7.約束と謝罪の、一歩目
――翌朝。
『おはようございます』
鈴子は、スケッチブックに書いた挨拶の文字を掲げた状態で、自ら仁の前に立ち塞がった。二つしかない教室の入り口の、片方を塞ぐ形になっているが、誰も何も言わないし、困った顔ひとつしない。気付いていない、というべきだろうか。これも妖怪が関わっているのだろうか。
彼女はどことなくきりっとした雰囲気を纏い、紙を捲った。
『本日、昼休みにお時間ありますか?』
「……大丈夫、だけど」
ちょうど、自分も話をしたいと思っていたところだ。まさか彼女の方から誘われるとは思わなかったけれど。
鈴子はぱあっと表情を明るくした。しかしそれを隠すように、すぐに口を真一文字に結び直す。
『では、また後ほど』
紙面でそう告げると、鈴子はすたすたと自分の席へ歩いていった。
仁が思っていたよりも、だいぶ元気そうだ。逃げ出されることもなかった。前髪は……予想通りというべきか、いつも通り、目を隠すほどに下ろされていたけれど。
今日は彼女の表情全体を見ることはできないのかと、少しだけ残念な気持ちになった。
昼休みになると、弁当を片手に立ち上がった。
「星崎、俺、今日は別のとこで飯食う」
「お~?」
どこで? だれと? と顔に書かれていたが、意図的に無視した。どこで、なのかは正直仁もわからないし、だれと、という質問には今は返事をしたくない。
「鈴木」
未だ席にいた鈴子に声を掛ける。
「どこで食べる?」
「え……」
思わず声を出してしまったのだろうか。鈴子は、慌てて自分の口を手で塞いだ。スケッチブックを取り出す。
『お話だけできたら、』
「昼を食べる時間がなくなる」
書いている最中に口を挟むと、鈴子は不満げに、むう、と口を尖らせた。
「さて、どこで話そうか」
無理に話を進めると、彼女は悩むように頭を左右に揺らしてから、スケッチブックに文字を書き込んだ。
『私が喋らないなら、ここでも大丈夫です』
「……わかった」
近くの机を借りて、鈴子の机と繋げる。机を横並びにしたのは、彼女が書く文字を見るためだ。逆さ文字を読み続けるのは骨が折れるし、いちいち彼女にスケッチブックを持ち上げさせるのも忍びない。
「書いたら、置いてくれたらいい。読むから」
鈴子は、こくん、と頷いた。彼女は紙を捲ると、すっと差し出す。どうやらあらかじめ家で内容を書き出してきていたようだった。
『昨日、母が言っていた通り、私は妖怪です。座敷童です。母親も同じです。なので、黙っていたら人間は私を認識することができません。力が強い座敷童なら、一緒に遊んでいても認識されませんが、私はそれほど強くないので、喋ると普通の人間と同じになります。座敷童は悪戯をすることはありますが(私はしません!)、基本的には福を招く妖怪で、悪さはしません』
説明文のような、あるいは弁解のような文面だった。読んだ、と伝えると、彼女は頷いて、次のページに移る。
『だから、言いふらしたり、怖がったり、しないで欲しいです』
スケッチブックに触れる彼女の指が、微かに震えていることに、今、気付いた。
「――しない。誓うよ」
力強く言うと、「本当に?」と言いたげに、鈴子は仁を見上げた。
「わざわざ言いふらす理由が無い。怖がる理由も。……逆に、どうして怖がると?」
鈴子は躊躇った様子で、文字を刻む。
『だって人間にとっては、妖怪は不気味で怖いもの、ですよね』
「そうなのか?」
『そうじゃないんですか?』
仁と鈴子は顔を見合わせた。どうも話が進まない。
「そもそも妖怪が存在しないと思ってたから……。怖いとか、考えたこともなかった」
存在しないものに対しては、恐怖を感じることはできない。仁は昔からそういう考えだ。同じ理由で、お化け屋敷なんかも怖いと思えない。急に出てきたから驚いた、という程度だ。そういえば、星崎はぎゃあぎゃあと煩く騒いでいたような気がする。
「でも、今のところ俺の知っている妖怪は、鈴木に、鈴木の母さんに、……あと俺の母親――これは俺も、昨日知ったんだけど――、三人だけだから。全員、怖いとは正反対だし、……うん、だから、怖くない」
『古市くんのお母さん、妖怪なの!?』
「そうらしい」
やはり鈴子にとっても衝撃的だったようだ。あんぐりと口を開けている。やはりあれは、驚きどころだったのだ。つい素っ気なくスルーしてしまったが。良かった、自分の感性は間違っていなかった。仁はほっとする。
『何の妖怪なんですか?』
「さあ。聞かなかった」
『そこは聞いた方が……』
まあ、そうだよなあ。とはいえ、今更改まって聞くのも、なんだか変な感じがする。「機会があれば」と返すと、鈴子は『すぐにじゃないんですね』と呆れたような不思議がっているような、そうでなければ少し笑みすら浮かべた顔をしている。
『でも納得です。どうして古市くんは、私に気付くんだろうって思ってたから。妖怪の血が流れてるからだったんですね』
「なんだ、そうなのか。それなら、母親が妖怪で良かったな」
仁がさらりと口にした言葉に、鈴子は惚けた顔をして、少しして、嬉しそうに目を細め、ふわりと笑った。――残念ながら仁は、珍しく表情を緩めた鈴子には気付かず、教室を見回しながら、実際これだけ話しているのに見事に誰も気づいていないものだ、と感心していた――。
「でも、喋ることはできるんだろう?」
声を出したら、無視されることはない。なら、どうしてこうも極端に喋ることを厭い、他人との接触を避けようとするのだろう。
鈴子は一転、表情を凍らせる。言うべきか、言わぬべきか。深刻そうに思い悩んだ様子で、弁当のおかずを二、三度、ひどくゆっくりと口に運んだ。咀嚼も、とても遅い。まるで躊躇する気持ちがそのまま表れているようだった。
辛抱強く答えを待つと、やがて彼女は箸を置き、代わりにペンを手にする。
『喋っている時は、良いです。でも黙ると、背景のひとつになってしまいます。だから、周りは不思議そうにします。私は――』
ペン先が、ぶれた。迷いを象徴するように。彼女は、自身を落ち着かせるように、ふー、と息を吐いて、また書き始める。
『仲良くなった人に、不審に思われることが怖いです。仲が良かった人に、怖がられるのが怖いです』
ちら、と彼女は仁の顔を盗み見た。
『だから、古市くんのことも、怖かったです』
あいつは変だと、指を差されると思ったから。自分たちと違うと、怖がられると思ったから。――そうして、存在を拒否されると思っていたから。
仁はそこでようやく、どうして鈴子がここまで『怖がられること』を怖がるのか、少しだけ理解することができた。
きっと、過去にあったのだ。そういうことが。そうして、人間に線を引かれることが。あるいは繰り返されるそれらに、自ら線を引いたのだろうか。ここから先は、立ち入り禁止。そんな風に。そうしてそれを、ずっと自分に課してきたのだろうか。
――『もう、私を助けたりしないでください』――
あの言葉はきっと、鈴子の必死の防御だった。傷つく前に、傷つける前に。
掃除の時間に、ごみ袋を運んだ時のことを思い出す。誰からも気にされない世界。困っていても、悲しんでいても、笑っていても、それだけでは誰も何も、気付いてはくれない世界。声を発したらようやく誰かが振り向いて、黙ればまた通り過ぎる視線。
――ああ、そうだ。あの世界を、仁はあの時、寂しいと感じたのだ。
だったら今、彼女はまだ、寂しい世界に閉じこもったままなのだろうか。
……この先も、ずっと?
何故だろう。自分のことではないのに。
それは嫌だと、哀しいと思った。
「俺は今、楽しいよ。鈴木と話していて、とても」
何かを伝えなくては、そう思って、口から飛び出た言葉がそれだった。
「鈴木は?」
彼女は数秒の間をあけて、ゆっくりと字を綴った。
『楽しい』
よかった、と。そう返そうとして、彼女が更にペンを動かし始めたので、やめた。『でも、私、』その続きを、最後まで聞きたいと思ったから。
『前に、掃除の時、古市くんにひどいことを言いました。ごめんなさい。今回、声を掛けて、助ける側になって、初めてわかったの。それがとても大変なことで、気にしてくれないとできないことなんだ、声を掛けるのだって勇気がいるんだ、って。私、自分が怖いって気持ちだけで、全部無かったことにしようとしました』
最後に、鈴子はもう一度、『ごめんなさい』と書いた。そして頭をぺこりと倒す。仁も慌てて頭を下げた。
「俺の方こそ、しつこくして、怖い気持ちにさせて、ごめん。謝るのも、遅くなってごめん」
こんな風に素直に謝ることができるのは、鈴子が謝ってくれたからだ。謝らないと。そう思いながら、何かと理由をつけて、しなかった。
(すごいな……)
不意にその言葉が、すとんと心に落ちた。謝罪は、簡単なのに難しい。いろいろな感情が邪魔をする。それができる彼女のことを、すごいと思った。きっと、そうだ。彼女は最初から、助けられるだけのか弱い存在ではなかった。仁が知らなかっただけだった。
しばらく二人して頭をぺこぺこと下げていると、なんだかこの状況が不思議に思えてきた。自然と顔を見合わせると、二人揃って、ふっと柔らかく笑った。
「謝るのはもうおしまいにしよう。代わりに、礼を言わせてくれないか。――ありがとう。話してくれて。教えてくれて」
『私も、たくさん助けてくれて、ありがとう』
お互いに、心がぽかぽかしていた。
仁は、ふわ、と笑ってから、顔の表情を引き締めた。
「もしよかったら、これからもこうやって昼飯、食べてくれないかな。俺と、俺の友達と」
この提案が、良い結果に繋がる保証はどこにもない。結果的に彼女を傷つけることになるのかもしれない。それでも必要な一歩なのだと、仁は傲慢に、強引に、位置づけた。そうでもしなければ、誰もどこからも動くことなんてできはしないのだ。
それに、――彼女なら大丈夫だと感じたのだ。
「だから、一緒に頑張ってみないか?」
鈴子は動揺したように身を竦めた。震える手でペンを掴み、――そして離した。
「……はい」
蚊の鳴くような、か細い声が、密かに教室に響いた。




