第3章 第3話
このアップテンポの曲と、由紀子がまだ歌詞を作れずにいるヒロト好みのもう一曲、タイプの違う二曲をレコード会社の人に聞かせるつもりだった。
「ぜんっぜん、駄目じゃねーか」すっかりアツくなったヒロトが怒鳴り散らした。気の弱いケンタローが小さくなって萎んだ風船みたいな顔をしていた。ヒロトは機嫌が悪くなると時々手を出すのだ。ケンタローは怖くて何も言わないが、そういう事が既にこのバンドの息の根を止めようとしていた。
「何回間違えたら気が済むんだよ」ヒロトはケンタローの背中を結構強くはたいた。ケンタローは頭を低くしてまるで驚いた亀が頭を体に収めてしまうかのように縮こまっていた。マサキヨがハイハットを一発ガシャンッと叩き鳴らした。おいおい、と言わんばかりに嫌な顔をしてヒロトを見た。マサキヨはヒロトより年上で体も大きかった。
「なんか言いたいことあるのかよ。こんな演奏でプロになるつもりかよ」とヒロトが言う。
こんな子供のような理屈の言い方がマサキヨの気に障っていることに由紀子は気が付いている。このままではマサキヨとヒロトが喧嘩になってしまう。でも由紀子は動けなかった。ほんとはヒロトの怒声に足がすくんでいるのである。そして窮屈なスタジオの隅のドラムセットにどかりと座るマサキヨと、対角線上のちょうど目を逸らしようのない場所にヒロトは立っている。すでに楽器の音は何一つ鳴っておらず耳を澄ましても自分たちの鼓動音さえ壁面に吸収されているようであった。ヒロトもマサキヨもどちらかの体の一部がピクリとでも動いてしまえば、喧嘩が始まっていしまう事を判っていた。ただ相手が動くのを待つというだけで、自分からは動かないというだけに過ぎず、実質的には争いは始まっているのである。そして由紀子にも、当然ケンタローにも二人を止める為の名案はなかった。
ようやく巡ってきたレコード会社との契約のチャンスを前にほんとうにバンドは崩壊しようとしていた。
そのとき、不躾にスタジオのドアが開いた。背後からの雑音に全員がぎくりとして振り向いた。廊下の冷たい空気と自販機のうなる音が皆を驚かせた。由紀子は、また別の意味でも驚くことになる。なぜなら、丁度スタジオのドアを押し開いて事の状況をまったく反映しない表情で立っている、あの橘だったからだ。「どうして?」由紀子は声を発した。それだけではない、橘には不良少年が登場する少年漫画に少女コミックの登場人物が混ざってしまったように違和感があった。
「なんだお前は?」片や少年漫画の不良のようなヒロトである。
「はい、ご注文のピザをお持ちしました。お待たせしてすみません」まるで一家団欒の家族が待っている家庭にピザを届けるのと同じ口調で橘は言った。むしろそれが橘にとって普通の行いである。がしかし、橘の口調はこの場の由紀子たちの緊張感を逆なでする程に場違いな口調に聞こえた。
「頼んでねぇよ。そんなもの」ヒロトがそう言った。いつ殴られても不思議でない危機に直面しているのは、ただただピザを配達に来ただけの橘だった。
そのとき黙っていたケンタローが言った。「いや、俺が頼んだんだ。みんな腹が減るんじゃないかと思って」
「あ?」ヒロトの薄い唇が開いて3秒余り閉じなくなった。それを見て由紀子は、汗ばむ程に暑かったスタジオ内が、ぬるい空気に満たされていくのを感じた。