3.俺と彼女の新たな日常
「おはよっ!」
「っ、!?」
朝、目の開けると、女の子の顔がドドンと視界を覆っていた。あまりの距離の近さに、息を止める。どういう状況だ。彼女は誰だ。混乱する頭が答えを弾く。彼女は輝夜マヤ。昨晩、うちに押し掛けてきた。
(ゆ、夢じゃなかった……)
起きたら全て夢だった説は、これで潰えた。若干の絶望感を味わいながら、身体を起こす。マヤは朝から元気だ。目がキラキラしている。早く早く、と言いたげだ。
ガシガシと頭を掻きながら、洗面台に向かう。マヤがとてとてとついてくる。
「……朝飯なら、テキトーにその辺にあるもの食ってて良いから」
「うん、わかった」
返事と行動が伴っていない。相変わらず彼女はついてくる。とんでもない居心地の悪さを感じながら、顔を洗って歯を磨いた。いったい何が楽しいのだか、マヤはにこにこしながらずっと俺の様子を見ている。その行動に、記憶の奥底を擽られる。過去に同じことを経験しているような。既視感。――ひょっとしたら、以前にマヤと交流があった時の記憶か? しかし、彼女と結び付けようとすると途端に霧散する。覚えた既視感すら、勘違いだったような気がしてくる。
言い表し難い気持ち悪さに眉を寄せながら、口を濯ぎ、顔を洗う。それから、壁掛けのタオルに顔を押し付けた。さっぱりした。起きた。やっぱり夢じゃない。
頃合いを見計らい、マヤが俺の腕を引いた。
「はーやく!」
わくわく、と書かれた顔。ゲームのクリア画面をしきりに見せたがる幼い頃の弟の姿と被る。あーハイわかったすぐに行くから、とそこまでが自動音声のように自分の口から流れた。長兄の癖、恐るべし。
リビングに近付く。お、と首を傾げた。良い匂いがする。
「たらららったらー! あーさーごーはーんー!」
某国民的アニメの猫型ロボットが秘密道具を出す時の効果音を口遊み、その場でくるりと一回転。全力でドヤ顔を決めたマヤからそっと視線を外し、机の上に広がる朝食を見やる。
表面が茶色く焼けたトーストに、その熱で程良く溶けているバター。黄身を包む白身がプルリと震えるハムエッグ。グリーンサラダは、おそらく野菜室の食材を詰め込んだのだろう。ああ、そういえばあのきゅうり、そろそろ使わないといけないなと思っていたところだった。
よくもまあ他人の家でこれだけの物を準備できたものだ。まずそこに感心する。
早く食べよ、と誘ってくるマヤと美味しそうな香りにつられて、着席する。
「いただきます」
ぽんと手を合わせれば、マヤは嬉しそうに目を細めた。……何がそんなに楽しいのやら。
「いっただっきまーす!」
俺にとっては大変に豪華な朝食は、それなりの味だった。別に特別素晴らしいわけじゃあない。不味いわけでもない。それでも、誰かと一緒に食卓を囲むのは久し振りで、少し心が弾む。どうやら自分で思うより、俺は飢えていたらしい。無理もない、と自分で思う。一番影響を受けやすい幼少期を、騒がしくむさ苦しい男四兄弟で過ごしてきたのだから。
成人して、大人になって、社会の荒波に揉まれて。本心を隠す仮面は年を追うごとに巧妙になった。自分さえも騙せる程に。それでも根っこは変わらない。
一兄ってばほんと泣き虫だなあ! そうやって呆れた声を出しながら、心配そうに兄の顔を覗き込む弟たち。あの距離に戻ることは、もう二度と無い。わかっている。お互いもう子供じゃない。それが成長ってもんだ。寂しいと同時に納得している。二十後半にもなって、顔を寄せて笑い合う男兄弟なんて、気色悪いことこの上無い。
――わかっていても、懐かしいもんは懐かしい。
って。一日も経たずに、飯ひとつで簡単に絆されてどうする。
「どうかした?」
「なんでもない」
「ふぅーん?」
こてりと小首を傾げたマヤに、あえて憮然として答える。
「それよりお前、学校は?」
大丈夫だよ〜、とこれには能天気な返事。
「今日は早く出る予定だから」言いながら、朝のニュースが流れるテレビを一瞥した。おそらく時間を確認したのだろう。思っていたより時間が過ぎていたようだ。マヤは「やば」と小さく声を上げると、トーストの最後の一欠片を口に放り込み、もごもご咀嚼しながら立ち上がる。行儀が悪いぞ、と思う反面、これだけ豪勢な食事を準備してもらった負い目があるので結局何も言わなかった。
マヤは歯磨きを済ませ――待て、その歯ブラシはどこから出てきた?――鞄を肩に背負うと、「いってきまーす!」と慌ただしく家を出て行く。
急に静かになった家は、少し寂しかった。
ぽつりと呟く。
「……いってらっしゃい」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「――じゃ、お先に失礼します」
少しばかり浮ついた気持ちで、帰路につく。朝から落ち着かない。しかし今は目の前の仕事に集中しろ、と自分に言い聞かせ、なんとか騙し騙し一日を終えた状態だ。
やはり金曜の夜に来てくれた方が良かったかもしれない。あと一日、ミス無く仕事ができるかどうか。いや、するしかないのだが。
実は実家に戻っているとかないかな、などと少しの期待を胸に自宅に辿り着いた俺は、真っ暗な空の下、通路に取り付けられた灯りすらも時折点滅して消えるなんとも心許ないドアの前で一人座り込んでいる少女を見、すぐに自己嫌悪に浸ることになった。
彼女が俺を見る。どこか憂いを帯びたように見えた顔が、一瞬にして変化する。負の感情などは一切消え失せ、にぱりと明るく、嬉しそうに笑った。
「一兄、お疲れ様! おかえりなさい!」
「ただいま、じゃ、ないだろ」
思わず苛立った声が出た。間違えるな、と自分に言い聞かせる。怒りの矛先を彼女に向けるのはお門違いだ。それは自分に向けるべきものだった。
彼女は家に入らなかったのではない。入れなかったのだ。鍵を、持っていないから。せめて一報を入れてくれたら、と思ったが、連絡先すら交換していなかったのだ。その内のひとつでも思い付いていたら、こうやって若い女の子をこんな暗がりの中、一人でいさせるようなこと、許さなかったのに。自分の配慮の無さに嫌気が差す。
急いでドアを開け、マヤを招く。彼女は「ただいま!」と言って部屋に入った。
「これ」今しがた家を開けた鍵を、鍵束代わりのキーホルダーから外して手渡す。「持ってて」
不思議そうにそれを受け取ったマヤは、自分の手の中とドアノブを交互に見て、なんであるかを悟ったらしい。
「だ、駄目だよ! これ家の鍵でしょ!」
「大丈夫、俺はスペアあるし」
多分な、多分。という言葉は口の中で飲み込む。最悪、鍵を作るまでの辛抱だ。
「それにお前、明日は朝、もう少し遅いんだろ? それなら出る時間は大体同じくらいだろうし、朝も鍵頼むな。帰りはそっちのが早いだろうし」
でも、と言い淀んだマヤは「まずくない?」と肩を竦める。まずいって、何が。家族でも親戚でもない男と暮らす以上に、何がまずい?
その答えを、彼女はすぐに続けた。
「あたしは一兄を知ってるけど、一兄はあたしのこと、知らないんでしょ? 赤の他人に家の鍵を預けるなんて」
まさか彼女の口から、そんな心配が飛び出るとは思いもせず、おや、と目を瞬く。押し掛けておいて、何を今更。あまりにちぐはぐな彼女の様子に、ふっと笑う。マヤは、突然肩を震わせた俺を見て、ますます不思議そうにしている。
「信用しようと思ってるから、いいよ」
投げ掛けられた言葉の意味を理解したのか、彼女は口をへの字に曲げ、頬を少し赤く染めた。その様子は、あまりに可愛らしい。いけない、このままだと法に触れる。そう危惧する程度に可愛い。ちぐはぐな心配も、赤い顔も。思わず「いいよ」なんて言ってしまったのは、その所為に決まっている。
それに――俺には、照れ隠しで無理にツンと澄ました顔に、どうも見覚えがあるように思えたのだ。