月はいつでも其処にある
香織は暇だった。
一人娘の花音も高校生になり、部活だなんだと家には寝に帰るようなもので、夫も似たようなものだ。
独身の頃は勤めていたが、結婚と同時に夫の希望で主婦になった。間もなく生まれた娘の世話に追われるうちに働く意欲もすっかり薄れ、また、働かずとも贅沢をしなければ生活は何とかなったのですっかり引き籠もり生活になってしまった。
娘の高校受験までは、PTAだなんだと役員を押し付けられ、それなりに忙しかったような気がするのだが、高校入学と同時にぴたっとその忙しさもなくなり、二人が会社に、学校にと出かけて帰ってくるまでの日中はとてつもなく暇だった。
洗濯物は朝一番に済ませるし、朝食や弁当は作るもののせわしないのは一時だけ。夕食は6時に取りかかれば十分に間に合う。今更働きに行こうとしても、長年社会から離れていた香織にはハードルが高く、しかも、そのハードルを越えるほどの熱意もなかった。
趣味、というほどの趣味もなく、唯一人に聞かれて答えられるのは無難な読書という個性のないものだった。
その日も、香織は暇だった。
洗濯物をベランダに干し、掃除機を掛けると後は夕方になるまで特にすることもない。
学生時代に仲の良かった友達は、皆こどもを預けられるようになると勤めに出たせいで話も合わず、時間も合わない。ごくたまに会っても、お気楽な生活でいいわね、と嫌味を言われるのが落ちなので最近では自分から進んで声を掛けることもなく、声を掛けられても何か理由をつけては断るようになっていた。
日曜日だというのに、娘は昨日から合宿に行き、夫は休日出勤。あの職場で休日出勤なんて怪しいものだけれども。最近はお互い空気のようなもので、たいした言葉を交わすこともなく、以前はこれではいけないのではないか、と内心焦った香織が話しかけていた時もあったが、夫が小さい画面に夢中で何も聞いていないことが判明したので、特に用がない限りは話し掛けもしなくなってしまった。
当然、もうかれこれ10年くらい体など重ねていない。更年期に入ろうかという年頃なので、そういう感情は枯れてはいるけれど、夜中に何かの拍子で目覚めた瞬間、無性に寂しくなることはある。それが、ただ人肌恋しいだけなのかどうかは香織にはよくわからなかった。
時計を見ると、まだ昼前で、この狭いマンションの部屋に閉じこもっているのも馬鹿らしくなった香織は出かけることにした。
小さなバッグに財布と鍵、ハンカチを入れて玄関を出る。
「さて、どこに行こうか。」
小さく呟いて、香織は歩き始めた。
*
一時間後、香織は初めて降り立った街の、駅前のベンチでコンビニコーヒーを飲みながら、人の流れを見ていた。
暑そうに汗を拭きながらせかせかと歩くサラリーマン。
ベビーカーを押しながら楽しそうに歩く若いママ軍団。
スマホを眺めながら器用に歩く学生らしい男の子。
いろんな人がいろんな方角から来て、いろんな方角に散っていく。
誰も香織のことなど気にもとめないし、視線を向けることすらしない。
家にいても外にいても同じ、って笑える。
空になった紙コップをゴミ箱に捨て、香織は一つため息をついた。
髪でも切ろうか。
長い髪が好きだと言ってくれた若かりし頃の夫。今、香織がバッサリ髪を切ったら何か反応を見せてくれるだろうか。それともいつものように興味もなく何の反応も示さないのだろうか。試してみるのも悪くない。反応がなければないで、香織も前に進めるかもしれない。この澱んだ温い水溜まりのような生活にはもう耐えられそうにもなかった。
裏通りに面した小さな小さな美容室に行き着いたのは偶々だった。
フレンチシックな外観に目を惹かれ、中をさりげなく覗いてみるとシンプルな造りながらもセンスのいい小物があちこちに配置されていた。久しくそういった場所には縁が無かった香織だが、なぜか吸い寄せられるように入り口へと足が向いた。
ガラスの扉を開け、中から出てきた店主と思しき男性に「ごめんなさい。予約をしていないのですけど…」と告げると、「初めてですか?今日は誰も予約入っていないので大丈夫ですよ」と笑顔で答えてくれた。
椅子に座り、髪型の希望を聞かれる。バッサリ切ってイメージを変えたい。でも服を選ばない感じにして欲しい。とかなり抽象的な希望を述べた。彼、野崎さんというらしい、は、頭の形を調べ、髪質や量などを念入りにチェックした後、髪に色を入れるかどうかを聞いてきた。それも含め「お任せします」と答えると「お任せください」と悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
シャキッ、と長い髪に鋏が入る。
結婚以来、揃えるほどにしか切ったことのない髪が、みるみるうちに肩より短くなっていく。まるで魔法のように流れを整えられ、今まで染めたことのない髪が複雑な色味を加えられていき、香織が思っていた以上の仕上がりに変化していった。
長めの前髪は適度に剥かれ、トップからふんわりとショートボブっぽく整えられている。小学生以来のショートヘアは、先ほど腰まであった髪がいかに重いものだったかを実感させるほどに軽く、香織の心を浮き立たせるには十分であった。
「ありがとうございます。何と言っていいか…スッキリしました」
笑顔でそう告げる香織に、野崎は「そう言っていただけてほっとしました」と笑顔で返した。
顧客カードを書き、会計をすませた香織が店から出て家に帰ろうとした時、野崎が「市ノ瀬さん」と声を掛ける。
振り向いた香織に「…頑張ってください」と言った。曖昧に頷いた香織に「またお越しください、。お待ちしております」、そう愛想良く告げ、野崎は扉を閉めた。
自分の小さな決心を見透かされたような気がして、少し動揺しながら、まだ燃えるように熱い日差しの中、香織は家路についた。
夕食を作り終え、いつもの休日出勤ならそろそろ帰宅してくる夫を待つ。
今日の髪型を見た夫の反応を見てから、今後の人生を決めようと改めて決心し、少し緊張しながら香織はテレビのニュースを見ていた。
ガチャ、と玄関のドアの音がする。誰か帰ってきたようだが、ただいまの一言がないということは夫であろう。夕食を並べようと立ち上がったところで、中に入ってきた夫と目が合った。
「おかえりなさい」
半分期待しながら待った夫からの言葉は、予想していたものとは全く違っていた。
「無駄金使いやがって」
一瞬目を瞠った後、吐き捨てるように言い放たれた言葉に、心が、折れた。
スッと、自分から表情が抜け落ちるのがわかった。
黙って、食事をテーブルに並べ、無言で食べた。砂を噛んでいるみたいに味気ない。
もう、無理だ。
この生活を続けていくことも。
自分自身の心を押し殺しながら生きていくことも。
この人にとって、私は妻ではなく、体の良い家政婦としか見られていないのかと、悲しみと怒りが目尻を焼き、喉をひりつかせた。
服も化粧品もほとんど買わず、年に二度1000円カットで毛先を整える程度に切ってもらう。それもこれも「家で奥さんが待っていてくれるのが夢だったんだ」という夫の希望を叶えるために、働きに出ていないからではないか。内職は「貧乏くさいし、散らかる」から出来ない。何度、パートに行きたいと訴えたか。その度に不機嫌になり、やりくりするのが妻のつとめだと言ったのは誰だ。中小企業の夫の給料なんて、正直しれている。それでも、夫と娘に恥ずかしい思いをさせないようにと、自分のことは後回しにして過ごしてきたのに。
何とか食事を終わらせ、片付ける。夫が風呂場に行き、香織はスーツをハンガーに吊した。いつものようにポケットを探り、ハンカチを探す。指先に何か堅いものが触った。摘まんで出してみると、ストーンを少しあしらったネイルチップだった。
ふっ、と嗤う。わざとだということはわかっていた。三ヶ月ほど前から夫がわからない位置に口紅がついていたり、ピアスが片方だけポケットに入っていたり、と女の存在を主張するささやかな嫌がらせが続いていたから。香織に対する宣戦布告なのかどうかはわからないけれど、以前のピアスと同様有り難く証拠の品を頂戴することにした。
翌日から、香織は準備を始めた。
結婚前の貯金がまだ残っていたし、父親が亡くなった時にわけられた遺産もそれほど多くはないが弁護士費用と部屋を借りるくらいならあるので、それを使って夫とその相手の動向を調査してもらうことにした。そして、離婚に強い弁護士を頼む為に何軒か事務所を回った。男に同情的な事務所は論外。香織が今の状況を説明するのに疲れ果ててきた頃、親身になってくれそうな弁護士にあたった。財産分与と慰謝料をきっちり取り立ててくれると約束してくれた。親権は正直なところどちらでもよかった。娘も自由に生活していて香織に対して特に思いやりを見せるわけでもなく、夫と同様家政婦扱いしているようなふしも見受けられる。昔のように「可愛い我が子」と純粋に思えるほどは可愛くない。確かに我が子ではあるので、香織の方が良いというのであれば、引き取るのもやぶさかではないが、金銭問題を考えれば娘は夫に付くであろう事は容易に想像できた。
一通りの依頼を済ませると、香織は家の中を整理し始めた。持って出るものは限られる。嫁ぐ時に持ってきた着物はクリーニング店で預かってもらう。捨てるに捨てられなかったものは未練なく捨てた。夫や娘のものには一切手を付けず、ひたすら香織のものだけを整理した。といっても、たいした量はなく一日もかからなかったことに愕然としたのではあるが。
そうやって、ほとんど家にいない夫と娘には気付かれることなく、淡々と香織は物事を進めていった。興信所からは山ほどの証拠を手に入れた。油断しきっている夫は何ら隠れることなく職場の若い女性の部屋に通い、休日出勤だと偽っていた日はデートしていたのだから、興信所の人も呆れていた。「すごく楽な仕事で有り難かったのですけど、あそこまで堂々としているのは珍しいですね」と言うほどに。
ある程度準備を終え、弁護士とも詳細な打ち合わせを済ませた後、香織はウィークリーマンションを借りた。少々高いが、そう長い間借りるわけでもない。決着がつくまでの間だと割り切った。
そして、香織が家を出る日の朝、娘に話をした。これまでの思いと、これからの生活について、感情的にならないように抑えながら。予想していたとおり、娘は夫と暮らす、と言い切った。迷いもなく、言ってのけたのだ。「お母さんについていくメリットがない」
やはり、と思った。子育てに失敗した、とは思いたくはなかったが、メリットデメリットで判断し、そのまま言葉に出すような人間になってしまったのは、例えその対象が母親であるとはいえ、やはり失敗だったのかもしれないと目の前の態度ばかり大きくなった娘を見ながら思った。
「メリット、ね。それじゃ、これ、花音の保険証とか大切な書類をまとめているから無くさないようにね。他の書類は寝室に置いてあるから伝えておいて。食材はほとんど無いから自分で買いにいって。これは今月分の残りの食費だから。わからないことは、あの人に聞きなさい。.....体に気をつけて、元気でね」
「え?ちょっ...マジでっ?」
人の話を本気にしていなかったらしい。
キーホルダーから外した部屋の鍵をテーブルに置いて、小さなハンドバッグを手にして香織は部屋を出た。
玄関ドアが背後でぱたんと閉まる。子供が出来てから引っ越してきたこのマンションにも、もう足を踏み入れることはないだろう。
唯一の未練は娘だったが、その思いも霧散した。
薄情な母親だと世間は責めるだろうか。それでも親なのか、冷たい女だ、と言いそうな面々の顔を思い出してうんざりしつつ、香織は15年もの間馴染んだ廊下を去って行った。




