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光のもとでⅠ 第十四章 三叉路  作者: 葉野りるは
本編
16/110

16話

 会議室にはウォーターサーバーと給茶機のほかに、業務用のコーヒーメーカーが設置されていた。

 その一角へ向かった園田さんを追うと、私に気づいた園田さんがティーパックの入った籠を見せてくれた。

 籠にお行儀よく並べられていたのはいくつかのハーブティー。

 いつもならカモミールのパックに手を伸ばしただろう。けれど、私はティーパックではなく園田さんの後ろにある給茶機が気になっていた。

「あの、麦茶……」

「え?」

「給茶機に入っている麦茶をいただいてもいいですか?」

「給茶機、ですか?」

「はい。あの……給茶機を使ったことがなくて、ボタンを押してみたいなって……」

 小さな声で言うと、園田さんはクスリと笑った。

「それでしたら、どうぞ。このカップを丸いところに置いてボタンを押します」

 言われたとおりに麦茶のボタンを押すと、カップ一杯分のお茶が出てきた。

「わぁっ! ボタンひとつで一杯分のお茶が出てくるんですねっ?」

「はい。こちらのウォーターサーバーはコックを捻るタイプです」

 園田さんが操作するのを見てコーヒーの入れ方も覚えた。

 それらを持って唯兄たちのところへ戻ると、三人は私を見ながらにこにこと笑っていた。

「どうか、しましたか?」

「いやぁ……姫さん見てるの飽きないなぁ、と思いまして」

 シゲさんが私の何を見て飽きないと言ったのかがわからない。

「シゲさん、仕事のほうはもちろんですけど、表向きの社会見学っていうのも強ち外れてないのでその辺もよろしくです」

 唯兄の言葉で理解する。

 たぶん、園田さんとのやり取りを見て笑われたのだ。

 恥ずかしくて下を向くと、久先輩に声をかけられた。

「翠葉ちゃん、知らないことがある世界はすっごく楽しいと思うよ。これって絶対に若者の特権だよね?」

 キャップ帽を取って言われたこともあり、つい「久先輩」と口にしてしまう。

 すると、いつもの調子で「はい! ペナルティー」と言いながらキャップ帽をかぶり直した。


 園田さんが席に着くとシゲさんが立ち上がり、ホワイトボードに名前を書きだした。

 そのボードをペンで指しながら説明してくれる。

「クゥの素性を知っているのはオーナー、園田女史、澤村氏。ほかはここのスタッフと広報部の澤野部長のみ。姫さんのことを知っているのは今のにシェフの須藤さんが加わる。ここまではOK?」

「はい」

「それから、うちのスタッフは口が裂けても『リメラルド』の名前は口にしない。本当なら若の『リィ』って呼び方も改めさせたいところだが、そこは若が譲らなかったんでなぁ……」

 シゲさんは言いながら唯兄をじろりと睨みつける。

「んー……それにはちょっとした理由がありまして、俺は『姫』って呼んじゃいけない約束をしてるんですよね」

 その言葉に思い出す。

 確かに、「リィ」と呼ばれることになったいきさつにはそんな約束があった。

「けどよ、若が姫さんを連れてきたときに思い切り『姫』って言ってたぜ?」

「あー、それはスタッフに『姫』って認識させたかったので刷り込みを試みてみました」

「なんだそりゃ?」

 みんなが不思議そうな視線を唯兄に向ける。と、

「俺もここの住人と同じで、どっちかっていうと呼び名は短いほうが好きなんです。でも、リィが『スイ』って呼ばれるようになると、超絶嫌な顔をしそうな人間が約一名おりまして……」

 そこまで話すと、私の右側に座った久先輩が笑いだす。

「あはははっ! そっか、若槻さんナイス! 意味がわかった!」

「あ、わかってくれた?」

 唯兄はテーブルに身を乗り出し、私を飛び越して久先輩に話しかける。

「だってさぁ、ここの人間のことだから、名前を略して呼ぶなら間違いなく『スイ』になったと思うでしょ?」

「思う思う」

 シゲさんはふたりのやり取りを見ながら、

「それじゃだめだったのか?」

「藤宮一族のひとりが『スイ』って呼んでるんですけど、たぶん、ほかの人間がそう呼ぶのは良しとしないだろうな、って話です」

 久先輩の説明にシゲさんは感心したように私を見た。

「姫さんは本当に藤宮の人間と縁があるんだなぁ? ま、一族の不興を買うとわかっててその呼び名を使うこともないな」

 シゲさんは納得したようだったけれど、私はここまで来てツカサの話題になるとは思ってもみず、心拍が忙しいことになっていた。

 動揺しているのが自分でもわかるって相当だ……。

 落ち着くにはどうしたらいいだろう。

 いつもなら数を数えるけれど、今はちょっと役立ちそうにない。

 周囲に視線をめぐらせるとパソコンのマウスが目に入った。

「あ……」

「ん? リィ、どうした?」

「マウスでドラッグしてゴミ箱にポイ?」

「ちょっと待った……。リィの頭の中、今どうなってんの?」

「それは秘密です」

 ツカサをゴミ箱アイコンの上へドロップしたとは口が裂けても言えない。

 私の受け答えについてこられるのは唯兄だけで、シゲさんと久先輩はポカンと口を開けている。

 園田さんは口を開きはしなかったけど、やっぱり不思議そうな顔をしていた。


 寄り道っぽい話をしつつ話が本題に戻ってくると、衝撃的なことを聞かされた。

 なんと、久先輩はホテルに出入りする際にはいつも箱詰めで搬入されて、箱詰めで搬出されるらしい。

 時にはスーツケースで移動するのだとか……。

「人に姿を見られないためにはそれが一番安全なんだよねー? おかげ様で三年近く、素性ばれずにやってこれました」

 軽快な口調で言うけれど、箱詰めって箱詰めって箱詰めって――。

「ちゃんと空気口とかついてるし、夏場の暑い時期なんかは保冷剤やら飲み物完備で詰められて搬入搬出直後に即行出してもらってるから心配しなくて大丈夫だよ?」

「クゥはちっさいからなぁ? コンパクトにおさまって助かるよ」

 これはいったいどんな会話だろう……。どうも「仕事」というよりも世間話な気がしてならない。

 そう思っていると、急に話の内容が転じる。

「姫さんにはスタッフの連絡先を教えているが、うちのスタッフは姫さんの連絡先は知らせていない。後々メアド交換や携番交換するのはかまわないが、うちのスタッフから姫さんに連絡がいくことはない。それだけは覚えていてほしい。いつどんなときでもしっかりと思い出すようにしてほしい」

「どういうことですか……?」

 ずっとにこにこと笑っていたシゲさんが急に真面目な顔をして言うから、普通に「わかりました」と聞き流してはいけない気がした。

「仕事の連絡は今までどおりオーナーか若から伝えられる。連絡経路はそのふたつしかない。もし、スタッフの名前や番号で連絡が入ってもすべて無視してくれ」

「あの、理由を教えてください」

「姫さんの身の安全のためだ」

「……意味がわかりません」

「そうさなぁ……簡単に言うと、スタッフの名前で連絡が入りました。姫さんはそれに応じて出かけました。ところが待ち受けていたのはスタッフではなく誘拐犯でした。――そんなことがあってもおかしくはない。それを防ぐために連絡経路を確実な線、ふたつに絞ってある」

 誘拐って、何……?

 疑問と共に頭をよぎったのは、海斗くんの顔だった。

 紅葉祭が始まる前、とても言いづらそうに話してくれたこと。

「藤宮」と関わることの危険性。

「リィ……? リィはさ、藤宮の人間とずいぶん仲がいいよね? しかも、現会長直系の人間ばかり」

 唯兄を見ると、唯兄も真面目な顔をしていた。

「リィは次代を担うであろう藤宮の人間たちと距離が近すぎるんだ。そこを付け狙われる可能性がある。だから警戒レベルを上げる必要があった。勝手に警護をつける程度の警戒レベルではなく、最上級の警戒レベル。それはオーナーの庇護下に入ることを意味する。リィには藤宮財閥ナンバーツーがついてる。それを匂わせるだけで手を出せなくなる輩もいる。それと同時にリスクも上がる。オーナーのネックになるのなら、それを手に入れ交渉時の切り札にしようと思う人間も出てくる」

 海斗くんはこれを言いたかったんだ……。

 あのときは時間がなかったから詳しく話すことができなかったのだろう。 

 漠然としか理解していなかったものが、少しずつくっきりと輪郭を現し始める。

「ハイリスクハイリターンとはよく言ったもので、オーナーの庇護下に入れば藤宮警備の中でも最上位の警護がつく。まず、そんじょそこらの誘拐犯ごときは手を出せない。近接警護ならひとりふたりで足りるけど、警護対象者に極力ストレスを与えないようにある程度の距離を置いて警護する場合は複数人で編成されたチームが配属される」

「ゆ、唯兄、ちょっと待って……私、話についていけない」

「うん、でも聞いて。オーナーがずっと碧さんのことを好きだったのは知っているよね?」

 私と視線が合うと、唯兄は続きを話し始めた。

「碧さんにも護衛はついている」

「っ!? そんな話聞いたことないっ」

「うん。碧さんは話してないし、実際に碧さんやその周りにいる人に気づかれないように警護されてるからね。さっき話した後者のほう。ひとつのチームが碧さんの警護についている」

「嘘……」

「嘘じゃない。実際、碧さんはあんちゃんがお腹にいるときに階段から突き落とされるって被害に遭ってる」

 さわり程度だけど、お母さんの過去の話を聞くとぞっとした。

 実際に被害に遭ったものは妊娠しているときに階段から突き落とされたというものだけだったけど、未遂に終わったものを含めるとかなりの件数だった。

 海斗くんから毒物や薬物、誘拐といったことは聞いていた。そして、私に起こり得るのは直接命を狙われることよりも、交渉時の材料として使われる誘拐であることも。

 海斗くんを疑っていたわけじゃない。でも、心のどこかで「まさか」と思っていたことは否定できそうにもなかった。

 そのくらい、今私は衝撃を受けている。

「怖い?」

 私は言葉にはできずコクリと頷いた。

「じゃぁ、やめる?」

「え……?」

「リメラルドもやめて、オーナーの庇護下に入るのもやめる?」

 今、私は唯兄に何を訊かれているのだろう。

 必死で頭を働かせようとしていると、この場にはいなかったはずの人の声が響いた。

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