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古市家の妖怪事情  作者: 岩月クロ
第二章 約束を破ってもらえない雪女
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6.未来の約束が欲しくて

 夜のイルカショーは、昼とは一風変わった雰囲気だった。

 広いプールの水面を月の光と色とりどりの照明が照らす中、しっとりとしたバックミュージックが流れる。落ち着いた夜の雰囲気。イルカが高く、高く跳ぶ。

 歓声が上がるが、それも昼間とは違い、わあっと沸き立つものではなかった。静かな驚きと感動がゆっくりと地面を這うように広がっていた。



「ナイトショー、面白かったですね」

 程良く冷えていた身体が、知らないうちにほかほかしている。少しだけ暑い。指先を拭う前に、善さんが私の手を絡め取った。

 いろんな意味でドギマギしている私に、彼は囁く。

「次に行きたいところがあるんだ。いいか?」

 ぎゃあ、と心の中で叫びながら、壊れた人形の如く、ことことと首を上下に動かした。

 私の返事に辛うじてイエスの意思を読み取ったのだろう、善さんはそのまま歩き始めた。

 行き先は、建物内、ではないようだ。建物の出入り口からは、むしろ離れている。

 はて、どこに行くのだろう。



 しばらく――五分程だろうか?――歩いてから、唐突に善さんは足を止めた。私もたたらを踏みながら、止まる。

「着いた。ここ」

 目の前にあったのは、小さな鐘だった。鐘といっても、神社などにあるものではなく、パワースポットで恋人同士がハートを飛ばしながら鳴らす、アレだ。私には無縁な、アレ。そんなアレが、どうして私の目の前に?

 善さんが興味があったわけではないだろう。彼はこういったことには無頓着そうだ。

 狼狽える私の顔を覗き込んだ善さんは、少しばかり表情を曇らせた。

「気に入らなかった?」

「と、とんでもない! こんなとこ初めてなので、ビックリしちゃっただけで!」

「初めて?」

 こてり、と小首を傾げる彼に、むっとする。なんだろう、その、意外だと言わんばかりの、顔。

(そりゃ、善さんなら、経験豊富なんでしょうけどっ!)

 自分で叫んで、自分がダメージを食らった。ああそうだ、きっと彼は行き慣れているんだ。だってこんなに格好良いんだから、彼女の一人や二人や……いや、四人や五人くらいはいただろう。

 通算ゼロ人の私とは、違う。

 そう思いながら、気になっていたのは、経験の差でも、人数の違いでもなくて、ただ大きくて、溶けてしまいそうな程に温かい手が、過去に誰かに手を握られ、誰かの手を握ったのだということだった。


 この手は、自分だけのものではあってくれない。それが、悔しくて、悲しい。

 これまでだけではなくて、この先だって。

 自分だけのものなのは、いまこの瞬間だけ。

 私は、雪女だから。

 正体がばれたら、誰かにこの場所を譲らないといけない。

 破られない約束が辛ければ、破らなければならない約束もまた、辛かった。


 突然涙目になり、すんと鼻を鳴らした私の姿に、憐れみを覚えたのだろう。善さんは、珍しくもぎょっとした顔をしながら、「やっぱり、やめようか」とはっきり口にした。

 慌てて首を振る。もちろん、横に。

「せ、せっかくですから! 鳴らしましょう、鐘! 盛大にっ!」

「そうしたいけど、……夜だから、静かに鳴らそう」

「そ、そうでした……」

 溶ける指先を気にしながら、鐘の前に並ぶ。握った手をそのままにして、私たちは空いた手で紐を掴む。かこんかこん、と控えめな音が鳴った。おっかなびっくり揺らしたので、ぱっとしない音だった。

 二人で顔を見合わせ、ふっと笑う。

「昼の方がよく鳴りそうです」

「じゃあ、次は昼に来よう」

「はい」

 返事をしてからしばらく、私はそれが、次を約束する言葉だということに気付き、再び目頭が熱くなった。

 次、来れますように。



 それから少しの時間、私たちは水族館の売店を巡った。

「か、可愛い……!」

 持ち上げたのは、大きなカメのぬいぐるみだった。下手したら両手でも抱え込めない程、大きい。値札を見て、可愛くない金額にそっと手放した。ごめんよ、きみはうちでは飼ってあげられない。

「買わないの?」

「や……ほら、置く場所も無いですし」

「リビングに置けばいい」

「でもぬいぐるみ、鑑賞するくらいしか使い道ないですし」

「このサイズなら、座布団にもできる」

「踏まれる!?」

 あーだこーだと述べて気後れする私を押し切って、善さんは大きなカメぐるみを購入してしまった。店員さんの視線が、やけに温かい。子供のために買っていったようにでも見えているんだろうか。だとしたら申し訳ない。

 それにしても善さん、そんなにこのカメが気に入ったのか。

 つぶらでくるくるな瞳でじっと見つめてくるカメ。確かにこれは、悶える程に可愛いけれども。

 ビニール袋に入ったカメぐるみにぎゅっと抱き着くと、ビニールが擦れる音が響いた。一歩前を歩いていた善さんが肩越しに振り向く。

「喜んでもらえて良かった。ちゃんとしたデート、初めてだから、何か贈りたくて」

 どき、と胸の奥が跳ねた。

「これを置いとけば、『昔こんな無駄な買い物をしたな』って思い出になる」

「やっぱり無駄な買い物って思ってたんですね!?」

 憤る私に、善さんは不思議そうに首を捻り「褒めたんだけどな」と言った。その感性は、私にはわかりかねる。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 帰路に着く。

 車が静かに、深夜の道路を走っていく。その道中で、私は今度は別の意味でどきどきしていた。

 決めていたのだ。

『噴火なんかしたら、千佳が溶ける』

 その言葉の真意を、今、訊くと。

 ごくり、と生唾を飲み込む。その音がやけに大きく響いた。

「あの……っ」

 意を決して、私は彼に話し掛ける。

「きょ、今日は、ありがとうございまし、た!」

「楽しかった?」

「はい、とても……!」

 夢みたいな時間だった。本当に夢だったのかもしれない。夢じゃないよね?

 思わず頰を抓る私の横で、ハンドルを握った善さんが、「そう」と短く反応を示し、ふわりと笑った。その笑顔に視線も、思考も、全てを奪われる。言葉を失う頭の片隅で、今日はよく彼の笑顔を見る日だ、などと漠然と考えた。


「俺も楽しかった。こんなに楽しかったのは初めてだ」

「そ、う、ですか」


 顔が熱い。血が集まる。ぶああっと赤くなっているに違いない。

 泣きたくなる。綯い交ぜになった感情に対応しきれない部分が、涙として漏れ出す。

 彼は運転中で、こちらを見ない。それが救いだった。

 ばれないうちに乱暴に擦り取った涙を隠しながら、背筋をぴんと立てた。気合いを入れなければ、続きを口にできなかった。

「っ、それで、あの、訊きたいこと、あるんです」

「……何?」

 声が詰まる。訊ねなくてもいいんじゃないか、なんて、今更な考えがふっと浮かぶ。それでも私は、言葉を紡ぐ。


「前に、私が溶ける、って……あれって、どういう意味、ですか?」


 少し間があった。それから「ああ、あれか」と思い出したように声が弾む。

「千佳、よく顔が真っ赤になってるから。今にも溶け出しそうなくらい。……ほら、今も赤い」

「エスパー!?」

 見えてないはずなのに! 思わず飛び上がる。

「残念ながら、ただの勘。当たったようで何より」

「…………」

 勘だった。

「それがどうかした? ただの比喩のつもりだったんだけど、駄目だった?」

「あ、いえ……っ、お気になさらず!」

 ぱたぱたと手を振る。

 ほっと胸を撫で下ろした。私はまだ、彼と一緒にいられるらしい。先になればなる程、辛さが増すことも想像できるのに、それでも私は目の前の幸せを選んでしまう。


 私は祈った。彼が一生雪女の話なんてしないで、目の前の幸せが、ずっと、ずっとずっと長く、続きますように、と。



 その願いは――叶わずに、終わる。






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