5.俺の虚勢、君の強がり
「……で?」
「……で。その、……あー、そのな」
目を泳がす。自分のあまりに荒唐無稽で、かつ纏まってすらいない考えを、口にするのが嫌だった。しかし彼女は誤魔化しを許すつもりは無いらしく、はーやーく、と口パクで強請ってくる。
「えー、あー、……その携帯ストラップ」たどたどしく、彼女の携帯を指差す。これ? と彼女が小首を傾げる。鈴がチリンと鳴った。そう、それ。俺は無言で頷く。「それ、思い入れ、あるもの?」
彼女の顔から感情が消える。一拍置いて、口を開いた。
「どうしてそんなこと訊くの?」
「どうして、って……」
俺にだってわからない。ただ妙に気になるのだ。困り果てて、眉尻を下げる。口をもごもご動かしている間に、ここまで来たからにはもう全てをぶちまけてやる、というやけっぱちな結論に至った。ふー、と長く息を吐く。よし、と気合を入れた。
「その柄、俺が中学まで飼ってたうさぎが身に着けてたものと、よく似てるんだ。ほら、部屋に飾ってあった、俺の写真。あそこに映ってる、あの子」そこまで言い、声を潜める。「自分でも、なんでそんなことが気になるのかわからないんだけどな。でも落ち着かなくて」
言葉にすると、ますます要領を得ない考えになった。居た堪れない気持ちになって、俯く。
「――偶然じゃない、って言ったら?」
マヤにしてはやけに静かな声が耳朶を打った。え、と間の抜けた声が口から漏れ出る。反射的に顔を上げると、真剣な瞳とかち合う。
「あたしがムゥのことを知っていて、だからこの鈴を、ママに頼んで作ってもらったって言ったら、どうする? なんで知ってるんだって訊く? なんでそんなことしたんだって言う? 気持ち悪いって思う? 嘘だろって詰る?――それとも、あたしのこと、信じてくれる?」
勢いのある言葉の波に、呑まれた。思わず言葉を失った俺を前に、マヤは「なーんてね!」と急に破顔した。言葉の弾丸をひとつ発射する度にどんどんと強張っていった肩の力を、ふっと抜いて。
「ジョーダンだよ。偶然だってば。偶然に決まってるでしょ?」
けらけらと笑ってから、真っ直ぐに俺を射抜く。
「まさかと思うけど、一兄」唇は弧を描き、目はスッと細まる。揶揄うように、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。「本気にしちゃった?」
――――――ああ。
その精一杯な嘘吐きの笑顔を。自然を装い言葉を放った後、堪えきれず微かに震えた唇を。最初から、きつく握り締められたままの拳を。
ほんとうは、こわい、こわいって泣いている、目の前のちいさな女の子を。
ここで逃したら、それこそ、男としても、年上としても、終わってんだろうが。
「もー。深刻そうな顔してるから何かと思えば、そんなことだったなんて。最初から言ってくれればいいのに」
話は終わったとばかりに振る舞い、俺に背を向けた彼女の腕を掴む。その細さに驚く。最初に出会った時にも彼女の腕を同じように掴んだのに、こんなにも細かった記憶が無い。驚いて目を丸くさせていると、同じように、いや俺以上に驚きを顕にしているマヤが、薄く口を開けて惚けていた。そうだ、俺が驚いている場合じゃない。
「したよ。本気にした」
断言すると、心の靄が晴れていった。
「正直俺は何もわかってない。何がわかっていないのすら。だから教えてくれ」
俺は与えられた情報の中でしか、判断ができない。その情報からわかる、唯一絶対のこと。彼女は何かを隠している。大事な何かを。
思えば初めから、望むことはたったのひとつだった。
「……お前は誰なんだ?」
その、答えを。
「誰、って」唇が、くにゅりと不自然に蠢いた。「輝夜マヤだよ」
「違う。そういうことじゃない。……そうだろ? わかってんだろ? お前、俺に言っていないことがあるよな」
怯えた瞳は、俺に向けられたものではない。もっと別のものだ。
「マヤ」
促すように名を呼ぶ。彼女が驚いて俺を見上げたことで、俺は、初めて彼女の名前を口にしたことに気付いた。
「信じる。理解が追い付かないことでも、なんでも。全部ひっくるめて、マヤを信じるから」
だから、俺に教えてくれ。お前はいったい誰だ。俺たちはどこで出会って、どう過ごしてきたんだ。マヤは俺の癖を知っている。長い時を共にしなければ、わからないようなことを。お前はいったい、どこでそれを知ったんだ?
マヤは俺を睨みつけた。少しでも怯んだ様子を見せたら、この話は有耶無耶にして、これまでの生活に戻ろう。そう思っているようだった。昔の俺なら押し負けて、視線を逸らしていたかもしれない。だが生憎、ここ一番と思う時に虚勢を張れるくらいには、俺は大人になっていた。培ってきた分厚い仮面を、今ここで使わないでどうする。俺はその場でどっしりと構え、彼女に微笑み返した。俺が負けるはずがない。そういう空気を意図的に作り出す。
相手の顔に動揺が走る。それから、くしゃりと歪んだ。はくはくと動いた口が、拙く音を紡ぐ。
「あ、あたし、あたし……」彼女は、不安げに眉間に皺を寄せた。「あたし、本当は、……信じられないと思うけど、本当は」
うん、と相槌を打つ。彼女の唇が戦慄いた。
「本当は、うさぎなの。ムゥは、あたし」
それは到底『普通』や『常識』といったものとはかけ離れた発言だったはずなのに、何故か俺の心は穏やかなままだった。まるで最初からわかっていたことかのように、すとん、と心の奥に嵌る。うん、そうか。頷く。うん、それで? と先を促す。
堰を切ったように彼女は語る。
「あたしは月で生まれて、地球に来て、一兄のとこに貰われたの。……本当は、五年で帰る規則だった。でも帰りたくなくて。ずっとあそこで暮らしていたかった。一兄の傍が良かった。だから無理を言って、伸ばして、伸ばして、せめて一兄の卒業式までってお願いして」
月で生まれたうさぎは、幼少期を安全に生き抜くために、地球に行き、人間の保護下で暮らす。そうして一定期間を過ごすと、生まれ故郷に帰る。どれだけ粘ろうが、それは違えられない規則だ。例外は無い。だからそれが、彼女ができる限界だったのだと言う。
約束を守りマヤは月に帰った。
けれど。
「最後まで我が儘を聞いてもらって、特別に長い期間を過ごすことができたんだから、それで満足するべきだって、何度も何度も自分に言い聞かせた。けど無理だった。だって、一兄はここにいるのに。あたしは、まだ生きているのに。全部忘れて、月で幸せになりなさい、なんて。そんなの嫌。我慢なんてできない。――だから飛び出してきちゃった」
べ、と舌を出す。俺はそこで大人の余裕をかなぐり捨て、ぽかりと口を開けた。待て、今、聞き間違いでなければ、飛び出した、とか言わなかったか。
「じゃあ、ほんとに家出娘だってわけか?」しかしそれならそれで疑問が生じる。「それならあの電話口の母親は誰だ? それに母さんの話は?」
「それは、その……家出というか、やり直したというか」
「やり直した?」
「えーと、わかりやすく纏めると、生まれ変わった、になるのかなー?」
えへ、と誤魔化すように笑う。生まれ変わる。……え? 生まれ変わる?
「い、いっぺん死んでるじゃないか!」
「そうとも言う」
そうとも言う、じゃねえよ!
怒鳴ると、「仕方なかったのー」とマヤは口を尖らせた。そうしていると、本当に子供だ。いや、最初から子供だって知っていたけど。しかし彼女がムゥだとしたら、実年齢は二十代半ばということになるのに――いや、うさぎ年齢に直すと……いくつだ? ああ、でも元々あの子は割合最期まで子供っぽかったからなあ――。
好物を前にして鼻をひくひくと動かしていたムゥを思い出していると、目の前のマヤは握った拳を上下に振って大袈裟にアピールしていた。
「月からの追っ手、もといお迎えを撒くには完全に縁を切る必要があったから、あたしも必死だったんだよ! こそこそと情報調べたり、野良妖怪団体に加盟したり!」
「の、のらようかいだんたい?」
野良犬、野良猫、のようなノリのネーミング。それで良いんだろうか。疑問に感じたが、当の本人は特に気にした様子は無い。むしろ胸を張っている。
彼女曰く、『野良妖怪団体』は、『野良の妖怪、あるいは野良になりたい妖怪、それから野良の妖怪を支援したい人から構成される私営団体』のことだそうだ。それ以上の説明も受けたけれど、専門用語(妖怪用語?)が多過ぎて理解できなかった。とにかく、その団体の指示で、人間に生まれ変わることにしたらしい。どういう工作をしたのか、両親はどちらも野良妖怪団体の団員。まるで命を操っているかのようなやり方に、空恐ろしさを覚える。
「敵対しなければ害は無いよ」
マヤはにっこり笑う。敵対しなければ。なるほど……もし敵対、したら? 俺はそこから先を、あえて考えないことにした。世の中には、深く踏み込まない方が良いこともある。これがそのひとつだ、と直感が告げていた。
俺にはそんなに関係の無いことだしな。自分に納得させようとしたところで、マヤが「一兄のママも野良妖怪さんだから、話がスムーズにいって助かったの!」と問題発言をしたため、言葉を失う。がっつり関係あるじゃないか。
「……待った。てことは俺、純人間じゃないのか?」
この歳になって知る、衝撃の事実である。そういう出生の秘密とかは、成人を迎えた折に伝えたりするもんじゃないのか。とはいえ、言われたところで信じたかどうか。なにしろうちの母親は変わったところなどちっともないし――強いて挙げるとすれば、少々ドジなところだが、それは妖怪の根拠にするにはあまりにも弱い――、俺も弟たちも、そんな特殊な能力を持っていない。至って普通の能力で、至って普通に生活している。
……え? でも俺、100パーセント人間、だろ?




