2.俺の周りは策士だらけ
顔を引き攣らせる俺に、母は滔々と説明する。
――曰く。
マヤこと、輝夜マヤは、日本人の父と、アメリカ人の母の間に産まれたハーフである。彼女の父は仕事の関係で度々アメリカに行っていたが、この度昇進が決まり、少なくともあと数年はアメリカで暮らすことになった。彼女の母もまた、夫と共に母国アメリカへ戻ることにした。
一方娘のマヤは、「小・中学校と日本の学校に通い、この春からは高校に通っている。せっかく入試に受かって、友達もできたのに、アメリカに行くのは嫌だ!」と日本に残ることを希望した。その主張が認められ、単身日本に残ることになった。
……ここまでは、まあ、いい。ただの家庭の事情だ。問題はここからだ。
高校生の娘に一人暮らしをさせるのは不安だ。ではどうするか。母の親戚は全員アメリカにおり、父の親戚は日本国内ではあるが遠方だ。そこで輝夜夫妻は、信頼できる人に託すのが良い、という結論に至った。
それがどうして、赤の他人の俺になったのかというと、……どうやら、輝夜夫婦と俺の両親の間に、古くから付き合いがあったことが起因しているらしい。
初めは母が引き受けるという話が進んでいたのだが、俺の実家は、彼女の高校から少しばかり距離がある。これは俺自身が経験しているので、よくわかっている。男の俺なら良いが、女の子が通うには不安もある。悩む一同。そこでうちの母がぽんと手を打った。
「なら、ちょうどいいのがいるわ」
もうおわかりだろう。母の言う『ちょうどいいの』というのが、俺だった。
(…………いや、ちょっと待て)
ある意味一番駄目だろ!? 赤の他人の、三十路男と一緒に暮らすって――どうこうするつもりは、決してないけれど――世間様が許さない。主に俺を。まかり間違って何かしようものなら、法律にも許してもらえない。勘弁してくれ。
否、法律云々よりもまず先に、程良い距離感を保っているご近所さんから白い目で見られることになるのではないか。あるいはもっと酷いことが起こるのでは……?
顔を青褪め固まる俺の顔を、「一兄、大丈夫?」とマヤが覗き込む。ヘーゼルの瞳は、日本人ではあまり見かけない色だ。油断すると吸い込まれそうな程、透明感のある美しさ。
気付いたら、電話は切れていた。最後の挨拶をしたのかどうか。思い出せない。思い出せないが、最後まで母は能天気に笑っていた気がする。
それにしたって、この子もこの子だ。いったいどういうつもりで来たのか。見ず知らずの男と暮らすなんて、いくらなんでも警戒心が無さすぎやしないか。
責めるように零せば、彼女はまた大きな目を瞬かせてから、ころころと笑った。
「あたし、全く知らない男の人と一緒に暮らすなんて嫌だよ。でも一兄は、あたしと面識、すっごぉーくあるでしょ? 一兄、忘れちゃったの? あんなにたくさん遊んだのに」
ママは憶えていてくれてたのに、と揶揄うように唇が弧を描く。彼女のいうママが、俺の母親であることに、それでようやく気付いた。
母とも……俺とも、面識が? ああなるほど、だから了承したのか。そう考えれば、辻褄は合う。母は、おそらく俺が彼女のことを憶えていると思ったのではないか。だから俺のことを適任だと思ったのでは。
しかし、俺はこんな子供知らない。彼女の記憶に残っているということは、少なくとも彼女がある程度大きくなってからの思い出のはずだ。とすると俺は、……何歳頃だ?
――えーと、ちょっと待て、高校一年生って、十六歳になる年だろ? 年度の初めが誕生日でなければ、今は十五歳のはず。俺と一回りは違う。というか、二倍違う。つまり――どれだけ遡ったとしても、十年以上前の出来事ではないだろう。俺は成人しているか、もしくはそれを間近に控えていた年齢であるはず。よく遊んだのなら、憶えていないわけがないのに。
一体全体、どういうことだ。思わず壁に手をついた。駄目だ、理解が追いつかない。誰か助けて、いやマジで。
マヤが、仕方ないなあ、と腰に手を当てる。
「また思い出してね? これ、一兄の宿題だから」
挑戦的に言い放つと、缶ビールを持ち上げた。
「おい」咎めるように声を発すれば、「飲んだりしないよ、何歳だと思ってるの」とぷくりと膨れっ面になる。何歳って、十五、六だろ。わかっているから止めたんだ。
「温くなってそうだったから、取り替えてあげようと思っただけだよ。冷蔵庫に他のまだあるでしょ?」
決め付けるように言われ、ぐっと黙る。なんで知っているんだ。困惑を混ぜた視線を向けると、彼女は目を細めた。
「昔からだもん。弟に取られてもいいようにって予備を買っておくの。もう癖だよね」
――確かに、彼女は俺のことをよくご存じらしい。
動揺する俺の目の前に、冷えたビールが置かれた。彼女は丸テーブルを挟み、俺の正面に座る。
「さ、どうぞ?」
って。おい、ここは俺の家だぞ。――そんな当然のツッコミができないレベルまで、俺は混乱の渦に突き落とされていた。
結局、なし崩し的に空いている部屋を明け渡した。弟たちが遊びに来た際に、客間として提供している部屋だ。壁いっぱいに備え付けられた本棚と、その中に押し込まれている本の山に目を瞑れば、まあまあ快適に過ごすことができる。
とはいったものの、主に推理小説が好きな俺の本棚は、暗色のカバー物の割合が大きく、女子高生の部屋としてはいささか物々しい。当の本人は気にした様子は無かったが、友人を呼ぶ時に困るのではなかろうか。……いや待て呼ばれても困る。見知らぬ男と同棲、などと噂されても困る。子供は子供らしく外を走り回っていてくれ。補導されないレベルで。頼むから。
夕食は既に食べて来たというマヤの言によると、明日、明後日は平常どおり学校に行くらしい。土曜の朝に残りの荷物が届き、土日に掛けてそれらを整理する、と。
何故、押し掛けてくる日に水曜の夜を選んだのか。それこそ金曜や土曜ならもっと色々なことがスムーズだろうに。唸る俺の疑問に、マヤは端的に答えた。
「だってママが、水曜なら一兄が比較的帰りが早いって。それに金曜や土曜だったら追い返されるかもしれないけど、平日ならそんな余裕が無いからって」
どうやらうちの母は、息子の性格をよく熟知しているようだ。頭を抱えた。
「あ、洗濯はあたしが担当ね」
「は? い、いやあのなぁ……!」
細い指で自らを指し示した彼女に抗議する。この上で家事分配までされたら『お客様』の域を軽々と越え、『同居人』と化す未来が容易に見て取れた。だからこそ、今ここでこの申し出を了承するわけには――
「一兄、女の子の下着、干せないでしょ?」
「…………謹んでお願い申し上げます」
――最初から全て、計画的犯行の気がしてきた。