4.子どもと大人の境界線
朝、油断すると口から飛び出そうになる欠伸を噛み殺しながら、事務所の扉を開ける。
「おはようございます」
「お、葉月ちゃ~ん、おっはよ~」
事務所の先輩職員である蛍原円華が、やけに締まりのない顔で出迎えてくれた。
嫌な予感がする。蛍原先輩は私にいちから仕事を教えてくれた面倒見のいい先輩で、現在は直属の上司である。仕事面においては、この上なく頼り甲斐のある人物なのだが……どうにも、面白おかしい噂話を好む、という厄介な性質を持っている。そして、どうやらそれに知人が絡んでいると更に興奮する、らしい。
所謂、野次馬根性が人一倍あるタイプなのだ。
「ねえねえ、聞いたかい?」
「……何をです?」
おざなりな返事をしながら、蛍原先輩の横を通り過ぎ、自分のデスクに着席する。彼女は、むふむふと怪しげに笑いながら、私の後ろをひょこひょことついてきて、隣の席に腰を下ろした。逃がすつもりはないらしい。
「なんとぉ、……稔がこっちの支部に戻ってくるらしいぞ~!!」
はいビッグニュース! どうだ驚いたか!
トレードマークでもある丸眼鏡をくいっと引き上げながら、愉快そうにしている蛍原先輩の顔をまじまじと見る。
稔、という名前の知り合いは、一人しかいない。私は目を瞬かせた。
「……はあ、そうなんですか。誰かペア組むのかな、それかソロ?」
「あ、やっぱ気になる? 気になっちゃう? 元カノとしては心穏やかではいられない感じ~?」
ひゃっふう、と奇声を上げる蛍原先輩の騒ぎっぷりに苦笑する。こういうノリには何年経っても慣れないが、放っておけば勝手に熱も冷めるだろう。
「そういう意味では全く気になってないですよ。戻ってくるなら担当替えがあるので、事前にその準備をしなければと思っただけです。……ああ、誰かが辞めて、そっくりそのまま担当って可能性もあるか」
「いや、それは困る。欠員補充じゃなくて、増員だからさ。普通に仕事分担しようぜ、誰かがぶっ倒れる前に」
蛍原先輩は、急に素面に戻ったようだ。この変わり身には毎度のことながら驚かされる。野次馬丸出しの笑みは完全にその姿を消し、切れ長の瞳には真剣な光が灯り始めた。
「ここ数年、野良案件はどこも増加の一途をたどってる感じなんだよな~。人間と妖怪の垣根も昔より緩くなってきているし、いよいよもって制度が時代に合わなくなってきた、ってところかね。困ったもんだよ」
ぶつぶつ言いながらパソコンに向き直る彼女の姿を横目に、私は先程聞いた名前を、そしてその人物との間にあった出来事に、意識を向けた。
――稔。根津埼稔。蛍原先輩の言う通り、昔の恋人だ。
とはいえ、一般的に想像されるような甘ったるい恋人関係ではない。お互い、恋愛感情を持って付き合ったわけではなかったからだ。
ただバイト仲間として気が合ったので、自然と一緒にいるようになって、周りから囃し立てられたり、探りを入れられたりすることが多くなった。
「面倒だから、付き合うか」
そう言い出したのがどちらだったのかも、もはや記憶に無い。
付き合いを始めてみたものの、しっくりくるが、しっくりこない。男女間の友情は幻想だとはよく言われる話だが、――要するに、私たちの間にあったのは、あくまでも友情でしかなかったのだ。そして立場が変わったからといって、友情が恋愛に変わることはなかった。
「そろそろほとぼりも冷めたし、やめるか」
そう言いだしたのも、さて、どちらだったか。どちらが言ってもおかしくなかった。
ちょうど根津埼が家庭の事情で引越しが決まったから、という事情もある。引越しといっても、せいぜい電車で二時間程度の距離だ。関係を続けようと思えば続けられた。が、噂対策としての意味合いで交際を続けていた私たちに、わざわざ遠距離恋愛までしてそれを続行する理由は無かった。
こうして、根津埼との交際は終わった。
別れた後も気まずさなどとは無縁だったので、友人関係はその後も継続されている。根津埼はその後、大学進学した私とは異なり、高卒で団体の構成員として入職した。共通の話題のネタを持っていたことも、友人としての関係が続いている理由のひとつだろう。
わざわざ会いに行くことはないが、近場に寄った時には、酒を酌み交わす仲だ。ただ、それ故に、人によっては、未だに恋人関係だと勘違いしている者さえいる。
その彼が、近々こちらの事務所に戻ってくるという。
蛍原先輩のように直接的に囃し立てられたならば、否定する余地もある――そもそも彼女は、お互いに未練など無いことをわかっているからこそ囃し立てている節すらある。火のない所に煙を立たせることが好きなのだ――。しかし陰で噂になると、その機会すら得られない。
諸々面倒そうだ。起こる前から疲労感を覚える。いつの世も、人は噂話がお好きだ。
不意に、尊臣の顔が浮かんだ。
私とペアを組んでいることで、彼にも迷惑が掛かるかもしれない。学生は勉強が領分だ。ましてや、彼は高校三年生。大学受験を考えているとも言っていたし、今は大事な時期だ。
厄介ごとに発展する前に、ペアの交代について相談するべきだろうか。
「しっかし、稔の件は古市くんも心穏やかではいられないだろうねえ~」
蛍原先輩が、まるで私の心を読んだかのようなタイミングで呟いた。
「やっぱり、そう思いますか?」
「おっ?」
蛍原先輩は、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「ようやく?」
「はい? ようやく……?」
「……んや、なんでも。彼の苦労は続きそうだね~」
いったい何が可笑しいやら、けたけたと笑う蛍原先輩。
「ペア替えも考えなくてはいけませんね」
「あっははははは!!」
「……どうしたんです、蛍原先輩」
この人の奇行については、多少なりとも慣れたつもりでいたが、やはり理解できないものはできないままのようだ。
とうとう腹を抱えて大笑いし始めた上司を前に、私はふうとため息を吐くと、肩を落とした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
さて、どうやって話を切り出したものか。
そう悩んでいた私に、意外にも尊臣の方から話を振ってきた。
彼はいつも通り学校の授業を終えてから、事務所に来てしばらく、異様に静かにしていた。何か気が沈むことでもあったのだろうか。私の話は後でも構わないことだから、そっとしておこう。
話の切り出し方も思いつかず、これ幸いと触れずにいたら、休憩室でばったり遭遇した。否、私が休憩しているところに、彼がやってきた形だから、何か用向きでもあったのかもしれない。
「根津埼って人、いつやってくるんですか?」
誰からその話を聞いたのだろうか。面食らいながら、質問に答える。
「さあ。まだ私も正式に話を聞いたわけではないから。でも今話が出るってことは、あと一か月くらいはあるんじゃないか?」
異動してきました。はい、では本日からさっそく仕事をお願いします。――これでは、仕事は回らない。蛍原先輩が私に話を振ったのも、早い話、そのうち何らかの引継ぎ業務が生じるからだろう。
「以前、付き合ってたんですよね?」
……本当に。誰から訊いたんだ。過去形ってことは、蛍原先輩か?
驚いて彼を見やり、更に驚く。尊臣の表情からは、感情という感情がすっぽりと抜け落ちていた。思わず、たじろいでしまうほどに。
いや、しかし、この機を逃すわけにもいかない。
「そうだよ。その関係で、根津埼が戻ってきたら、私の周囲は騒がしくなるかもしれない。だから――」
「葉月先輩は、その人とペア組んで仕事がしたいんですか?」
「私が根津埼と? それは無いな」
火に油を注ぐようなことは避けたい。尊臣とペアを解消したとしても、根津埼とペアで動くことはまずないだろう。……それにしても、どうしてそんな質問を? 尊臣は、不思議がる私には気付かず、ただ、「そうですか」と小さく呟き、少しだけ纏う空気を和らげた。
「俺は葉月先輩と一緒がいいです」
「でもなぁ……大学受験もあるだろ? 私とペアを組んだままだと、周囲が騒がしくなるかも――」
「じゃ、大学行きません。そのまま就職します、ここに」
「きみの将来のことなんだから、そうやって軽々しく決めるもんじゃないぞ」
「――っ、軽々しくないです!!」
尊臣の握り締められた両手の拳が、震えている。必死に何かに耐える拳に、何故だか、既視感を覚えた。桜色のワンピースを握り締める、あの小さな手と。
お互い黙り込んでいると、不意にその拳がふっと緩まる。
「とか、言っちゃうのが子どもっぽいのかなあ。……でも。ねえ、葉月先輩、俺はいつまで、あなたにとって子どものままなんですか」
ぎゅうっと歪められた眉に、今にも泣き出しそうな瞳に、いつもの軽口を言うかのような柔らかささえ含んだ口調に、それだというのに言動の節々から滲む切実さに、咄嗟にかける言葉を失う。
彼が一歩踏み出すと、私の顔に影ができる。これまでにも何度かあったはずの距離感なのに、普段と違って落ち着かない。この後輩の男の子は、こんなに肩幅が広かっただろうか。私よりも頭ひとつ分、高い位置にある顔を見上げる。
「俺は……」
彼が伸ばした手が、私を囲うように、横の壁に置かれる。
「――失礼。お取込み中だったか」
突然、ガチャリ、と休憩室のドアが開いた。そこに立っていた話題の人物に、頭が痛くなった。
「でも、こんなところで盛る方もどうかと思う」
「根津埼、言葉を選べ。というか、何故いる」
黙っていると怜悧な顔立ちに反して、根津埼は茶目っ気たっぷりに笑った。
「異動当日に突然来て、はいよろしく、じゃあ難しいだろ、いろいろと。幸い、足を運べない距離でもないし、先に何度か顔を出しておこうって、……蛍原さんには言っといたんだけど、さてはあの人、周知してないな。サプラ~イズ、とか誰の得にもならないことを考えてたな?――それはそれとして、俺、それいつまで見せつけられんの?」
それ、だけで伝わる“それ”――私を腕で囲んだままの尊臣は、その体勢のまま肩越しに根津埼を視線を向けている。どういう表情でいるのかはこちら側からでは把握できないが、根津埼の「はは、凄んでくるな~、きみ」という発言から、想像はついた。
「大丈夫、安心して。俺、口は堅い方だから。ただ、他人の逢引きを見学する趣味はないってだけだから」
「……他人?」
「ん?……ああ。そそ、他人、他人。だから、ほら、どうどう」
「……むっかつく」
尊臣の反応は、刺々しい。どちらかと言わずとも社交性の高い彼にしては珍しい反応である。その理由を考えようとして――意図的に止めた。今の私には少々、……キャパオーバー気味だ。
私が終着点を決めきれずにぐるぐると混乱している間に、尊臣は壁から手を離し、根津埼と正面から向き合った。
「改めて。来月から異動してくる根津埼です。よろしくな」
「古市、……です。よろしくお願いします」
差し出された手を、尊臣は嫌々握り返している。
「ああ、きみが古市くんね。尾崎のペアの子だ。……勘違いしないでよ。異動前にメンバー全員の名前を頭に詰めてきてるってだけだから。でも、尾崎と少し話があって休憩室に来たのは事実だから、ちょっと席を外してもらってもいいかな?」
「…………はい」
最後まで私とは視線が合わないまま、尊臣は休憩室を足早に出て行った。その後ろ姿を目で追っていると、根津埼が「尾崎」と私の名前を窘めるように呼んだ。
「ちょっと迂闊すぎじゃないか? たまたま俺だったからよかったけどさ。見られたらどうする。こっちは社会人、相手は高校生だろ。俺たちが噂になった時みたいに、面倒くせ~、で終わるレベルじゃないぞ」
「わかってる。ごめん。ありがと。ところで用事とやらは?」
「無い。俺が休憩したかっただけ。でもああでも言わんと、どうしようもないだろ、あの状況はさぁ」
根津埼は苦言を呈して疲れたのか、ふーっ、と大きく息を吐いてから、凝りを解すように、自分の肩を揉んだ。
「いやもうほんと、せめてあと一年耐えて」
「耐えるも何も、……何も無いからな?」
ぴた、と根津埼の動きが止まった。それから急に能面のような顔で私を見据える。数秒後、彼は一人勝手に納得したように、腕を組み、うんうん、と頷いた。
「……なるほど、理解した。そりゃ今にも射殺さんとばかりに見られるはずだな。背筋ぞくっとしたもんな、ガチで。元カレが起爆剤になっちゃったわけね、ふんふん」
「起爆剤、って……そもそも、その、……そういうことかどうかも定かではない」
そういうこと、というのはつまり、好きとか嫌いとか、惚れた腫れたとかいう、……そういうこと、だ。
居たたまれない空気に視線を彷徨わせると、根津埼が絶句した。
「お、おまえ、この期に及んで……、まじか……。うわー、俺、間が悪かったなあ。あと五分遅く開ければよかった。……いや、それも問題か?」
「きみ、楽しんでるだろ」
「楽しんではいない。同情してる、心底」
真剣な顔で言い切られると、なんとも言えなくなる。
「誰かに見られて困るような間抜けな状況は作るなよ、って思うけど、とにかく、話はちゃんとした方がいい。……できれば俺が異動してくる前に」
「……それ、自分が巻き込まれたくないだけじゃないか」
「ばれたか」
根津埼はにやりと笑った。こういうところが、いまいち信用しきれない要因だ。
「というわけだから、俺は蛍原さんに文句言ってくる。あの人、確実に図ったからな。ほんと、火のない所に煙を起こそうとする悪い癖、直してほしいよなあ」
「野次馬じゃない蛍原先輩は、想像がつかないけど……。そっちは頼んだ」
結局、ろくに休憩もしないまま、根津埼は私に背を向け、ひらひらと手を振ってみせた。
自ら地雷を踏み抜いていくスタイルの葉月さん。




