3.彼女の拒絶、彼の願望
意外と思うほどに彼女の言葉は強く、凛としていた。そして、たったその一言だけで「意外だ」と思ってしまった自身の浅慮に――会話すら交わしたことがなかったのに、彼女のことを一番知っているつもりになっていた自分の思い上がりに――、顔が熱くなる。
『鈴木鈴子……ねぇ。いたっけか、そんなネタみたいな名前の女子』
不意に星崎の言葉がよみがえった。その時、確かに感じたはずの星崎と仁の差は、自分で思っているより随分と小さかったのだと思い知る。
名前以外に、仁が彼女について、知っていることはなんだろう。他人から認識され難いこと。瞳が美しいこと。頑張り屋なところ。手助けされることを嫌がること。――それから?……それだけ?
仁が言葉を失い呆然と突っ立っていると、彼女もまた居心地の悪さを覚えたのだろう。ぎこちなく頭を下げ、ぱたぱたと走り去った。その後ろ姿が、やけに鮮明に目に映った。
ほどなくして、掃除終了のチャイムが鳴り、仁はぐいっと現実に引き戻された。手に持ったままのごみ袋を見下ろし、慌てて走る。ごみ収集の担当の教師に注意を受けてから、教室に戻った。そこに鈴子の姿はなかったように思う。それが本当にいなかったのか、それとも見えなかったのか、仁には判断がつかなかった。
――『もう、私を助けたりしないでください』。
彼女の声が何度も何度も、頭の中で繰り返し響く。今日は困っていないだろうかと、その姿を探す度に。手伝おうと手を伸ばす、その直前に。
明確な拒絶に、心が及び腰になる。
そんなに迷惑だったのか、と。
机に頬杖を突きながら、はあ、と大きなため息を吐く。
「お、どうしたどうした。幸せが逃げちまうぜ?」
星崎がおどけた調子で絡んでくる。仁は視線だけを彼に向けた。
「別に。ただちょっと、……寝不足だ」
なんとなく嘘を吐く。本当のところは、言い難かった。星崎は不思議そうに「ふーん?」と首を傾げた。しばらくそうして首を左右交互に捻っていた星崎は、「そういやさ」おもむろに口を開いた。
「最近、出動しないな」
「何が?」
「なんだっけ、ほら、えーと、……鈴木ちゃん救援隊!」
なんだ、隊、って。一人しかいないのに、隊も何もあるか。
……などと返す余力はあるはずもなく。むしろ、思いがけず友人の口から出た彼女の名前に、ぴく、と肩が跳ねた。
「別に……」
今度は上手い嘘が見つからず、言葉に詰まった。
「なんだよ、喧嘩でもしたのか~?」
「そんなんじゃない」
「へーえ。でもさ、喧嘩できるって仲良い証拠じゃん?」
「……だから、違う」
喧嘩できるほどの関係性ではなかった。
ぼそっと言い返すと、星崎はじっと俺の顔を見た。後頭部で手を組みながら、へーえ、ともう一度唱える。
「ならさ、とりあえず話し掛けてみりゃいいんじゃね」
予想外の提案に、刹那、息を呑む。
「いや、でも、迷惑――」
「迷惑って言われたの?」
「いや……」
正確には、言われていない。言われていないが、あれはもう、そういう意味と捉えるべきことなのでは。鈴子としては、はっきり「迷惑だ」と表現することが躊躇われて、ああいう言い方に落ち着いただけの話で。……ずき、と胸が痛んだ。
顔を歪める仁に対して、星崎はあっけらかんとした口調で、はっきり言い切る。
「言われてないなら、いいじゃん」
むしろなんで駄目なの? と言いたげだ。
「だって、挨拶くらいしなきゃ、仲良くなんてなれっこないだろ?」
「……え?」
ぽかん、と口を開くと、星崎も、え、と不思議そうに瞬きをした。
「あれ? 仲良くしたいんじゃねえの? 俺、てっきりそういうことだと思ったんだけど」
「仲良く、って……、俺は」
緩く首を振って否定しながらも、ふ、と、あの声をまた聴きたい、などという想いがむくむく湧き上がった。たとえば、笑ったらどんな声を立てるだろう、どんな声で自分のことを呼んでくれるだろう。
「だからさー、仲良くなって付き合って手を繋いでチューしてエッ――」
「そっ、こまで考えてない!」
なんてことを口にしようとしてるんだ、この阿呆は!!
ガタッ、と大きな音をながらしながら立ち上がる。すると星崎は不思議そうな表情から一転、にやにやし始めた。どうやら本格的に揶揄うことにしたらしい。
「うっわ顔真っ赤じゃん。つか、そこまで、って、逆に、どこまでかは考えてたんだ。うわー、むっつり古市クンだ」
片手を伸ばして胸倉を掴み、ぐいっと引き寄せる。
「……変な呼び方するな」
「ゴメンナサイ」
至近距離で凄むと、星崎は素直に謝った。
「いやだってマジ怖かったもん。目で殺られるかと思ったし」
とは、のちの彼の言葉である。
「や、とにかくね、俺が言いたかったのはね、とりあえず話し掛けてみたら~、ってことだから、うん。それだけそれだけ。ほんとそれだけだから」
星崎は明後日の方向を見ながら、両手を挙げて降参ポーズをした。仕方なく解放すると、「怖え。古市マジ怖え」とぶつぶつ呟いている。
「……星崎」
「なまじ顔が整ってる分、凄むと怖えんだよ。元々眼光鋭いんだから、余計に迫力が――あ、なに?」
「ありがとう」
何故だか眦に涙を浮かべていた星崎は、ぱちくり、と瞬きすると、破顔した。にへら~、と見ている側の気が抜ける笑み。そしてすかさずサムズアップ。
「いいってことよ!」
……相変わらずの、お調子者である(一応、褒めてはいる)。
――とはいったものの。
(話し掛ける……って、どうすればいいんだっけな)
朝の挨拶。帰りの挨拶。他愛もない世間話。――駄目だ、どれもその後の会話に繋がるイメージができない。
ううむ、と唸る。
そうこうしている間に、一週間はあっという間に過ぎていた。自分がこんなにも行動できない人間だったとは。仁は、自身に情けなさを覚えた。
帰りのHRを終え、今日こそは一言くらい挨拶を、と鈴子の席に目を向ける。
彼女は、教師から頼まれたのだろうか、クラスメイト全員の数学の問題集とノートを一段に積み上げ、抱きかかえるように持ち上げているところだった。そのまま歩き始めたが、足元がふらついている。明らかに重量オーバーだ。
「星崎、先に部活行ってろ。俺、職員室に用事があった」
あった、というか、できた、というか。「おお……?」と首を捻っている星崎を放置して、慌てて駆け寄る。
「半分貸して」
びく、と震えた身体に、我に返る。『もう助けないで』と言われていたのだった、と遅れて思い出した。そのことについてずっと悩んでいたのに、困っている彼女を前にして頭から零れ落ちていた。
彼女は小刻みに頭を横に振りながら、差し出した手を避けるように後退する。
そこまで嫌か。悲しくなったが、なんとか苦笑らしきものを浮かべてみせた。
「……悪い。無理にとはいわないから」
手を引っ込める。
「じゃ、また明日」
それまで掛けることができなかった言葉が、口の端からするりと落ちた。しかし今は、念願の『帰りの挨拶』ができたじゃないか、と手放しに喜べる心境ではなかった。
昇降口に続く階段を下りながら、ふと気になって上を見る。彼女はようやく階段に差し掛かったところだった。
(いや、ちょっと危なくないか?)
前、見えているんだろうか。その疑惑に応えるように、すっと前に出た足が、足元の状況を探るように動いている。……前、見えてないだろう、あれ。
(やっぱり無理にでも手伝おう)
万が一、事故にでも繋がったら、それこそ後悔する。
早々に前言撤回した仁は、身体を反転させた。一段上に足を乗せたところで、彼女の方に変化があった。
「ひゃ……っ」
小さな悲鳴。と同時に、冊子の束がぐにゃりと傾き、仁の方へ落ちてくる。鈴子は傾いたそれらを慌てて留めようとしたのだろうか、それとも単に本人もバランスを崩しただけだったのか――そのつま先が何もない空間を蹴った。
一瞬のできごとだった。
仁は自分に向かって落ちてくる多数の冊子の隙間から、彼女の位置を捉える。顔や肩にぶつかってくる冊子を無視して、大きく広げた腕の間に、なんとか彼女の小さな体躯を収めた。とはいえ、いくら小柄とはいってもさすがに人間の身体を受け止めるのは予想以上に大変だ。手すりを掴んだ腕に、ぐん、と一気に負荷が掛かる。
「っ――!!」
しかし、悲鳴をあげたのは、腕ではなく足首の方だった。頭を打ち付ける最悪の事態は回避できたものの、二人分の重さに耐えかねて後ろに下がった拍子に足首を捻ってしまったらしい。ずくん、とこれまで感じたことのない痛みが不定期に襲ってくる。
仁の腕の中で呆然としていた鈴子は、やがて我に返って慌てて仁から離れた。そして、痛みに顔を歪める仁の顔色を見ると、さあっと青褪めた。
「ど、どこかっ、いため……っ!?」
「はっ……、っ、ぐ……う」
足の方へ目をやった彼女の言葉が止まる。無理もなかった。足首は、見るからに痛々しく腫れあがっていた。そのうえ、痛みを誤魔化すように唇を噛み締める仁の顔色は、見るからに悪く、尋常ではないレベルの脂汗を掻いていた。
「なんだ今の音、――おい古市! どうした!?」
「や、なんでも……」
「ばか! なんでもって顔じゃねぇよ!」
「わ……わたし、先生呼んできます!」
「おお、頼んだ!」
鈴が鳴るような声が、悲痛に響く。ぱたぱたぱた、と廊下を駆ける音。
あれだけ走れるなら、鈴子には大きな怪我はなさそうだ。仁は痛みの中、ほっと胸を撫で下ろした。これで彼女まで怪我をしていたら、とんだ笑い話だ。あまりにも報われない。
仁は、ははっ、と笑った。それは周りからしたら、荒い息遣いに紛れて、わからなかったかもしれないが。




