6.俺が彼女に望むことは
目を白黒させている俺を不思議そうに眺めていたマヤが、突然ふありと笑った。
「なに?」
「んー」こてん、とマヤが小首を傾げる。「一兄、あたしの言うこと、全部信じてくれるんだね」
それが嬉しいの。マヤは言う。
確かに。荒唐無稽の話だ。他人から聞けば、到底信じられないような。マヤが言うから、俺は信じた。信じると決めたから。
根拠なんて無い。だというのに、ああそうだったのか、と。そうやって自然に受け入れ、納得していた。自分でもとても不思議だ。
「まあ女子高生が急に押し掛ける展開自体が、余程有り得ない話だったからなぁ……」
有り得ないこと続きで、感覚が麻痺しているのかもしれない。
――それに。
「マヤがムゥだって言われて、しっくりきた自分もいる」
ストラップの件だけではない。視線の動かし方、気配そのもの。そういったひとつひとつに感じていた既視感の正体は、つまりこういうことだったのだ、と。
「何より、俺はムゥに……マヤに、また会えて嬉しい」
無理を押し通してでも、彼女は一番に俺のところに来てくれた。それがとても嬉しい。
「気持ち悪いなんて思わない。嘘だなんて思わない。――来てくれて、ありがとう」
きゅ、と唇を結んだマヤは、「も、もー」と何故かどもりながら、怒った声を出す。
「そうやって、すぐ信じるとね、危ないんだよ。昔っからそう! それで損しちゃうんだから。こうやってあたしみたいなのに付け入れられちゃうんだから!」
「ご安心を。アレから何年過ぎたと思ってんの。十五年だぞ? 流石になんでもかんでも信じる程、純粋じゃない」
「嘘ばっかり!」
マヤは俺を詰る。細い腕が、俺の顔に伸びた。
「……泣いてるし。変わってない」
自分の瞳に、滲むものは浮かんでいない。けれどまるでそこに流れるものがあるかのように彼女の指先が目の下をスッと撫でる。耳まで真っ直ぐに流れた指が顔から離れ、首に回った腕が俺の頭を抱き込むように引き寄せた。
香りが近付く。ぎゅっと抱き着いてきたマヤが掠れた声で囁いた。
「貴方が泣いてる時、ずっとこうしたかった」
ばくり、と心臓が不自然に大きく鳴った。彼女はそんな俺のことなどちっとも気付きもしない。
「抱き締めたくて会いに来たんだよ。――憶えていてくれてありがとう。信じてくれてありがとう」
身体が離れる。それでも十分近い距離。マヤは潤んだ瞳を俺に向けた。
「だいすき」
ただの親愛だけではないことは、明らかだった。自身の恋愛経験は少ないが、ラブかライクか、その程度なら見極められる。
「俺も。って応えたいとこだけど」あえて苦笑を浮かべる。そうでもしなければ、流されそうだった。「法に触れるから、な」
いくら否定したところで、交際をしている男女が同じ家に住んで、ナンニモアリマセン、はなかなか通用しないように思う。法の上で証拠不十分になろうが、なんというか――人間の心理的に。その時に鋭い切っ先を向けられるのが好きな女だなんて、耐えられない。その原因が自分? ますます笑えない。
「越えちゃえばいいのに」
そんなに変わらないよ、とマヤはぷくりと頬を膨らませた。一理あるといえば、ある。今一緒に暮らしている事実が消えない以上、実際の交際スタートが今になろうが後になろうが、疑う人は疑い、指差して疎むだろう。
でもな。そういうことじゃないんだよ。
「俺、悪いオトナになりたくないし。もっと真剣に考えたい。マヤに、後ろ指をさされる彼氏を持たせる気なんて無い。なんか言われた時に、後ろめたい気持ち抱えて対抗したくない。自慢の男になるから、待って」
ふうん。マヤは鼻をひくりと動かして、小首を傾げる。少しの照れも含んだ反応だ。「もう自慢なんだけどなー?」と嘯きながら、彼女はにんまりとした笑みを見せた。
「でも、いいよ。一兄も、待っててね。あたし、もっと良い女になるから、ね?」
確かにまだまだ子供だもんな、と笑えば、一兄ってば失礼! と不服そうにしている。とはいえこっちとしては、この上色香まで備えられては気が気じゃないから、頼むからそのままでいてくれよ、と願わずにはいられない。
「……あ、でも人間の女の子は十六歳で結婚できるんだよね。そしたら合法だよ。ちなみにあたしの誕生日、一兄と同じなんだよー。あと数日!」
時が止まった。彼女は今年、高校に入学。高校一年生って、十六歳になるんだよな?
悪い笑みを浮かべたマヤが、にじり寄ってくる。俺は思わず後退りをした。
「……い、いやいやいやいや! そういうのはまだちょっと早くないか!? もっと、その、つまり……大事に決めるもんだろ!」
必死の形相をしている俺を前にしても、彼女はケロリとしている。
「あたし、一兄に会いたくて生まれ変わっちゃうくらい本気だよ。これ以上ってなかなかないと思うけど。それに早いっていうけど、片想い歴二十年だもん。人間としての実年齢以上なんだよ?」
「恋人期間はゼロだろう!?」
「恋に時間は関係無いって誰かが言ってた」
「さっき片想い歴を出してきた口で何を逆のこと言ってんだ、お前!」
「まあまあ」
何が、まあまあ、だ。一見すると宥めているような言葉だが、獲物を目の前にした時のような目をしているので台無しだ。油断させる魂胆か、あるいは観念しろという意味なのか。おかしい、ウサギって草食系じゃないのか。それとも月のウサギは肉食が主流なのか?
――後で冷静になって振り返ると、我ながら訳のわからない思考回路になっていた。相当混乱していたらしい。どこかで配線を間違えている。
襟をむんずと掴んだマヤは、一気に距離を縮めると、踵を浮かせた。唇に、柔らかい感触。とうとう脳はショートした。
「今度こそ、先に死んだりしないから。だから一緒にいよう」
長年の付き合いは厄介だ。マヤを前にして、天を仰ぐ。先程まで子供っぽく騒いでいた女の子は、今はどこか誘うような色を含んだ瞳を、それでいて俺を見透かし弱さを許すような瞳をしている。俺の知っているムゥじゃない。いや、そりゃ、当然だけど。
質問形式にしてくれたら、駄目だ、と答えるのに。彼女はそれすら剥ぎ取って、まるで決定事項のように語る。
自覚があった。俺、割と流されやすいんだ。今だって、既に観念したような気持ちになっている。
はー、と大きく息を吐く。
「にしても、妖怪かー。そんな、えーと、野良妖怪団体? ってのが機能するくらい、妖怪って多いのな。初めて知った」
「え、何言ってるの?」
マヤがぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「いっぱいいるのに、一兄の周り」
「……え?」
目を丸くする俺の目の前で、マヤが「あの人でしょ〜、この人でしょ〜」と指折り数えていく。待て、ちょっと待て。知り合いがどんどん挙がっていく。あまりにも衝撃的過ぎて、止めるタイミングすら掴めない。
しかも、弟の嫁が勢揃いしてるんですけど?
同じことを思ったのか、彼女は、ふふ、と笑う。
「これだけ揃ってると圧巻だよね。もう古市家の血に、妖怪を引き寄せるナニカがあるとしか思えない!……あっ、でも、一兄はあたし以外を引き寄せちゃ駄目だからね!」
「その心配は無いけどな……」
呆然とする頭で、反射的に言葉が漏れる。マヤが嬉しそうな顔をした。あー嬉しそうだな、と真っ白な頭が、事実をなぞる。それ以上のことができない。
「あ、観たいドラマが始まる時間だ!」
行こ、とマヤが俺の腕を掴んで引っ張った。為すがままに連行される。
「…………え? 待って、俺ら兄弟の嫁さん、全員妖怪なの?」
俺が正常に動き始めたのは、マヤと一緒にリビングのソファに隣り合って座りテレビを観賞し、一時間ドラマのエンディングの音楽が流れ始めた頃だった。
遅いよ、と流石のマヤも呆れていた。




