6.友情と恋情の明白な差
それから二週間も経たないうちに、根津埼が異動してきた。宣言どおり、その前から何度か足を運んでいたので、さしたる混乱も無い。
「意外や意外、あの二人も仲良くやってるみたいだしね~」
けたけたと笑う蛍原先輩の視線を追えば、顔を突き合わせて資料を見ている尊臣と根津埼の姿があった。
当初、つんつんしていた割に、相性は悪くない。今も尊臣が何か憎まれ口でも叩いたらしく、根津埼がその頭を小突いている。まるで兄弟のようだ。……無論、仲が良いに越したことはないのだが、何故だろう――自分だけが置いてけぼりを食らっている気もして、面白くない気持ちになる。
自分がこんなに狭量だったとは、という失望感も相俟って、ますます気が沈む。
――先輩も、いっぱい俺のこと考えてください。
不意に浮かんだ言葉と一緒に、それらを追い出そうと頭を振り、荷物を手に取った。
「外回り行ってきます」
「あ~い、気を付けてね~」
修羅場が大好物の蛍原先輩が、私を気の抜けた調子で送り出した後に、
「あっちもあっちで、拗れてんな~」
と、ほくそ笑んでいたことなど、到底、私は知る由もなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
部屋の片側だけ照明をつけ、キーボードをカタカタ鳴らしながら資料を作成していると、事務所の扉がガタリと音を立てた。こんな時間に誰が、と自分のことは棚に上げて視線を移すと、根津埼とばっちり目が合う。
「よっ、こんな時間まで仕事? なんか仕事溜まってた?」
「偶然いろいろと重なっただけで、もうすぐ終わるよ」
パソコンの画面に向き直りながら答えると、ふうん、と興味の無さそうな返答。無反応よりマシ、と言うくらいのそれに、じゃあ訊くなよ、と腹の虫が騒ぎ立てる。
正直、今の私は虫の居所が悪い自覚がある。
……帰ろう。無駄に当たり散らす前に。
「帰んの?」
鞄から取り出した資料をごそごそと自分のデスクにしまいながら、根津埼が私を一瞥する。
「じゃ、飯でも食いに行こう」
「なんで?」
「なんで、と来るか……。いや、こっち来てからゆっくり話す時間も無かったしさ」
私がピリピリしていることなど、百も承知のはずなのに、理不尽な怒りを向けられている当人はあっけらかんと笑っている。
「それにほら、友人だろ、俺とおまえは。あと、一人で変な方向に突っ走ってくよりは、誰かに吐いてスッキリした方が建設的だろ」
「私が突っ走るように見えるか?」
「現在進行形で見えてる」
そう言われると、痛い。自嘲し、深呼吸をひとつ。確かに根津埼の言うように、第三者の冷静な目は、今の私には必要かもしれない。
「仕方ない、行こう。異動祝いで奢ってあげるよ」
「え、まじ。ラッキー」
良いもん食おう、と遠慮の欠片もなく呟いた根津埼は、本当に相変わらずだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「で? 尾崎はなんで苛々してんの? あ、俺、当ててやろうか。古市くんが――」
「燃やすぞ」
入店早々、無遠慮に煽ってくる自称友人に、他の人間には見えない位置で炎を放出する。わざと相手の指先を掠るように放ったそれに、根津埼は「こわぁ」と肩を窄めた。
大体、わかっているくせにそういうことを言う方が悪い。底意地が悪いのだ、こいつは。
「……尊臣は最近、どう?」
「えー、自分で訊けばいいのにぃ」
「……今日の奢りは無しだ」
「ひどい」
へらへら笑う余裕があるなら、問題無いだろう。
「そうだなー、古市くんね。毎日、頑張ってるよ。こいつと一緒にいるのすっごい不満です~、って顔しながら。いやあ、揶揄い甲斐あるよねえ、彼」
「後輩弄りも程々にしておけよ」
「でも愛嬌あるし、行く先々でも評判いいし。嫉妬深いかもしれないけど、一途だし、浮気しそうもないし、優良物件じゃないですか。ね、尾崎さん」
「きみがいったい何をしたいのか、稀にわからなくなる」
「俺は友人の幸せを偏に願っているだけだよ」
嘯く友人の顔をじっとりと睨むと、彼は素知らぬ顔で一杯目のビールを豪快に呷った。
「俺はいいと思うけどねえ。前にも言ったけど、あと一年耐えれば、晴れて合法なわけだ。あっちが大人しくする気なさそうだから、それまで上手いこと手綱だけ握っといてくれたら、あとは別に。……尾崎は何が枷になってんの。あんだけわかりやすくチラチラ視線を寄越しといて、何も気になってません~、は、さすがになしでしょ?」
「う……」
正論だとしても、ひどい言い草である。そんなにわかりやすかっただろうか。頬に走った朱を隠そうと、片手で口元を覆う。
「枷、というか……」
ぎゅう、と眉根を寄せる。
「……単純に、なんか、恥ずかしい」
「乙女かよ」
「本気で燃やされたいのか、きみ」
「はは、冗談、冗談」
とってつけたように、害意はありませんよー、と両手を上げる根津埼の言動に、ため息しか出ない。誰だ、よりにもよってこの男に相談しようなんて考えたのは。私か。完全に失策だな。
「でもさあ、俺と付き合ってた時はそんな風にならなかっただろ」
「それは……あれだけ純粋に真っ直ぐ好意を向けられたら、誰だって戸惑うというか。その点、きみとの間には特に何も無かったし」
「ばっさり切り捨てたね、俺を」
「事実だろう?」
「事実だけども」
終始こんな調子だから、友人以上などとても考えられなかったのだ。根津埼の目にはいつだって、熱が感じられない。向けられただけで落ち着かなくなるくらいの、あの熱が伴っていない。
「ま、ちょっと羨ましい気もするよ。あれだけ好き好き~って真正面からぶつかってこられるなんて、貴重でしょ。……おーい、なんですかー、その珍妙なものを見る顔は」
「いや、ちょうど、こいつが真面目に恋愛をする日が来るんだろうか、と考えていたから、つい……」
「失礼だな。事実だけど」
「自覚、あったのか」
「あるでしょ、そりゃあ」
決して胸を張って言うことではない。
追加の酒を注文しながら、焼き鳥を頬張る根津埼の顔は、若干赤みがかっている。酔いが回ってきたな、こいつ。今にも鼻歌を歌い出しそうだ。
「いいねえ、いいねえ。アオハルだねえ」
「なにを蛍原先輩みたいなことを。大体、あっちはそうだけど、私の年齢でそれは不釣り合いだろう」
「中身が同じくらいだから、アオハルで十分じゃないか?」
「おい、馬鹿にしてるな?」
「はははは!!」
机の下で足蹴にすると、「いって」と根津埼が悲鳴を上げた。燃やさなかっただけ感謝してほしいくらいだ。
ふわふわした頭でそう考える時点で、私も大概、酒にやられている。
「それさあ、昼間に古市くんにもやられたんだけど、なに、尾崎の直伝だったわけ。先輩後輩揃って足癖が悪いってなにそれ」
「教えた覚えはないが、どうせきみが蹴られるようなこと言ったんだろ」
「俺に対する容赦の無さにびっくりするよ。友人じゃなかったっけ?」
「友人じゃなかったら燃やしてる」
「物騒過ぎる」
大仰に肩を竦めた根津埼は、そろそろ酔いを醒まそうと思ったのか、温くなった水を喉に流し込む。時計を見れば、もう結構な時間だった。明日も仕事なのだ。そろそろお開きとするべきだろう。
伝票ホルダーを手に取ると、「さて、そろそろ帰るか」と根津埼も立ち上がった。
「異動祝いだからな」
「そうだった。ご馳走様です」
釘を刺すと、根津埼は、尻ポケットの財布に触れていた手を離した。こういう時は素直である。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
会計を済ませて外に出る。アルコールでぽかぽかした身体には、外気が心地よく感じられた。二人揃ってぽやぽやした頭を抱えて、帰路に就く。
「まー、古市くんの件は、あとは尾崎が絆されるだけか」
急に引き戻された話題に、心臓が跳びはねた。一瞬にして酔いが醒めた気さえする。真顔になった私とは正反対に、根津埼は未だにぼうっとした顔をしている。
「どうしてそういう結論になる」
「えー、だって照れくさいだけなんだろ? 嫌悪感とかじゃなくて」
自分だって相当な恋愛下手のくせに、根津埼は訳知り顔で、よく当たる占い師の如く、断言した。
「そのうち、何かがきっかけで、どかっと落ちるよ、尾崎は」
その言葉は、私の心の隙間を縫って、すとんと奥底に沈んでいった。
良くも悪くも末っ子気質の尊臣は、大家族の長男である根津埼と、なんだかんだ相性が良いです。
ちなみに葉月さんはひとりっ子。(ただし同世代の従兄弟が多数)




