10.貴方じゃないと嫌なの
「ど、どうしよう……」
そもそもが最初の大前提から違っていただなんて。
「はっ、そうだ携帯!」
ぎゅううう、と握り締めていた携帯を開く。電話帳に『古市善』で登録している番号に発信を――
「…………なにいえば、いいんだろ」
勝手な理由で結婚迫って、勝手な理由で出て行って、勘違いだったから迎えに来てください? それで、また、結婚生活を続けましょう、って?
言えるの、私に。それを。
ぐ、と唇を噛む。
それより先に、言うべきこと、あるんじゃないの?
「……っ」
意を決して、ボタンを押下する。
コール音が鳴るやいなや、すぐに電話が繋がった。
『もしもし』
「も、もしもし!」
自然、ピンッと背中が伸びる。そんなに久し振りという訳でもないのに、何故だか懐かしく思う。
「あのっ……あの、私、お話が、ありまして」
『何?』
ほとんど私の言葉に被さるような返事に、つい萎縮してしまう。
「あの、私、雪女でして!」
『……知ってる』
少し、間が空いた。
「一人前になりたくて、善さんと結婚したんです。正体がばれて、善さんの下を離れたら、認めてもらえるんです」
『それも知ってる』
「ぜ、善さんが私の正体を知ってること、知ってたんです。パソコンの中、勝手に、見ちゃって」
『うん。それも、知ってるよ。マウスの位置がずれてたから。で?』
それで。
ごくり、と唾を飲み込む。
まず言わないといけないこと。
「勝手にパソコン見て、ごめんなさい!」
シン、と電話の向こうが無音になった。
「ぜ、善さん……?」
呼び掛けると、ようやく彼は反応した。
『別に、良いよ。半分くらい、見せるためにやってたことだから。俺、口下手だし、自分の口からだと、……言えそうもなかったし。だからパスワードも、きみなら解けるものを設定したんだ』
電話越しに、ふっと苦笑する気配。
『でも、やっぱりそれでも、無理だった』
「無理?」
『うん、無理。きみがいないのは、俺、嫌なんだ。今日、千佳を駅まで送って、家に戻って、やっぱり無理だって思った』
静まり返った2LDKに、一人。想像する。それは、確かに、寂しくて、辛くて。もし私がその立場なら、どうしてここに彼がいないんだろう。そう思ってしまいそうだった。
彼も同じように感じてくれたんだろうか。
はっ、と喘ぐような荒い息遣いが聞こえる。苦しげだ。
『――っ、だから、ごめん。やっぱり俺は、きみを一人前にできるような、立派な夫にはなれない』
日記の最後にも綴られていた文言に、息を呑んだのは一瞬のこと。
それら全てが自分の勘違いであったことを、ほぼ同時に思い出し、私は青くなった。違う、違うんです。それ、立派な夫の条件じゃなかったんです。
「あ、あ、……あああのっ! そ、その件、なのですが、ま、誠に申し訳ございません」
『ん?』
「実は――!」
『あ、ちょっと待って』
ぶつ、と通話が切れた。え、と声が漏れる。画面を見下ろす。通話終了の文字が踊っている。え、え。なんで切れたの。
狼狽える私の肩を、背後から、がっしりした手が掴んだ。
「んぎゃああああああ!?」
へへへへ変質者! こんな場所で! こんな場所に!?
私は悲鳴を上げながら、反射的に日傘を振り上げた。
「千佳、落ち着いて。ごめん、落ち着いて」
もう随分と聞き慣れた声が、それでいて未だに私をどきどきさせる声が、耳元で聞こえた。私はぴたりと動きを止める。
「え……? え、なんで?」
肩が大きく上下している。駅から走ってきたんだろうか、彼の全身から汗が噴き出していた。まるで私と同じで、溶けているみたいに。
基本インドア派の彼が、そうでなくても静のイメージが強い彼が、こうも汗を掻いている姿を、私は初めて見た。
「あとの電車に乗ってきた。ごめん。でも、ただ諦めるのはどうしても嫌だったんだ」
彼は、振り上げたままの日傘を、私にしっかりと握り直させた。振り上げた体勢だと、日に当たる部分が増える。それを嫌がっているようだった。
「一緒に逃げてくれ、とも言えなかった。言いたかったのに。だってきみがどうにかなったら、俺にはどうしていいのかわからないんだ。昨日みたいに。大事にしたいのに、護りたいのに、方法がわからないんだ」
突然の告白に、私はぽかんと阿呆面を披露した。熱っぽい視線に晒され、見つめられた先から溶けてしまいそうな錯覚に陥り、私は慌てて俯いた。頰が熱い。
「でも一緒にいることも諦めたくない。だから、俺も一緒にご両親のところへ行かせてくれないか」
――情けない想いの丈を全部ぶつけて、きみと一緒に生きられる道を見つけたいから。
私は呻く。赤い顔のまま。
「や、あの、実は、ですねぇ――」
それこそ噴火するくらいの羞恥心で全身を溶かしながら、私は赤裸々に事情を語った。
私の話を全て聞き終えた善さんは、ぽかりと惚けた顔をした直後、ふっと噴き出した。手の甲を口に押し当て、顔を背けて隠そうとしているようだが、完全に肩が笑っている。全然、隠せていない。
うー、と唸る私に「千佳らしいな」と褒めているんだか貶しているんだかわからないお言葉を頂戴した。
「じゃあ、ちょっと俺、早過ぎたな。全力で走る必要無かった。……あっつ」
首元をぱたぱた扇ぐ善さん。
「いえ……事情を知らない善さんが実家に乗り込んできたら、今度こそ私は憤死します」
「そう? なんで?」
なんでも何も。この騒動の発端が私の『知識不足』だとばれるからである。この狭い土地柄、噂はすぐに広まるだろう。ルリカも一因なのに、というか彼女が要因なのに、世渡り上手と言うべきか、のらりくらりと躱して、結局全てのダメージを私が食らうはめになるのだ。
斯くなる上は、正しい掟を知っている体で、話を通すしかない。
――ルルル、とシンプルな着信音が、彼のポケットから流れてきた。
「……? 千佳の実家からだ」
「え!?」
なんで!? 慌てふためく私を尻目に、善さんは普段通りの冷静沈着な表情を一切崩さなかった。羨ましいを通り越して、ちょっとだけ憎らしい。私が考えを纏めようとしている間に、彼は携帯を耳に当てていた。
「はい、……ええ。はい、……はい、さっき聞きました。……いえ、もう着くかと思います」
なにやら、不穏な会話である。
聞いたって、何を?――この流れからして、雪女の件を。
もう着くって、どこに?―――少なくとも、今向かっているのは私の実家だ。
結論。
「ご両親、全部ご存じのようだけど……」
電話を切った善さんが、首を傾げる。
私の期待は、淡くも崩れ去った。
ルリカが先手を打ったのだ。
つまり、うちの両親へリークしたのである。なんで!?
お陰様で、二人揃って実家に辿り着いた時には大変だった。
――うちの娘が大変なご無礼を。とんでもないご迷惑を。嫌気が差していなければいいのですが、ええ本当に。本当にもう。昔からすっぽり抜けた子でして。決して悪気は無くて、良い子ではあるんですが、はあ。
母は出会い頭から、ぺらぺらと、擁護なのか非難なのか難しい判断が迫られる発言をひたすら口にしている。そうなんですそうなんです、と父までも加勢するものだから、私は非常に居た堪れなかった。自らが蒔いた種とはいえ。どれくらいかというと、手の指が溶けて引っ付いてしまうくらいだ。これは内心の動揺だけではなく、長く炎天下にいたことも多分に影響しているのだが。やっぱり、夏なんて嫌い。
変に溶けた指を折り曲げ、握り拳を固める私の頭に、善さんはぽんっと手を下ろした。
「騙していたのは、こちらも同じようなものなので。……誤解が解けたところで、改めて申し込んでもよろしいですか」
「へ、はあ、何をでしょう」
本当に、何をでしょう。
母と一緒に惚けた顔で、手の主を見上げる。甘い眼差しとかち合った。ふわり、と彼はこれまで見た中で一番の笑顔を浮かべる。
「娘さんを、彼女の一生涯を、僕にください」
どくん、と心臓が慌てた。
え、と声が漏れる。
ぐるぐると悩んでいたはずのことが、全て吹っ飛ぶ。彼の言葉だけが全身を占拠していて、それ以外は真っ白なまま、なかなか復活しない。お陰様で、彼が口にした言葉の意味を理解するのに、ひどく時間が掛かった。
「それって……」
この先も、一緒にいていいということですか? 傍にいることを、貴方も望んでくれているということですか?
そう訊きたくて。
肯定されたくて。
……けれど、その質問や回答を全て省略して、我が母が「喜んでっ!」と彼の手をがっしり握った。
待って待って、なんで私に譲ってくれなかったのかな、その役目!
――なお。
後日、抗議の電話を掛けた際、ルリカは語った。
これまでの私の性格上、行き詰まって連絡を取れない可能性が高いから、両親へ伝えて間を取り持ってもらおうと思ったのだ、と。
『そりゃあ、私にだって少しは罪悪感あるのよ? だって、千佳が結婚まで行き着く人がこの先いるか、わからないじゃない?』
耳を打つ声は、いつも通り軽やかだ。どの口が罪悪感だなんて言っているのか。大体が、次に続く言葉が完璧に私を馬鹿にしていた。
『それにしても、意外だったわぁ。千佳が自分から電話するなんて。相当好きなのねえ〜?』
「煩いです余計なお世話です放っておいてください」
思わず敬語で詰った私に、『まあひどい』ところころ笑うルリカ。
案の定、彼女はこう締め括った。
『ま、どう転んでも酒のネタにはなるから、いいんだけどねー?』
まさしく、性悪である。
「あ、あ、あんたねえ!?」
『あ、ごめんねー。私この後予定あるから、またねー』
電話が切れる直前に、彼女は早口で言った。
『そうそう、めでたいことではあるから、一応お祝いしてあげるわ。おめでとう、千佳。幸せにね』
そうして、私の反応を待たずに通話終了。
「まったくもー……」
私は天邪鬼を極めた悪友の発言に、むず痒さを覚え、頰を掻いた。




