平和
もしも今、隣に座っている女の子をナイフで斬りつけたなら、みんなはどんな顔をするだろう。
春。穏やかな光が差し込む教室。クラスメイト達は各々、友人との会話を楽しんだり、読書に勤しんだり、思い思いの時間を過ごしている。
そんな中、僕は一人、誰と話すわけでもなくボーッと席に座っている、フリをしていた。
隣に座っている女の子。真っ白な肌の女の子。ブレザーの下に赤いパーカーを着込んだ女の子。僕は彼女の顔を、何度も何度も、こっそり覗き見していた。そうして時々、制服のポケットに手を突っ込んで、それの感触を確かめていた。
自然と火照った体を強引に冷やすような、暴力的な冷気が掌から伝わってくる。朝からずっとポケットに入れているのに、その凶暴な冷たさは芯から抜けることはない。
いつでも出来るようにと鞘から外しておいた小さなナイフ。刃渡り10センチ程度の金属で、もうすぐ、このクラスの平和は壊れてしまうだろう。
いじめのないクラス。引きこもりのいないクラス。みんなが仲良しで、仲間外れなんてないクラス。そんなクラスなど存在しないと、僕はこの学校に入るまでは思っていた。
そんな僕の考えを覆したのが、このクラスだ。友だちがいない僕にも話しかけてくれるクラスメイトや、どんな相談にも真摯に対応してくれる先生。あらゆる人間関係の軋轢を取っ払ったような理想的なクラス。
そう、ここはまさに、「平和のクラス」だ。
そんなクラスでの一ヶ月。以前、手酷いイジメにあっていた僕からしてみれば考えられない程に平穏な毎日が、だらだらと続いていた。殴られない蹴られない。悪口も罵倒もない、穏やかで静かな毎日。そしてそんな僕の心で、ある欲望が静かに、けれど急速に育っていった。
笑顔の絶えない教室。あいつもそいつもどいつもこいつもみんな、みーんな笑っている。ニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコ……。
ぶっ壊してやりたい。ヘラヘラ笑っている優しいあいつの表情を絶望に歪ませてやりたい。僕に話しかけてくれる親切なあいつを恐怖のドン底に叩き落としてやりたい。
なんで。どうして。みんな優しくしてくれるのに、なんでそんなことを考えるんだろう。僕は何度も自分自身に問いかけた。
でも答えは出なかった。きっと、純粋に、僕は壊したいのだ。本能と言ってもいいかもしれない。食べるように、眠るように、誰かを好きになるように、僕はこの平和をぶっ壊してしまいたいのだ。
もう一度、僕はポケットに手を突っ込んだ。鋭利な刃によって、すでにポケットの中は何箇所か切れてしまっている。昨日一生懸命に研いだからだろう。きっと、あの子の柔らかい肌も簡単に……。
急に、本当に何の前触れもなく、身体中が震え始めた。寒いわけではない。怖いわけでもない。そうだ。これはきっと武者震いだ。僕はワクワクしているんた。もうすぐ壊れる甘ったるい平和に胸が高まっているんだ。
もうすぐ休み時間が終わる。今だ。今やるんだ。ナイフを握れ。そうだ。それを取り出すんだ。いいぞ、その調子だ。そして席を立て。おっと、あの子が気づいたぞ。こっちを見て、そしてナイフに目を向ける。あの子の表情が消える。しかしそれは一瞬。すぐに恐怖の形相に変わる。恐れ慄くように青ざめた顔。逃げようと腰を上げたぞ。でももう遅い。
もう、逃げられないよ。
赤い血飛沫が僕を襲う。咄嗟に顔をかばったため、僕の腕は真っ赤に染め上げられた。あの子は顔を両手で覆い、わけのわからない言葉を叫んでいる。でもその小さな手じゃ、真横に引かれた、真っ直ぐな赤い傷を全く隠せていない。
他のクラスメイトも異変に気付き、そして状況を理解したヤツから順番に悲鳴を上げていく。その悲鳴は周囲に伝染していき、やがてクラス中がパニックになった。
やった。やったぞ。壊した。壊した。さっきまでの生温い世界はバラバラに崩れてしまった。これでいい。これが僕の見たかった世界。気持ちいい、心の底から、すっきり……。
あれ?
なにこれ。え、なに。なんなの。なんで、みんな泣いているの。叫んでいるの。どうして、あれ、へんだな、なんでこんな。僕は、ただあの子の顔を引き裂いただけなのに……。
引き裂いた。あの子の顔。血。真っ赤な腕。壊れた壊れた。全部、あれ、僕が。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
どうして、僕は、ああ、ああ。どうしよう。赤い血、止まらない。嫌だ、嫌だよ。変だよ。おかしいよ。こんな、こんなのないよ。あ、痛い。
痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
バラバラになる。僕の体がバラバラになる。関節が外れて指が千切れる。赤い血が吹き出して、腕が取れたぞ。足も取れた。もうダメだ。立てない。ゆっくり、ゆっくりと、僕は崩れ落ちた。
僕は一体、何を壊したんだ。