08~20 Side Tsukasa 02話
金曜日の昼休み――。
翠のクラスへ行こうと廊下に出ると、翠がテラスにいるのが目についた。
風が吹いた瞬間に右頬が露になり、携帯で話していることがわかる。
笑っていた。
俺がここ最近見ていない屈託のない笑顔で……。
誰と話しているのかを気にしつつ、俺は行き先をテラスへ変更する。
二階へ下りテラスに出るドアを開けると、翠の向こうに秋兄の姿が見えた。
恐らく、秋兄も翠がテラスにいるのを見つけて出てきた口だろう。
俺に気づいた秋兄は口元に笑みを浮かべ、最後の一歩と共に持っていたジャケットを翠の肩にかけた。
翠はゆっくりと秋兄を振り返る。
秋兄は不自然にならない動作で俺の方へ顔を向けた。
わざと読唇させるために。
『電話なんて珍しいね? でも、今日は昨日より十度も低い。その格好じゃ風邪ぶり返しちゃうよ?』
それに翠がなんと答えたのかはわからない。
秋兄はにこりと笑い、白衣のポケットからハンカチを取り出した。
『ハンカチは確かに受け取りました。……でも、これはまた貸しね?』
その言葉で、翠が昨日ドアポストに挟んだものの正体がわかる。
秋兄は翠を包むようにジャケットの前を合わせると、
『身体、冷やさないように』
とその場を去った。
つまり、翠がジャケットを返したあと、なんらかの理由で秋兄からハンカチを借りることになった。もしくは、秋兄が翠に会う口実を作るためだけにハンカチを無理やり貸した。
けれども、翠はそれを返すためにドアポストを利用し、ドアポストのハンカチに気づいた秋兄は再度ジャケットを貸しにきた。
――決定だな。
間違いなく秋兄も避けられている。
それと、秋兄は攻めの態勢に入ったというところか……。
翠は秋兄の後ろ姿を見送ると、ジャケットに視線を移した。
そしてその頃には、俺も翠の声が聞こえるくらい近くまで来ていた。
「……これ、どうしよ」
ひとり何気なく呟いたであろう言葉を拾い、
「何か問題があるなら俺から返すけど?」
翠は昨日と同じようにびっくりした顔で振り返り、手に持っていた携帯を落とした。
「そんなに驚いてもらえるとは光栄だな」
俺は腰を屈めて携帯を広い、ディスプレイに表示されていたものに目をやる。
ただ、液晶が割れてないかの確認のつもりだったが、ディスプレイには時間やバイタルではなくメール画面が表示されていた。
「鎌田くん」という宛先が引っかかる。
返信を示す「Re:」という表示はない。
翠からメールを送ろうとしていた……?
さっきの電話相手も鎌田なのか?
「とりあえず、壊れてはいないようだけど……。悪いな、ディスプレイが見えた。今、鎌田にメール?」
「……うん」
翠は自分の手に戻ってきた携帯を力を入れてぎゅ、と握った。
「昨日連絡するって言ってなかったか?」
翠は何も答えない。
畳み掛けるように言葉を発しようとしたとき、翠の携帯が震えだした。
「ごめん、電話……」
翠はこれ幸いと言わんばかりに着信に応じる。
『リィ? ご飯食べられた?』
翠を「リィ」と呼ぶ人間はひとりしかいない。
風が強く吹く中でも不思議とその声はよく聞こえた。
「唯兄……そんな大きな声で話さなくても聞こえるよ」
電話の相手とは反対に、翠は声を潜めて話す。
『え? なーにーーー!? そこ、外? リィの声より風の音がすごいんだけど?』
翠が一瞬耳から携帯を遠ざけるほどには大きな声だった。
『胃の調子は? お弁当食べられた?』
胃……? 弁当って――。
体調が悪いのにこんな寒いところで電話してたのか?
何を考えているんだか……。
「ごめん。午後の授業始まるから教室に戻らなくちゃ」
翠は唯さんの問いには答えず、一方的に携帯を切った。
確かに午後の授業までそれほど時間があるわけではない。けれど、質問に答えるくらいの時間はあったはずだ。
……あぁ、俺に聞かれたくないってことか。
悪いけど、それを察して引くほど俺は優しくない。
「……胃の調子、悪いの?」
単刀直入に訊く。と、
「あ……夕飯っ、昨日の夜、夕飯食べすぎて胃もたれしてるだけ」
「……ふーん」
胃もたれ、ね。実際はどうだか……。
「らしくないことしてるからじゃないの?」
「っ……」
反応を得ることはできた。が、それに関して翠が何かを口にすることはなかった。
翠は怯えた目で俺の前から逃げる口実を探す。
「うちのクラス、五限移動教室だから……」
「……だから? ソレ、そのまま持っていくと自分で返しに行くことになるけど?」
我ながら、嫌な性格をしていると思う。
でも、そのジャケットを羽織っているのを見るのも腹立たしければ、それを返しに秋兄に会いに行かれることにも抵抗がある。
俺の心に巣食った独占欲は見事なまでにその威力を発揮していた。
翠のことだから、会わずに返す方法を考えるだろう。でも、一時的に秋兄のことを考えられるのも癪だ。
さらには、一緒になって俺まで避けるのは即刻遠慮願いたい。
沈黙多めのふたりの間に一際うるさい声が届いた。
「翠葉ー! もうすぐ予鈴鳴るよっ! 何、この風っ。さっむ」
俺は声の主を確認せずに話し続ける。
「俺は別にどっちでもいいけど?」
「大丈夫。自分で返しに行くから」
翠は今にも消え入りそうな声で答えた。
「……翠」
名前を呼んでもしばらくは顔を上げなかったが、俺が先を続けないからか、翠はようやく顔を上げた。
目が合ってから言葉を続ける。
「翠は今、自分がどれくらい俺に信用されてると思ってる?」
「……え?」
「上限は一〇〇だと言った。それから、ひとつの嘘で信用数値は五〇ずつ減るとも。……つまり――」
最後の一言を申し渡そうとしたとき、俺と翠の間に簾条が割り込んだ。
「話の途中悪いけど、タイムリミットよ」
簾条はふたり分の教材を手にしていた。
恐らくは翠の分を持ってきたのだろう。
「このあと、うちのクラス化学室なの。翠葉を走らせたくないならあとにしてくれない?」
「……構わない」
自分もタイムリミットだった。
このタイミングで戻らなければ自分も次の授業に遅れる。
だから、この場はおとなしく引き下がることにした。
けど、翠――これで終わったと思うな。
この日、俺は何も知らずに姉さんのマンションに帰ってきていた。
まさか、翠がひとりで母さんに会いに行っているとは思いもせずに。
今日は病院の日だから勉強を始めるとしたら九時過ぎがいいところ。
そんな算段をつけゲストルームへ向かった。
ゲストルームのインターホンを押すと唯さんが出てきた。
玄関が開くなり、
「司っち、回れ右」
「は?」
「うん、とりあえず回れ右」
譲る気はないということか……。
俺は唯さんに押されて表の通路まで戻る羽目になった。
「うっ、夜は寒いなぁ……」
目の前にいる男は薄手のTシャツしか着ていない。
無駄な贅肉どころか必要な肉もほとんどついてない人間には堪えるだろう。
俺はシャツの上にパーカを着ているものの、やはりそれほど重装備ではない。
たかが十階から九階へ下りるだけ。
そのつもりだったからだ。
「あなたに用はないんですが……」
「邪魔」であることを伝えると、白々しい笑顔を向けられた。
「リィに用っていうか、勉強教えに来たんでしょ?」
俺は無言で頷いた。
わかっているならそこをどけ。
そんな視線を向けると、再度にこりと笑みを返される。
「それ、不要だから」
何……?
「俺が教えるから不要。話は以上」
言葉を返さなかったらすぐにでもゲストルームへ引き返されそうな軽快さだった。
「……あなたに教えられるんですか?」
「失礼な子だねぇ……。唯さん、見かけどおり頭脳明晰よ?」
この人の頭脳は秋兄に匹敵するという話は聞いたことがある。
だが、自分のポジションを奪われるのはいい気がしない。
そんなことを考えていると、次なる言葉が発せられた。
「それに、司っちだって気づいてるんじゃないの?」
俺が視線のみで訊き返すと、容赦のない言葉が返ってきた。




