6.幽霊とは?妖怪とは?
ピン、ポーン……
どことなく控えめに響いたインターホンの音に、真っ先に反応したのは尊臣だった。
「来た!」
ぴょこんっと跳びはねるように立ち上がった彼を、仁が慌てて止める。
「お前が行ってどうする」
「えー、仁兄が出るよりは気まずくないんじゃない?」
「は……っ?」
学校でのことを揶揄されたのかと思い、動作を停止した仁であったが、直後に、そんなわけはない、と否定する。尊臣はあくまで『捻挫の件』のことについて言っただけだ。仁が逡巡した一瞬の隙を突いて、尊臣は玄関に駆け出した。彼は玄関のドアにしがみつくと、はあい、と軽やかな返事をしながら押し開けた。
硬い表情でぴしりと立っていた二人の姿を認めると、にっこりと笑う。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
鈴子の隣に立っていた女性――十中八九、彼女の母親である――は、突然笑顔で現れた尊臣につられて笑いかけて、しかし自分の立場を思い出してどうにか堪えたような顔をしている。鈴子はといえば、見事な外面を披露している尊臣を見ても硬い表情はぴくりとも動かさなかった。しかし、遅れて顔を出した仁と目が合うと、少しだけ目元を緩める。
まるで小さな秘密を共有しているかのような合図。密かに胸の奥が鳴った。
「どうぞ、中へ」
「あ、でも……」
招き入れる仁に、鈴子の母が躊躇う表情を見せる。
「どうぞ」
有無を言わさずに繰り返すと、彼女は困った表情をしてから、丁寧に靴を脱ぎ始めた。娘の鈴子もそれに従う。
二人を奥へ通すと、こっそりと後ろに続いていた尊臣が仁に耳打ちした。
「仁兄、表情硬くて怖いよ~」
余計なお世話である。
リビングルームに控えていた母が、二人に椅子を勧める。それに対して鈴子の母は丁寧に断りを入れた。
「この度は、娘の不注意で、大事な息子さんに大変な怪我をさせてしまい、申し訳ありません」
すっと頭を下げる。鈴子も母に倣って頭を下げた。
母は、二人の旋毛を見、一拍を置いて、厳しい声を出す。
「そうですね、一歩間違えば、取り返しのつかない怪我になっていたかもしれませんから、お互いに。だから、気を付けなくではいけませんね」
そこまで言って、ふっと言葉を緩めた。
「でも今回に限っては、そこまでのことではないので、そろそろ頭を上げてくださいな。ほら、うちの息子なんて、怪我したことなんて忘れちゃうくらい、ぴんぴんしてますもの」
母の言う通り、全治三週間と診断された足首は、既に「どこを怪我してたの?」の域にまで達している。仁自身驚くほどに、なんともない。
しずしずと顔を上げた鈴子たちの手を取り、母は人好きのする笑みを浮かべた。
「さ、お座りになって。今、紅茶を淹れますから。せっかくなので、いろいろお話ししたいわ」
「クッキーは?」
尊臣が会話に出っ張る。「クッキーもね」と母は、ふふ、と笑った。
最初こそぎこちなく相槌を打っていた鈴子の母だったが、始終にこにこしている仁の母を相手にしているうちに、緊張の糸も切れたらしい。母同士、姦しくお喋りしている。最近はいろいろ便利な道具も多くてどうたらこうたら、なのに各種申請は相変わらず大変でなんたらかんたら。話のほとんどは、左の耳から入って、右の耳から出て行く。
こういう光景を見ていると、仁は、自分は父親似だな、と思う。何故か? この場で座っていながら、未だ一言も言葉を発していないからだ。いや、母曰く「お父さんは外ではにこにこしてよく喋るのよ」ということらしいので、そういう意味では誰にも似ていないということに……――それでいくと、尊臣以外、誰も似ていないことになるが。
咥えたクッキーを、ぱきん、と割りながらそんなことを考える。
そういえば、鈴子もあまり喋らない。
顔を上げると、前の席に座る彼女は、両手でがっしりと持ったクッキーを小さな口でもぐもぐと食べているところだった。目が真剣だ。どうやら口に合ったらしい。自分が作ったわけではないが、喜んでもらえていることは嬉しい。少し頬を膨らませながら頬張る姿は、食事中のリスを彷彿とさせた。あまりにも合致したイメージに、ふ、と笑うと、彼女は仁の微かな笑い声に気付いて顔を上げ、大きな瞳をぱちくりと動かした。深みのある黒い双眸が、くるりと光る。
――そこではたと、今日は彼女の前髪が無い、ということに気付く。正確には無いのではなく、横に流してピンで留めているのだが。
じい、と見ていると、彼女は仁の視線を気にするように、食べ掛けのクッキーで口元を隠した。きょどきょどと視線を泳がせている。
「……前髪」
びく、と鈴子の肩が震えた。何故か涙目だ。
「横に流してる方が可愛いと思う」
彼女は、ぽと、と手にしていたクッキーを落とした。しかしそれを拾うでもなく、ただ凍ったように固まっている。凍る、といえば、先程まで好き放題にお喋りに熱中していた母二人も、頬に手を当て、同じく凍っている。
「……仁兄、親の前で積極的だね。僕、尊敬するよ」
「は? 何がだ?」
「んー、別にぃ」
クッキーを口に放り込んだ尊臣の言葉で、ようやく凍っていた世界が動き始めた。母たちは「ごめんなさい」「いえいえ、そんなそんな」と謎のやり取りをしている。ただし、鈴子は凍りついたままだ。しかし、仁がクッキーを取ろうとテーブルの中央に手を伸ばすと、弾かれたように喋り始めた。
「こっ、この前髪は、いつものだと謝りに行くのに向かないからって母が、だから、それなのでっ、決して他意はなくて!」
「……鯛?」
なんのことだろう。どうして急に魚の名前を? もしや、めでたいからではない、という主張なのか? 仁は首を捻った。鯛、たい、たいがない……ああ、他意か。ようやく自力で正解に辿り着く。
「この子ったら、こっちの方が可愛いわよ、て言ったら喜んでたんだけどね」
「あらまあ、可愛らしいわねえ。私も一人くらい娘が良かったんだけど。四人とも男の子だったから」
「ちがっ、違うのー!!」
頬を赤らめる彼女を眺めながら、それにしても、と思う。こんな風にはしゃぐんだなあ、と。そしてその時の声は、こんな感じになるんだな、と。新しい一面を知った。
黒曜石を揺らめかせ、あがあがあが、と口を開閉させていた鈴子は、はたと気付いたように再び仁を見た。そして、壊れたオルゴールのように、ぷつり、と黙った。沈黙。
「でもよかったわぁ」
おかげで、彼女の声に似た、彼女の母の声がよく聞こえた。
「娘の周りに妖怪に理解がある人がいて。今の学校に事情をわかってくれている人がいるとは聞いていたんだけど、まさか同じクラスだったなんて」
「……妖怪?」
不思議そうに呟いた仁の前で、鈴子の赤い顔が一転、さあっと青褪めた。
「可愛い娘さんの手助けになっているなら、良かったわ」
母は仁と違って不思議がる素振りすら見せずに、うんうんと頷く。尊臣もまた何事もなくクッキーを頬張っていた。……食い気に負けて聞いていない可能性もゼロではないが。
その後はしんと黙ってしまった鈴子とは一言も言葉を交わすことなく、鈴木親娘は帰っていった。
後片付けを手伝いながら、洗い物をする母の隣に並ぶ。
「母さん。妖怪って何?」
「妖怪とは、『正体が何か分からないが、人を驚かす不思議な変化を見せるもの。化け物。』。以上、新明国第七版より!」
「そういうことじゃなくて」
というか何故、空で言えるのか。鼻白む仁に、母はくすりと笑った。いつもよりも静かに、穏やかに、そして何かを諭すように。
「幽霊と同じよ」
水に濡れた手をタオルで拭きながら、母は真っ直ぐに息子の顔を見た。
「いると思えばいるし、いないと思えばいないもの。この世界に数多存在し、それでいてどこにも存在しないもの。ただの一瞬で、嘘にも真にも変わり得るもの」
母にしては回りくどく、わざと煙に巻くような言い回しだった。
「つまり、鈴木は妖怪ってことだよな?」
「まあ、そういうことになるのかもね?」
こてん、と首を傾げる母に、ふうん、と呟き返す。
「嫌だった?」
「別に」
自然と言葉が零れた。
「幽霊じゃないならいい」
「仁くん、幽霊怖いの」
「怖くないけど」
むっと眉を寄せる。苛立った口調で言い返した。
「幽霊だと、死んでるってことだろ。死んでるより生きてる方が良い」
今度は母がぱちくりと瞬きをする番だった。彼女は次第に肩を震わせ、しまいには声を立てて笑い始めた。ぎょっとする仁のことなど気にも留めない様子だ。
「仁くんは、お父さんの子ねえ」
「は……?」
なんのことやら。しかしその疑問は、次の発言によりすっかり吹き飛んでしまった。
「ちなみにお母さんも妖怪なの」
「……は!?」
生まれてから初めて知る、衝撃的な事実である。そういう大事なことは、もっと畏まった場所で言うものではないのか。どうして今、世間話のついでのように言うのか。というか、母が妖怪――嘘ではないとして――ということは、自分は純粋な人間ではないということではないか。
「ねえ、なんの妖怪か知りたくない? 知りたいでしょう?」
「…………別に」
もちろん、知りたくないわけではない。むしろ、知りたい。しかし、素直に聞くのは癪に思えた。これでも反抗期なのだ。なんだか他人の手のひらで踊らされているようで面白くないのだ。
「あの子のことも?」
「それは――それこそ、自分で聞くから、いい」
それは彼女の口から聞かなければ、フェアじゃない。蒼褪めて唇を噛んでいた鈴子の姿を思い出し、仁は目を瞑った。
夕飯を取り――その時に尊臣がいろいろ話していた気がしたが、あまり聞いていなかった――、入浴を済ませ、自室に戻る。机に向かって、宿題も無事に終えた。
「お疲れさん。もう寝るのか?」
二段ベッドの上の段から声が降ってくる。貴一だ。今現在、貴一と仁で同室、善と尊臣で同室、という部屋割りをしている。
「や、あと少し起きてる。一兄は?」
「俺は寝る。眠い」
ふあ、と欠伸が聞こえた。貴一は典型的な朝型人間だ。
夜が深まるにつれ、早く学校に行きたい、という焦りに近い気持ちと、怖気づく気持ちがより強く、より濃く、綯い交ぜになる。とても今すぐには眠れるとは思えなかった。仁は読みかけの小説を開いた。
(……出会い頭で逃げ出されたらどうしようか……)
有り得なくはない話だ。そもそもこれまで、学校でまともに喋れたことなどあっただろうか。仁は一人、頭を抱えた。
……だとしても、もう彼女との接点は学校しかないのだから、その舞台でどうにかするしかない。
小説のページは、さっぱり進んでいなかった。これから進んでいく気もしない。いっそ、このページに開き癖がつきそうだ。
「……寝るか」
はあ、とため息を吐き、小説を閉じた。ベッドの下の段に身体を滑り込ませる。
寝て起きたら、泣いても笑っても学校に行く時間になる。なんだか、部活の大会前より余程緊張している。そんな自分が不格好で、仁は思わず笑ってしまった。




