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第3章 第5話

 何か大きな引力があるかの如く、普段は決して感じ取ることのないものが動き出すことがある。手のひらにしっかりと握られているのにそれに気付かないで身の回りをきょろきょろと探している物をほんの些細なきっかけで発見する事がある。それが今夜の演奏だった。最初、演奏はいつものように気だるく始められたはずだった。そのままであれば、由紀子の歌はその予測の範囲内で調和するに留まっただろうし、ヒロトのギターも外れると判って回す商店街の福引きのように何の驚きも産まなかったに違いない。演奏が始まってから時折、由紀子は橘と目が合った。橘の目はじっと自分を見ていた。最初は少し邪魔だなと思っていた由紀子だったが、そのうち知らぬ間に橘の姿で気が散らないように歌に集中し始めた。橘は実はこっちを見ていないのではないか、すぐにそう思った。瞳がこっちを向いていても、橘の視点は私の歌声そのものを追っているのではないか。決して厳しくない瞳は丸く由紀子自身を暖かく包みだした。ライブハウスで目にするオーディエンスのそれとはまったく違う。リズムに乗るわけでも決まったフレーズで拳を振り上げる訳でもない。ただ私の姿を追っているのだった。この瞳をいつかどこかで見たことがある。不意にそんな気がした。やがて不思議と声がしっかりと出た。いつもステージの上の方がノッて歌える由紀子はスタジオで今夜のように誰かが見ていることで歌に集中できたのである。そうしてくれたのは橘だった。

 研ぎ澄まされたナイフのようにエッヂのたった由紀子の歌声でまずスタジオ内の空気が変わった。由希子の歌が空間ごと飲み込んだように、または時間まで止めてしまったように。それは後ろのヒロト達の楽器の音にもしっかりと影響する。焚き付けられた炎の様にヒロトの、ケンタローの、そしてマサキヨのまだ未熟かもしれない演奏技術の表現力の限界をいとも容易く焼き切ってしまった。そして限界のない世界へお互いを引っ張り合う様に歌と音は響き合った。ノートに記載された譜面では表す事の出来ない若い煩悩や情熱が恥ずかしがる事無く音楽という衣装を纏ってためらわず溢れ続けた。このままずっと歌い続けたい。由希子の中からそう思う自分自身が飛び出していきそうになる。他のメンバーの心も体から離れて、お互いの体を通さずに暖かく触れ合っているのが判る。気持ちいい程にシンクロしていく。これは本当の快感だった。

 スタジオを借りていられる時間が過ぎてしまうまで演奏は続いた。

21時を回っていた。冬だというのに体の芯まで熱で満たされてカッと熱くなっていた。

「おーっし!良い出来だぁ」ヒロトが大きく体ごと頷いた。ギターを肩にかけたまま腕を大きく広げて演奏の全てを肯定してみせた。ライブでもよくやるパフォーマンスだった。

由紀子は久しぶりに酔えるほどのクオリティで演奏できて嬉しかった。ケンタローもマサキヨもニカっと笑っていた。振り返ると橘がぼぉっと座っていて由紀子は可笑しくなった。その眼は昼間見た印象と変わらないどこか遠くを見ているような、不思議な目線である。

 「良かったですよ。こういうのを見たのは初めてなんですけど。とっても感動しました」

取ってつけたような感想を述べるピザ屋の店員にヒロトも他のメンバーも笑っていた。

「なんだかピザ屋の兄ちゃん、判ったのか判らなかったのか・・・」音楽以外の事では大雑把なヒロトはまぁいいよと橘の肩をポンとたたいて、スタジオを出た。

「一人でも観客がいると違うよなぁ」ケンタローも橘に笑顔を向けた。へへとヒロトに気付かれない様に笑ったのはマサキヨだった。「また来いよな」マサキヨはそう言って小走りに表の道路に向かう階段を上って行った。何かしたわけではないのに、皆まるで橘の影響で演奏がまとまったのだというような錯覚を起こしかけていた。由紀子もまたそんな気がしなくもなかった。いつのまにか橘はライブハウスの常連客のようにメンバーに顔を認識され認められている。今日はじめて来て特に何もしていないにも関わらず。

「ほんと、ただ見てただけ・・・」橘はそう思う由紀子のちょうど前を歩いていた。階段を上る姿を見ていると、やっぱり2ミリメートル程だけ宙を浮いているかのように見えた。

 スタジオは駅から伸びる一本道に面したビルにあった。さらに道路は川沿いにあって吹き抜ける風が街路樹を揺らしていた。外はすっかり夜になっていた。由紀子だけでなく他のメンバーもデビューへの確かな手応えをつかんだ実感があった。由紀子もそんな気がしていた。橘がくるまでのぎすぎすした感じがかなり薄くなっていた。結局のところ演奏の出来次第で心に余裕が生まれたり、無くなくなったりして、ずっと振り子が振れ続けて来たのだと思う。でも安心はできない。まだ振り子が振り切れる恐れが無くなったわけではない。なんとなく黙ったまま歩いている皆の姿を見ながら由紀子はそう思った。鞄の中にはソロ用の曲が確かに入っていた。

「今日は、特に冷えるな」くわえ煙草のヒロトがまるで独り言のように言った。「そうね」由紀子が返す。

「俺バイトあるから行くわ」「俺も」マサキヨとケンタローが駅に向かって歩き出す。

次の練習の予定日についても話さないまま解散していった。北風が一段と冷たく吹き付ける冬の夜だった。

「雪でも降りそうですね」橘がまるで知っているかのような口ぶりで呟いた。

「降るかなぁ?この街で雪が降ったら、私の子供の頃以来だね」冬でも暖流からの海風が届くため、この街で雪が降ることは滅多になかった。

「まぁ、寒いけどな」ヒロトが革ジャンの襟を真ん中に寄せた。

「今年はクリスマスに向けて寒くなるらしいです」橘は配達用の原付バイクに掛けたヘルメットを被りながら言った。「なぁ由紀子、俺んちくるか?」ヒロトは煙草をくわえた。ポケットの中にライターを探して、手がもぞもぞと動いていた。

「今日はやめとく」由希子がそう言ったとき、えっと驚くように、そこでヒロトが由紀子を見やった。すぐに幼子が駄々をこねるような表情をした。「どうして?」

「だって、まだ曲が出来てないんだもん。なんだか全然浮かばなくて・・・歌詞」

「そっか、そっか、由紀子ってそう奴だよな」「ちょっとぉ」由紀子は、むくれるヒロトを困ったように見ていた。「いいよ、タクシーで帰るわ」ヒロトがそう言って車道へポンと跳ねたボールのように飛び出したとき。その時、ちょうど橘は配達用バイクのエンジンを掛けたところだった。すぐにふて腐れるヒロトをやれやれという感じで見る由紀子の後ろで、橘が歩道に停めたバイクを車道に向かって押し出そうとした。その時、それに眼を取られたヒロトは飛び出した車道にちょうどタクシーが突っ込んでくるのに気が付かなかった。もちろん由紀子も同じだった。まれにタクシーが客を降ろそうとして急に歩道に寄って急停車することがある。この時、急にハンドルを切って歩道に寄せようとしたタクシーは飛び出したヒロトのほんの2,3メートル前にいたのだ。絶体絶命だった。















 






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