4.俺の写真と兎の思い出
マヤの荷物が届いたのが、その二日後。荷解きをして、家中に彼女の私物が増えたのが更に一日後。それらに見慣れたのは、それから一週間が経ってからだった。その頃になると、家事の分担も大体決まっていた。マヤは朝晩のご飯と洗濯が担当。気付けば我が家の台所事情に精通し、学校へ持っていくお弁当も作るようになっていた。
「ついでだから、一兄の分も作ろっか?」
悪戯っぽく笑いながらの申し出は、丁重にお断りした。そんなことをしてみろ、職場の連中の反応が怖い。
週末。時間を作って掃除を敢行する。その日マヤは友達と遊びに行くとかで、家を空けていた。だからこそ、またとない機会に、思いきり掃除をしてやろうと思ったのかもしれない。
勝手に入るのは悪いかと思いつつも、まあ人に見られて困るようなものは見える場所に置かないだろう、という考えのもと――これはもはや、弟に対する時と同じだった。実家では、基本的には俺か母が掃除当番だったので――彼女にあてがった客間の掃除も行う。
「……ん?」
机の上に、写真立てが飾ってあった。丁寧に扱われていることが、なんとなく伝わってくる。その中に収まっているのは――俺だ。
予期せぬ攻撃に、息が詰まる。そうだ。生活を共にしている間につい忘れそうになっていたが、彼女は俺と面識があると最初に言っていた。忘れてしまったのか、と。揶揄うように笑いながら。
――彼女が家に来たすぐの頃は、知らなかった。今は、違う。少しだけ、彼女のことがわかってきた。悪戯っぽく、揶揄うように笑う時は、本当は、真剣な時。真剣だけれど、それを相手に気付かれたくない時。傷付くのが嫌で予防線を張っている時。……それだけ、大事な発言をする時。
忘れられて、それでも気にならないなんて、そう言える人がこの世の中にどれほどいるだろう。俺なら、嫌だ。
彼女は言ったじゃないか。『思い出してね。宿題だからね』。
写真の中の俺は、中学生に上がったばかりのガキだった。やけにむっつりとした顔をしているのは、照れ隠しだろう。いつもは兄弟全員で撮るのに、この時は一人だったようだ。代わりに腕の中に、うさぎのムゥがいる。
――ムゥ。
今になってようやく、自然と思い出すことができる存在だ。亡くなった直後は酷かった。家のどこを見てもムゥとの思い出が溢れていて、家にいることが辛かった。なんの前触れも無く突然泣き出す俺を、家族は心配し、慰めるように「ほんと兄弟一の泣き虫だ。さすが一兄。もっと泣けば良い」と笑った。
ムゥが亡くなったのは、俺が中学の卒業式を迎えた、次の日だ。老衰だった。十年と七ヶ月も生きたのだ。大往生だ。しかしそうとわかっていても寂しかった。物心ついた時からずっと一緒だったのだから。
弟しかいない俺にとって、唯一の妹だった。
今後もしペットを飼うのだとしても、ムゥは特別だ。ムゥの代わりはどこにもいない。当たり前だけれど。
今、当時の悲しみは薄れ、ようやく穏やかにその思い出を語ることができる。ムゥが水を引っくり返して驚きつつも、まるで誤魔化すようにツンと澄ました顔をしていたことや、好物の人参の葉っぱ――何故かあの子、人参本体よりも葉っぱの部分が好きだったのだ――に対する執着心が凄かったこと。俺が目を覚ますと、何故かいつもこちらをじっと見ていたこと。
いないことが当たり前になったことは寂しい。冷蔵庫の中、廊下に置いた餌やトイレ用品、使われなくなった玩具。朝、目覚めた時にあの子のことを思い出すと、やはり物足りなさを覚える。こちらを見つめる視線が足りない。傍にあの子がいない。
寂しくて、寂しくて、仕方がなくて。それでも思い出を語り笑うことで、心に温かい火が灯る。
喪ったことは悲しいけれど、それなら会わなければ良かったと思えないのは、思い出のひとつひとつに温もりが残っているからだ。
「懐かしいな、こんな写真あったのか」
口元が緩む。指先で、そっと写真を撫でた。
「……ん?」
不意に目に留まったのは、ムゥのハーネスだった。うさぎはそんなに外出が好きではないという話だったが、あの子の場合は、むしろ積極的にずんずんと進んでいた。なにかと好奇心旺盛な子だった。
ハーネスは、屋外に出る時にのみ着用していた。そんなに数はなくていいはずなのに、何故か母がお手製ハーネスに嵌りに嵌り、割と種類が豊富だったように思う。中でもこの写真で着ている振袖のような赤い和装ハーネスは、ムゥのお気に入りだった。確かに漆黒の毛並みによく映えていたのだが、俺がムゥを連れて歩くには、かなり恥ずかしかったので、敬遠していた覚えがある。
この柄、つい最近どこかで見たと思ったら、マヤが携帯につけている鈴と同じだ。空似、と断じるには、あまりにも似ている。むしろ生地が一緒なのではないかとさえ思える。
この写真を見て、似た鈴を探したのではないか。いや、さすがにそれは考え過ぎだ。だが、……これは本当に偶然なのか? でも、偶然じゃないとしたら、いったいなんの意図があるというんだ。
どれほどの間、そうしていたのか。
玄関のドアが開く音がした。
「ただいま〜っ!」
「っ、お、おかえり!」
慌てて掃除を再開する。すぐに背後で部屋の扉が開いた。「あ。掃除中? お邪魔かな」と何故かこの時ばかりは控えめな居候を装う。
「や、大体終わったから。使うなら出るよ」
返事を待たずに、彼女の横をすり抜け、退室する。
(駄目だ――)俺は左手で顔を覆う。(俺には難題すぎて、どこから考えればいいのかわからん)
右手が半自動的に掃除道具を動かしている。どうしたものか。彼女が押し掛けて来た日と同じだ。俺の手に負えない何かが潜んでいるような気がしてならない。それを知りたいような、知りたくないような、不思議な気分に陥る。
明らかな面倒ごと。異常事態。ならそれで切り捨てれば良いのに、温かい食卓が、それを邪魔する。
俺はいったいどうしたいんだ。
黙々と箸を動かす。マヤは、いつになくむっつりとした顔をしている俺の様子をちらちらと伺い、心配そうに眉を寄せている。それに気付いていながら、俺は彼女の方を向けずにいた。
「……ごちそうさま」
ぼそぼそとした声で言えば、「お粗末様でした……」とこちらも消え入りそうな声。何か悪いこと、した? そう言いたげな瞳。
違う、そうじゃない。違うんだ。
しかし、言葉にならない。
ぐっと唇を噛みしめると彼女に背を向けた。その背中を――――盛大に蹴られた。
「もーーおっ、鬱陶しい! 気になることあるなら、口にすればいいでしょー!? 昔っからそう! 直前でうだうだしちゃってさ!」
げしげしと俺を蹴りながら目を吊り上げるマヤは、先程の大人しさなどまるで嘘だったかのように、攻撃的だ。沸点を超えたのか。
「痛い! 痛いって!」と悲鳴を上げると、フンと鼻を鳴らしながら足を下げた。スカートからさらりと出ている細い足の、いったいどこにあんなパワーが。戦慄する。
顔を青褪め震える俺の頭のてっぺんに、「で?」といつもより低く迫力のある声が降ってくる。上がりかかった悲鳴を抑えたのは、年上としての矜持だった。そんなことを言えば、彼女に「矜持? えー、今更?」と返されそうだが。笑うなかれ、男の沽券に関わる、極めて重要な案件だ。
なんやかんやと時間稼ぎを試みたが、マヤが纏う空気が更に黒さを増している事実に、とうとう観念した。
「わかった! わかった言う、だから足を下ろせ!」
危うい位置までスカートが捲れ上がっている。いつの間にやらその近辺に視線が固定されていた。ついそこから上へと視線が動きかけ――駄目だ! 俺は慌てて顔を背けた。