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光のもとでⅠ 第十四章 三叉路  作者: 葉野りるは
本編
30/110

30話

 教室を出ようとしたら校内放送で保健室に呼び出された。

 保健室……湊先生?

「あ――」

 月曜日のお昼休みは湊先生の診察を受ける日であることをすっかり忘れていた。

 慌てて保健室へ向かうと、湊先生にじろりと睨まれる。

「すみません……忘れていました」

「まぁいいわ。ほら、奥へ行って。このあとは病院なんでしょ?」

「はい」

 一番奥のベッドへ行きボレロを脱ぐと、湊先生がカーテンを開けて入ってきた。

「忘れる前に渡しておく」

 先生に差し出されたものはずいぶんと立派な封筒だった。

「結婚式の招待状よ」

「あ……」

「翠葉だけは手渡しでって思っていたの」

 先生は私の隣に座り私の手を取る。

「静に聞いたわ。……私たちと関わる道を選んでくれてありがとう」

 手をぎゅ、と握られた。

「……ありがとうなんて言われることじゃないです。私が手放したくないだけだから」

「それでも、私たちは嬉しいのよ」

 湊先生は今まで私に見せたことのないような複雑な表情をしていた。

 きっと、「人と付き合う」ということにそれだけ神経を使わなくてはいけない環境にいるのだろう。

 私の乏しい想像力では補えないほどのものを抱えていて、それはこれからも変わらないのだ。

「翠葉のことは警備の人間が責任を持って守るわ。だから安心して」

「先生……私はその警護の人たちに会うことはできますか」

「え……?」

 すごく意外そうな顔をされた。

「近接警護でない限り、基本顔合わせはしないはずだけど……。どうして?」

「……その方たちはお仕事だから当たり前のことをしているだけなのかもしれないけれど、どういういきさつであれ、私がその人たちに守られていることには変わらないですよね」

「……関係性というならばそうだけど……?」

「この先もずっとなのだとしたら、挨拶くらいはしたいなって……。あ、無理ならいいんです。でも、よろしくお願いします、ってそれだけは伝えてほしくて……」

「あとで秋斗に訊いてみるわ。もしかしたら、秋斗の判断では決められないことかもしれないし……」

「お手数おかけします」

「こんなのどうってことないわよ。さ、診察しましょう」

 一通りの診察を終え、

「リンパ腺が少し腫れてるわね。熱も微熱。慢性疲労症候群の症状だと思うから、夜はなるべく早く休むようにしなさい。胃の調子は?」

「食欲がないくらいです」

「戻したりお腹壊したりはしてない?」

「はい、大丈夫です」

「なら、少し様子を見よう。できる限りは経口摂取をすること。食べられなくなる前にここに来る。いい?」

「はい」

 先生は電子カルテに入力しながら話していた。

 言わなくちゃ……。もう先延ばしにはせず、会った人から順に話していかなくちゃ……。

「先生……」

「何?」

「……私、記憶が――」

 カルテから視線を移した先生と目が合う。

「記憶が戻りました」

「……そう」

 それと合わせて言わなくちゃいけないことがある。

「私……秋斗さんのせいで記憶をなくしたわけじゃありません。私は、自分のしたことを受け止められなくて記憶を手放したんだと思います」

「……そう。今は?」

「今は……自分が何をしてきたのか、目を逸らさずに見ることができます」

 私はす、と息を吸い込む。

「先生は……先生は、秋斗さんのことを疑ったりしますか?」

 次の瞬間には先生の手が近づいてきて、額に軽くデコピンをされた。

「秋斗は秋斗よ。どんな間違いをしたって私の従弟。特殊な環境にいる人間だから、そこら辺にいる人間と考え方も感じ方も違う。少し変わったところがあっても秋斗を疑うことはないわ。信頼してなければ翠葉の警護を秋斗に確認したりしない。……あんたがそんな顔をする必要はない」

「……静さんも?」

「静がカメラをつけるって行動に出たのは最悪の事態を防ぐためよ。翠葉を守るため。ただそれだけ」

「……本当に?」

 じわり、と目に涙が浮かぶ。

「あの時点で秋斗に不信感を持った人間は司と栞。それから、翠葉の家族くらいだと思うわ。清良さんは――あの人は最初から秋斗を信じる信じないという目では見ていない。だから、翠葉がそのことで自分を責める必要もない」

 涙が零れそうになって、慌てて手の甲で拭う。

「さ、病院へ行きなさい」

「はい……」

 先生がカーテンから出ていくと、私は余分な目の水分を手ぬぐいで吸い取った。

 良かった……秋斗さんのことを誤解されていなくて良かった。

 私はボレロを着ると、渡された封筒を手に持ちカーテンを出た。

「先生、ハサミを貸していただけますか?」

「いいわよ。そこにあるわ」

 ハサミは白いテーブルのステーショナリーグッズスタンドに挿してあった。

 私はハサミで封筒を開け、同封されていた出欠カードを取り出す。

「御」を二重線で消し「出席」に丸を付け、自分の名前と住所を書き込んだそれを湊先生に差し出すと、

「即決ね?」

「だって、欠席する理由なんてないもの」

「わかっていると思うけど……」

「はい。栞さんには内緒、ですよね?」

「わかってればいいわ」


 昇降口を出て桜香苑の方へと向かう途中、私の歩く先にツカサがいた。

 これから部活なのだろう。

 道着を着たツカサが真っ直ぐこちらを見ていた。

 一瞬足を止めそうになったけど、それは未然に防ぐことに成功する。

 逃げちゃだめ――。

 私はツカサに向かって歩き始め、ツカサのすぐ近くまでくるとなんでもないように声をかけた。

「昨日はごめんね。ツカサ、部活は?」

「部活はこれから。因みに、今は病院へ行くのにここを通るであろう翠を待ち伏せしていたところ」

 ツカサはにこりと笑った。

 その表情にはゾクリとするのに、私の頬は熱を持つ。

 これだけは意思でどうこうできる気がしない。

「昨日キャンセルされたから、次の日を決めようと思って」

 何も訊かず、笑顔でそれだけを言われるから余計に怖い。

「つ、ぎ……?」

「そう、次。一度キャンセルしたらその約束がなかったことになるとでも? そんなの延期に決まってるだろ」

「そ、そっか……。ツカサ、あのね、私、話さなくちゃいけないことがある」

「今でいい。今、聞く」

 ツカサの顔から笑みが消えた。

「あの、ね……私、記憶が戻ったの」

 声を発しているというのに、窒息するような錯覚に陥る。

 でも、そんな「感じ」はツカサの言葉によって吹き飛ばされた。

「おめでとう。良かったな、記憶が戻って。……でも、だから? だから何?」

「っ……!?」

「記憶がなくなったときにも言わなかったか? 俺は翠の記憶があろうとなかろうと何も変らない」

 射抜かれてしまいそうなくらい、意思のある強い目だった。

 私は何度この目を見てきただろう……。そして、何度この目に救われてきただろう。

「そうだね……。記憶が戻っても何も変わらない。何も、変わらないよね。……ありがとう」

「……記憶、戻ってどう?」

「……どうって……良かったよ。すごく大切な記憶だから、思い出せて良かった。あ、もう病院へ行かなくちゃ。紅葉を見に行く日は後日決めるのでもいい?」

「それなら、今夜電話する」

 私たちはその場で別れた。

 ツカサは弓道場へ向かい、私は桜香苑へ向かう。

 まるで、これから訪れる分岐点のように。

 桜の葉が色づく桜香苑へ入っても、私は周りの景色を楽しむ余裕もなく、ただひたすらに歩を進める。

 記憶が戻ったことを伝えなくてはいけない人はたくさんいるけれど、栞さんにはなるべく早く話そう。

 秋斗さんに不信感を持った人たちが栞さんと私の家族ならば、誤解を早く解かなくてはいけない。

 きっと、うちの家族は大丈夫。

 今まで見てきた限りでは、四人が秋斗さんに不信感を持っているようには見えなかった。

 もし強い不信感を持っていたのなら、パレスへの旅行だって許してはくれなかったと思うから。

 病院から帰ればゲストルームに栞さんがいるはず。

 帰ったら真っ先に話そう――。

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