友情価値観
友情と宗教は対立する。
何もしてくれない神様と違って、友情はとても多くの物を僕に与えてくれる。家に勝手に上がり込まれてまだ見ていない映画を持って行かれたり、母親にテストがあったことのチクリを入れられたり。けどそれはギブアンドテイクってやつで、普通の人間なら多少はその事に感謝何かしら返してくれるもんだ。
……けどそれが、グーパンチってどうよ?
痛かった。本気で痛かった。
頬が焼けるように熱い。人に本気で殴られたのなんて初めてだ。
周りの机を巻き込んで僕は倒れた。頬を抑えて悶絶する。テンカウントどころじゃない、TKOだ。レフェリーが手を頭上で交差するのとタオルが投げ込まれるのはほぼ同時……って、何を言ってるんだ僕は。
そして、殴った当の相手は、
「…………なんで殴ったのよ」
そんなことを震えた声で僕に言った。
殴られたのは僕のほうだ。
そう言い返そうと思って止めた。冗談を言っていい空気でもなかったし、僕が亜紀の彼氏を殴ったのは本当だし、なにより涙ぐんで肩を震わせている亜紀をこれ以上追いつめたくなかった。
今日はとてもいい天気だ。
みんな目を丸くしていた。当事者である僕ら二人だけが分かっている。
亜紀は事情を掻い摘んで説明した。今朝、彼氏に会うと顔が痣だらけだった。なかなか理由をいわなかったけれどそれでも問いつめると、僕に殴られたことを白状したそうだ。
「なんで殴ったって聞いてるのよ!」
腹の底からの声。相手を威嚇する狼の声、あるいは、それに追いつめられた羊の強がり。
僕はしばらく考えた。なんて言えば亜紀に僕の本意ができる限り伝わるのかを必死に考えた。
そうだ。こう言えばいい。
「むかついたから」
その時亜紀がどんな顔をしたのか、僕に知る手段はない。教室から出て行く最後の瞬間まで、僕は絶対に亜紀のほうを見なかったからだ。
廊下に出て、階段を降りようとしたあたりで、膝からがくっと力が抜けた。手すりをつかんでなんとか転落を免れる。
どさどさと、鞄からノートや教科書やらが落ちた。そういえば登校したばっかりで机に勉強道具を入れている最中だったことを思い出した。ああ、かっこわるい。自分で言ってて笑えた。本当に笑えた。
登校してくる生徒が流れに逆らう僕に対して不審な目を向けてくる。まだじんじんと痛む頬を抑えながら、僕は早退した。
本当にいい天気だ。自分の物とは思えないほどの乾いた声が、そんなことを言った。
生まれてきたのは二ヶ月も遅かったくせに、亜紀はいつも僕の一歩先を歩いていた。
初めて”彼氏”なるものを作ったのも彼女のほうが先だったし、初デートも彼女。B級アクション映画が大好きな彼女は初めての恋愛映画を彼氏と一緒に見に行き、その帰りに僕の家に寄って映画の文句をぶちまけた。よほど退屈だったらしい。僕は彼女が好きそうな銃撃戦のシーンが一時間以上ある映画を五本ほどチョイスして、貸してやった。
「サンキュー! 持つべき物は友達よね!」
「いいけど。知らないぞ、デートした後に他の男と会ってるなんて彼氏に知られても」
「大丈夫よ。当分は疑わないはずだから。にしても、可愛いよね、ぎゅっと目を瞑って、あんなに汗まみれになって……」
彼女は何かに気付いたように、言葉を一旦止めた。
なんか気まずい空気が流れた。いつも通り、貸した映画の見所とか、明日の数学の範囲とか、古典教師の前頭部が日に日に後退している話とか、購買部のパンは何でレーズンがないんだろうとか、そんな話を口にしようとして、
「キス……したんだ」
知らないうちに、僕はそんな追い打ちの言葉を口にしていた。
「…………うん」
亜紀はあっさりと認めた。それは本当なのだろう。亜紀の嘘はわかりやすい。
亜紀とはランドセルを背負う前からの知り合いだ。彼女が最後におねしょをしたのがいつだったかも覚えている。家の外で泣いている彼女を見つけて干してある布団と見比べたら簡単に推測がついた。その事をからかったら本気で怒り出し、なぜかおねしょをしたのは僕だったという事にされておばさんに謝りに行かされた。
それでもおねしょが直るのも、彼女のほうが先だったが。
そんな彼女と僕は奇しくも同程度の学力で、二人とも近所の高校に通うことになり、彼女から彼氏ができたと聞かされたのは、入学して半年ほど経ってからだった。
「一ヶ月前から、付き合ってるんだ」
彼女は笑顔だった。
「そうなんだ、おめでとう」
僕も精一杯の笑顔で答えた。全力で彼女を祝福したかった。
なのに、なぜだろう。その時はそれしか言えなかった。どんな相手なのかとか、どういうふうに知り合ったのかとか、聞きたいことはあったけれど何よりもまずその場から逃げ出したかった。彼女も自分の彼氏とやらについて、特に自分から話すようなことはしなかった。
だから結局、彼女の彼氏について分かったのは翌日、彼女の友達経由だった。部活の先輩。レギュラーで成績優秀。そんなんだから僕とは違って異性から人気があり、なんと彼女が三人もいるそうだ。羨ましい。
「それ、本気で言ってるの……?」
彼女の友達が睨むように聞いてくる。拒否権はないようだ。冗談だよ。そんなに睨むな。
「あいつ、言っても全然聞かなくて。君の言うことならあいつも聞くかもしれないから。ね?」 ね。なにが、ね、だ。
……僕は彼女を信じている。彼女の選んだ男だ。間違いなんてあるわけがない。
彼女から初デート、そしてキスのことを聞かされた翌日の放課後、亜紀の彼氏なる人物が他校の女子生徒とキスをしている場面を目にするまで、僕は本気で、亜紀を信じていたんだ。
汗まみれで震えていた彼女の映像が、微かに頭をよぎった瞬間、僕は亜紀の彼氏を殴っていた。
そんなわけで今に至る。
部屋に戻るなり、制服のまま布団に潜り込んだ。頬がじんじん熱くて痛かった。僕は泣いた。
胸の奥に重石を括り付けられているようだった。心が重い。その事実だけが僕を苛む。あんな事を言うつもりじゃなかったのに。
そんなことをうじうじと一日中考えていた。インターフォンが鳴って初めて、空がオレンジ色にかすみがかっていることに気付いた。
インターフォンは鳴り続ける。姉はバイト。母もまだ帰らない。
まだ鳴り続ける。
まだ。
あまりにしつこいので、重い腰を上げて玄関の扉を開けると、立っていたのは亜紀だった。
「……あほ」
僕の顔を見るなり、彼女はそれだけを言った。
「ごめん……」
僕は申し訳なさでいっぱいで、今にもドアを閉めて鍵をかけてチェーンをしたかったけど、我慢して、それだけを絞り出した。
「わかりゃいい」
彼女はそう言って、勝手に家に上がり込んだ。しばらくすると玄関に戻ってきて、僕の頬の腫れたところに濡れたハンカチを当ててくれた。ひんやりとしてて気持ちよかった。
「あんたさー、恋愛物の映画持ってないの?」
「何本かあるけど。貸して欲しいの?」
彼女はしばらく考えた後、
「……やっぱいい」
そう言った。
「あのさ……あんた、私と……」
「なに? 小さくて聞こえなかったんだけど」
「…………なんでもない。ありがと」
それからはいつも通りの映画トークをして別れた。また明日。去り際にそう言ってくれた彼女の笑顔がとても嬉しかった。
その直後、彼女と入れ違いの感じで母が入ってきて、なぜだか分からないが僕を睨み付けた。
「あんた、あの子に何したの? 泣いてたよ」
亜紀が彼氏にふられたと知ったのは翌日のことだった。