるのに、腰から下が馬の形をしている。
巨体が槍を振り上げて、目の前の兵士を叩き潰した。
血が飛んだ。
赤い熱が頬に当たって、俺は反射で顔を背けた。
(死ぬ)
脳がシンプルな答えを出した。
俺は這うように後ずさった。逃げたいのに足が動かない。
あの時みたいに、体が言うことを聞かない。
ただ、違う。今度は痺れじゃなくて、恐怖で固まってる。
「――こっち」
声がした。
すぐ横。
いつの間にか、俺の隣に少女が座っていた。いや、座ってたというより、最初からそこにいたみたいな自然さだった。
年は……中学生くらい?
黒っぽい外套を羽織ってて、髪は乱れてるのに目だけが妙に落ち着いてる。
俺は言葉が出なかった。
少女は、俺のポケットの中身をちらっと見て、次に俺の顔を見た。
そして、当たり前みたいに言った。
「生きたい?」
心臓が跳ねた。
その問いが、戦場の叫びよりも大きく聞こえた。
俺が頷くより先に、少女は続ける。
「……なら、食べよ」
彼女の指が、俺の手の中の小袋――ソースに触れた。
その瞬間、耳の奥で、聞いたことのない音が鳴った気がした。
ピッ……
(……何だ、今の)
俺が息を呑んだところで、少女――リヴは小さく笑うでもなく、ただ真剣な顔のまま、もう一度言った。
「大丈夫。まだ、間に合う」
そして俺の手を、強く握った。
感想の方、気になった点などでも構いませんのでよかったらよろしくお願いします。




